2章 復讐の刃 その1
ある日、夕食の片づけをしながら、ミシェルが話しかけた。
「ねえ、マレーネ。いつになったら、ローズ・ノワールになるの?」
「え?なんてこと言うのよ。」
「だって、さあ、もう半年近くもなってないじゃないか。みんな忘れちゃうよ。」
「いいのよ、忘れてもらったほうが」
「ちぇ、つまんないの。」
「それより、ルノーさんから貰った本はちゃんと読んだの?」
「ふぁい。」
マレーネはカトリーヌ夫人をつけ狙っていた。モランのように何か悪事を働いてくれれば、動きやすいのだが、その気配もなかった。召使に意地悪をしている程度では、ローズ・ノワールになる訳にも行かない。いっそ、館に忍び込むか。
次の夜、下町の屋根を走る影があった。影は、カトリーヌ夫人の紋章のついた馬車の屋根に飛び移った。何も気づかぬ馭者は、そのまま、カトリーヌ夫人の屋敷に入っていく。
天井に張り付き、柱を伝って、地下室や倉庫を調べる。金貨や宝石があるのは当然のことだが、何か不正の証拠でもないだろうか、マレーネは書類だなに目をやった。裏庭の方で人声がする。嘆願しているような声だった。足音を忍ばせて裏庭に降り、庭木の陰に入った。
「後生です。どうかお助けを。」モランだった。
哀れなものだ。火をつけられたとはいえ、並みの暮らしだったら、楽にできる蓄えなどあるだろうに。しかし、それに返答するカトリーヌ夫人の家来の顔に、マレーネは凍り付いた。あの男だ。間違いない、5年前、彼女の両親を殺害した仲間の一人だった。あの時、アンリ・フィリップの馬車が通りかからなければ彼女自身も殺されていただろう。仇を取るべきか、しかし、首謀者はカトリーヌ夫人なのだ。
しばらくモランは男に泣きついていたが、あきらめたのか、とぼとぼと帰っていく。男はモランが裏門から出る間で見ていたが、中へ入っていった。彼女も窓から中へ忍ぶ。闇に紛れて気配を消しながら、マレーネは、ラ・フォンテーヌ侯爵との剣の稽古と共に、ヤンという東洋の武術士から護身術を施されたことを思い出していた。
呼吸を整えて気を消すのです。無心になり辺りに溶け込むのです。マレーネ、特にあなたの殺気を・・・
ヤン老人の口癖だった。ヤン老人も随分私を可愛がってくれた。彼女は侯爵家にいたころのことを思い出していた。ラ・フォンテーヌ侯爵がなぜ、東洋の武術士を雇っていたのかはわからない。解らないといえば、ラ・フォンテーヌ侯爵はなぜ、自分を養女にしたのか、なぜ、下町の花屋の娘として育てさせたのか、自分の出生の秘密とは何なのだろう。解らないことだらけであった。
カトリーヌ夫人が入ってきた。いかにも高慢ちきな感じで、小間使いたちに冷酷だという噂は本当のことらしかった。マリー・アントワネットも似たようなものだろう。
「また、モランが来たのですか。」
「はい、奥様。」
「あのような者をいつまでも出入りさせたとあっては、こちらの恥になります。始末なさい。」
カトリーヌ夫人は平然と言った。父さんたちの時も、こんな風に言ったに違いない。平民の命をなんだと思っているのか。
「かしこまりました。奥様。」男は、一礼すると館を出て行った。何人かの手下とともに。
男たちは、馬に乗っている。夜道を急ぐモランの耳に、蹄の音が聞こえていた。
「こ、これはカトリーヌ夫人のご家来衆。」慌ててお辞儀をしている。
「気の毒だが、ここで死んでもらう。」
「お、お、お、お助け」
モランは、石を投げつけ、逃げ回った。滑稽なほど無様な姿であったが、助かりたい一心である。しかし、それも長くは続かなかった。やがて、彼は躓き転がった。男たちが剣を構える。
「わしが生きてると、奥方様に不味いので口封じか。」
「黙れ」
その時石つぶてが、男たちの利き腕に当たった。どよめきが広がる。殿についてきた黒服の男の手に石つぶてが握られている。
「何者だ、貴様?」
「利用するだけ利用して、後は始末ですか?平民にも命があります。」
「あっ、お前はあの時のサーカスの芸人。」モランが叫んだ。
「何!では、ローズ・ノワールとかいう泥棒か。」カトリーヌ夫人と話していた男が言った。
「そうです。あなたは、カトリーヌ夫人の命令で何人の平民の命を奪ったのですか。それに、モランには聞きたいことがあります。」
「黙れ!」
男の言葉と同時に、手下たちはローズ・ノワールという青年に飛びかかった。青年の左手が一閃すると、手下はゆっくりと倒れた。首筋に短剣が突き刺さっている。
「もう、あなただけです。」
逃げようとしたモランの足さきに短剣が刺さった。
