10章 秘 密 その2
蒼ざめた顔で立ち尽くすマレーネに、アンリ・フィリップが話しかけた。
「この印璽はまさしくロートリンゲン公国のもの、マレーネ、あなたは・・・」
「嘘です。信じません。私が、あのマリー・アントワネットと、父さん母さんが殺される原因を作った女と姉妹だなんて信じたくありません。それに、あのオーストリア女のせいで、みんなひどい目に遭っているんです。」
信じたくない。マレーネは外に飛び出した。
「マレーネ、待ってよ。マレーネ。」
信じたくない。しかし、ラ・モット夫人が自分を選んだ理由がはっきり分かった。雰囲気が似ている。その通りだ。半分だけとはいえ血のつながった姉妹ならば当たり前なのかもしれない。よりによって、あのスキャンダルにまみれたアントワネットが私の姉だったとは。知らなければ良かった。こんな事実なら知りたくなかった。侯爵家の庭に呆然と立ち尽くすマレーネの耳に声が聞こえてくる。
真実を暴いたとしても、誰も幸せにはならん。お前を含めてな
ヒューゴ・コルベールの言う通りだったのだ。マレーネは自嘲した.
侯爵家の厩から馬を出し、疾走させる。
森を抜け、緑の草原をひた走った。知らなければ良かった。知らなかったことにしたい。だが、事実は消せないのだ。ラ・フォンテーヌ侯爵の手紙、父親だというロートリンゲン公の認知書。心に焼きついてしまった事実はいくら払っても消えず、忘れ去ることもできない。父さん母さんがああなる前に、引き取っていてくれたなら、いや、侯爵が急死さえしなければ、自分には別の人生があったのだろうか。彼女は馬のたてがみに顔を埋め、眼を閉じた。
マレーネ・・・マレーネ・・・マレーネ
自分を呼ぶ声に、彼女は眼を開けた。いつの間にか手綱が警備隊員に握られている。マレーネは顔を上げた。ヒューゴ・コルベールの姿が眼に入る。今、一番会いたくない相手だった。
「暴れ馬で気を失うほど、未熟な腕とは思えませんが、侯爵令嬢。」いつもの皮肉な言い方から一変した口調になった。「何があった?マレーネ。とにかく、馬から降りるんだ。」
素直に降りなければ、抱きかかえても降ろされるだろう。マレーネは馬から降りた。
「酷い顔色だ。何があった。」
到底言えることではない。黙っているマレーネに、彼はさらに続けた。
「余程のことと見える・・・出生の秘密でもわかったか。」
なぜわかるのだろう。
「図星か・・・そうか・・・」
コルベールはしばらく黙っていたが、やがて命令口調で言った。
「腰をおろせ。」
言われるままに草原に座る。
「これを飲むんだ。一口でいい」
瓶を手渡された。
「これは?」
「ブランデーだ。毒じゃない。」
いっそ毒の方がましだ。マレーネは刺すような液体を飲んだ。いっそ飲み干してしまいたい。マレーネは瓶を男に返すと、男はそのまま、マレーネの隣に腰をおろした。
「なぜわかったのですか?」
「わかるさ。お前のことならば・・・」
放心した表情でマレーネは男を見る。
「どうやら、俺の言った通りになったようだな。」
マレーネは頷いた。
「私はどうすれば・・・」良いのだろう。
「事実は消せないさ。前に進むしかない。」
この男に何がわかるというのか、この男に、私の・・・
「何がわかるというの?何が?」
マレーネの眼から涙があふれ出した。涙と共に長い間抑えに抑えていた感情があふれ出した。激しい憎しみと恨み、その元凶がたった一人の肉親だと分かった時のやりきれなさ、哀しさ、そんな思いが、この警備隊長にわかるはずがない。彼女は地面に身を投げだし、両手で草を握り締めて、嗚咽した。私がローズ・ノワールになる前にわかったら、いや、あの首飾り事件の身代わりになる前だったら・・・私は、ピエールやルノーと同じ仲間だと信じていた。しかし、あの憎むべきマリー・アントワネットの異母妹だと分かった今、彼らと本当の仲間でいることはできない。そして、ローズ・ノワールである今、おめおめとラ・フォンテーヌ侯爵家に戻ることなどできようか。自分の居場所はどこにもないのだ。いっそこのまま消えてしまいたい。彼女は泣きじゃくった。
マレーネ・・・
男は、泣いている女に手を伸ばした。手は女に触れる前に力なく降ろされた。身も世もなく慟哭している姿に、抱きしめてやりたいという衝動にかられた。しかし、一度抱きしめてしまえば、それだけではすまなくなる。男も自分の激情を制御しかねていた。マレーネ、お前の知った事実はそれほど辛いものだったのか。お前の苦しみを、俺はどうしてやることもできないのか。
男は警備隊の外套をぬぐと、泣いている女をそれでそっと覆った。
どれぐらい時がたったのだろう。泣き疲れて、マレーネは放心している。起き上がると肩に警備隊の外套がかけられているのに気がついた。そして、ヒューゴ・コルベールが隣に座っていることにも。
「そのまま着ていろ。体が冷えずに済む。」
そっけない言い方だった。彼女は、涙にぬれた顔をハンカチで拭いた。
「お前は独りで我慢し過ぎだ。そんなにつらい秘密なら、いっそ懺悔でもしたらどうだ。」
彼女は首を振った。こんな秘密、例えローマ法王にも言えるはずがない。
男は彼女を抱き上げ自分の馬に乗せた。そして、自分も鞍にまたがると前に乗せた彼女を支え、口笛を吹いて、侯爵家の馬を呼んだ。二人とも、そう、ヒューゴ・コルベールも気がつかなかった。ミシェルが一部始終を見ていたことを。
二人が侯爵家についたころには、夕暮れになっていた。アンリ・フィリップが屋敷から飛び出してきた。一日さがしても見つからず、途方に暮れていたようであった。コルベールは、暴れ馬に振り回されていたところを助けたと、短く説明すると、帰路についた。
警備隊本部に帰ったコルベールは、その日一日隊長室から一歩も出なかった。次の日、マシュー・マルソーは、隊長から一つの命令を受けた。Fを連れてくるようにと。
Fは、コルベールが放っている密偵の首魁であった。彼のスパイ網によって、下町の様々な情報が、コルベールに入ってくる。先だってのコルシカの反乱分子の一件もそのスパイ網の探知したことだった。マルソー達警備隊が、パリの表の治安を司るものなら、Fは裏のものであった。Fはすぐにやってきた。痩せた顔色の悪い若い男であった。この男のどこに、そのスパイ網を動かす力があるのかマルソーにはわからない。
「およびだそうで。」Fは無表情に言った。
コルベールは黙って一枚の紙を渡した。男は目を通すと、燭台の火に紙を当てる。炎が一瞬燃え上がり、すぐに消えた。紙は黒い灰となり、すぐに四散した。
「少しお時間と・・・」
そういうFにコルベールはリーブル金貨がずっしりと入った袋を渡した。
Fは一礼すると、静かに隊長室を出て行った。