男は剣を抜いて飛びかかってきた。この剣で父さんは殺された。母さんも。許さない。
ローズ・ノワールは、剣先をわずかの間合いでかわしながら、男の剣を図っている。男が踏み込んできた。僅かにかわし、自分の剣で、男のつばを思い切りたたく、男の剣が跳ねとび、モランの目の前に落ちた。
「さあ、」男の首筋に剣を突き付けながら、ローズ・ノワールは冷たい声で言った。「カトリーヌ夫人の命令で、誰と誰を手にかけたか言って貰いましょう。そしてモラン、」次に、腰を抜かしているモランに声をかけた。「紙とペンを持っていますね。」
「は、は、は、はい。」
「この男の言うことを書きとりなさい。」モランは震えながらペンを取った。
「モラン、あなたの言うまずいこととは何ですか。それも、声に出して書きなさい。」
「わかりました。ローズ・ノワール様、命ばかりはご勘弁を。か、カトリーヌ様のご領地の石高を二重帳簿にしてごまかしましたので、」
「その証拠はどこにあるのです。」男の首筋に剣を突き付けたまま、ローズ・ノワールは尋ねた。
「わ、私は知りません。」モランは震えている。
「では、あなたから聞きましょう。」
「ち、地下室の、ひ、左の部屋の、三番目の引き出しに入っている。」
「鍵は?」
「鍵は無い」
ローズ・ノワールは男に当て身を食らわせた。モランにも。
縛りあげた二人を馬の背に乗せ、夜の闇を彼女は疾駆した。下町のルノーの新聞社の玄関に二人を放り出し、モランの書いた調書を玄関の扉の隙間から中に押し込むと、馬を反転させる。夫人の館に戻り、首尾よく書類を盗み出したころには、夜もあけそうになっていた。急いで戻らなければ。馬を乗り捨て、店の天窓に忍び込んだとき、遠くで鶏の時の声がした。
「ローズ・ノワール、お早う。」ミシェルが声をかける。「ずるいや。手伝わせてくれるって言ったのに。」
「あんたには危険すぎるわ。そしたら、この書類、見つからないように、ルノーさんの新聞社に置いてこれる?」
「楽勝だい。でも、これ何?」
「二重帳簿よ。領民たちから搾り取ってた証拠よ。」
「ひでえことしやがる。貴族の奴ら。」ミシェルは走っていった。
その日は大変な騒ぎになっていた。ルノーの通報で、パリ警備隊がやってきて、モランと男を連行していった。その隙に、ミシェルは、新聞社の机の上に、書類を置いて来たらしかった。
次の日、ルノーの新聞を手に、人々がサミュエルの食堂に集まった。
「今回はついに、ルノーもローズ・ノワールを一面に書いただね。」サミュエル親仁がルノーにワインを注いだ。
「でも、題名は『カトリーヌ夫人、領民から2重取り』『口封じを狙う』だよ。ローズ・ノワールのことは、記事の中に出てくるだけじゃん。」ミシェルが口を尖らせた。
「ミシェルの言う通りだぜ、ルノー、『ローズ・ノワール八面六臂の大活躍』とでも書いてやればいいのによ。パレ・ロワイヤルの新聞なら」
「あれはゴシップ記事!」ルノーがむきになっている。
「そういやあ、パレ・ロワイヤルの新聞にはカトリーヌ夫人のことは載ってないだ。ローズ・ノワールの活躍も。どうしてだ?」サミュエルが不審そうだ。
「それは、カトリーヌ夫人が、反マリー・アントワネット派だからさ、」ピエールが話し始めた。「オルレアン公は、反マリー・アントワネットの急先鋒だし、そのため、僕たち平民に肩入れしてくれているんだけど、カトリーヌ夫人はプロヴァンス伯の仲間なんだ。プロヴァンス伯も、オルレアン公とは、別の派閥だけどマリー・アントワネット嫌いでは、二人とも似たような者だからね。仲間の悪口は、やっぱり書かせたくないんだろうな。」
ピエールの説明に、マレーネたちは感心したように頷いた。
「でも、そのおかげで、久しぶりに売れただ。」サミュエルが一人で頷いた。
「しかしなあ・・・」ルノーが憮然としていった。「これだけの事件になっても、カトリーヌ夫人は、お咎めなしだろうよ。」
「じゃあ、お前さんの記事も無駄だってことかい?」
「どうしてなの?」マレーネも思わず尋ねた。
「相手は貴族だ。領民をどうしようとそこの領主の裁量次第さ。今の法律ではね。」ピエールが言い、さらに付け加えた。「でも、僕はルノーの記事は大いに役に立ってると思うよ。民衆に貴族の正体を知らせることではね。」
「なんか、じれったいなあ。」ミシェルが思わず言った。
その時、店の扉が開いて、パリ警備隊の隊員が入ってきた。思わず全員が立ち上がる。
「おいおい、どうしたんだい?」
ユラン元隊長だった。空気が和んだ。