9章 三部会へ その3
全部ばれていたのか、ここまで来て。ピエールは唇をかんだ。警備隊がぐるりと馬車を取り囲み、銃を構えている。
「ミラボー伯、ラヴォアジエ徴税人、脱走の重罪人と何のお遊びですかな。」コルベールが厭味ったらしく言った。
ピエールが見つかってしまっては、さすがのミラボーも言葉が出ない。
「ピエールを引き立てろ。」マルソーの声がした。
「待て。」低い声がした。
振り返った警備隊員たちの目に黒尽くめの騎士の姿が映る。
「あ、ローズ・ノワール。」
「警備隊員たちに言います。あなた方も第3身分の人間なら、なぜ貴族に加担するのですか。皆の生活が苦しいのは、貴族たちのせいでしょう。」
その言葉に、隊員たちは動揺した。
「黙れ。ローズ・ノワール。貴様に政治の何がわかる。」コルベールが怒鳴りつけた。
「今のうちに逃げなさい。早く。」ピエールたちの馬車に叫ぶ。
馬車が走り出した。隊員たちが銃を構えた。その時、どこからか石が飛んできた。いつの間に集まったのか顔を黒い布で覆った群衆たちが警備隊を取り巻いている。彼らは罵声を浴びせながら、石や棒、食器のかけら、果ては生ごみまで投げつけ始めた。
「警備隊を馬から引きずりおろせ!!」「ぶっ飛ばせ!!」
雨あられと降る石や棒切れのなか、警備隊もローズ・ノワールも立ち往生した。
「このままでは収拾がつきません。」
「うろたえるな!銃列を敷け。」
「わかりました。」
銃声が響く。幸いにも空に向けられていた。だが、人々が逃げ出す。ようやく通りは静かになった。その間に、ピエールたちは逃げ去ったのだろう。馬車の影も音もしない。
「隊長、ピエールたちは?」
「馬車は逃げ去りました。もう、お帰りなさい。」
ローズ・ノワールのこの言葉にヒューゴ・コルベールの怒りが爆発した。
「ことごとく、邪魔をしおって。ローズ・ノワール、今日こそ、貴様の死に顔を見てやる。」
ヒューゴ・コルベールは、剣を抜いた。凄まじい殺気だ。騎馬のまま、ローズ・ノワールの馬に突撃してくる。馬上で斬りあううちに二人とも路上に降り立った。この男には勝てない。彼女は死を覚悟した。斬り込んでくる男の剣をわずかな間合いでかわす。近づき過ぎれば、あの時と同じ、攻撃が待っているだろう。もう、自分を守ってくれる兜はないのだ。何とか間合いをとらねば。ローズ・ノワールは、防戦一方になりながら、形勢逆転のチャンスを狙った。橋の元に木がある。枝に飛び移れば・・・
彼女は鞭を一閃し、枝に絡みつかせた、枝がしなる。その反動を利用して彼女は飛び上がった。同時に男の鞭が彼女の片足に絡みつく。木のしなりと男の引く力に、体がばらばらになりそうだ。そう思ったのも一瞬だった。男の短剣が彼女の鞭を切断した。ローズ・ノワールは、悲鳴を上げると、転落した。逆さになったまま川面の上に宙づりになる。
「ローズ・ノワールもここまでだな。」ヒューゴ・コルベールは嘲った。
欄干を左手で掴み、右手で宙づりになった怪盗を捉えた鞭をゆっくりと引き上げ始める。その時、石の欄干に亀裂が走り、コルベールがバランスを崩した。二人は悲鳴を上げながら、落下した。
「隊長!」「隊長!」警備隊員たちの悲鳴が聞こえる。
下は増水したセーヌが滔々と流れている。
激しい流れに巻き込まれながら、ローズ・ノワールは、必死に泳ぎ、ようやく水面に顔を出した。ヒューゴ・コルベールは?見回しても姿がない。再び、潜る。不自然に身を縮めながら沈んでいくのが見えた。こむら返りだ。このままでは溺れてしまう。ローズ・ノワールは、彼の腰のベルトを後ろから掴むと海面に向かって泳ぎ始めた。
何度も溺れそうになりながら、ようやく川岸にたどり着く。重い男の体を引き上げ、揺さぶると、幸い水を吐き出した。首筋に触れる。しっかりとした拍動が伝わってくる。口元に顔を近づけると、荒い呼吸が感じられた。まだ生きている。とにかく、濡れた服を脱がし、火を起こさなければ。300ピエ(フィート)ほど離れたところに、水車がみえる。あそこならば暖が取れるだろう。ローズ・ノワールは、男を担いで歩き始めた。しかし、半分も歩かないうちに力が入らなくなる。体が冷たくなり、意識が遠のいた。いけない。このままでは。目の前に紫のカーテンが下りてくる。
ぱちぱちという音に彼女は目覚めた。暖かい寝床にいるようだった。ピエールの仲間が助けてくれたのだろうか。そうだ、仮面!思わず顔に手をやる。つけたままだ、彼女は安堵した。
「素顔を見られる方が、素肌を見られるより、屈辱的か、ローズ・ノワール?」
ヒューゴ・コルベールの声がした。眼を見開き辺りを見回す。その時、彼女は覚った。自分がヒューゴ・コルベールの腕の中にいることを、そして二人とも一糸まとわぬ姿になっていることを。
激しいショックに気が遠くなりそうだった。この男に貞操を奪われてしまったのか。いっそ殺してくれた方が、ましだった。ショックで蒼ざめた彼女を見て、警備隊長は苦笑した。
「俺はお前に指一本触れちゃいない」
そんなはずはない。蒼い顔の彼女を見ながら、彼は続けた。
「気を失った女なんぞ、丸太と同じだ。そんな女を抱く気も起らんよ。」
灰色の眼に見つめられ、彼女は男の言うことを信じたいと思った。
「顔色が良くなった。」
男が話しかけ、彼女を抱き直した。
「このまま、休もう。意識が戻っても、急に動くと心臓が止まってしまうことは多いんだ。」
彼女は頷いた。薪の跳ねる音だけが聞こえる。時が止まってしまったようだった。顔を上げると、男と目が合う。
「なぜ、俺を助けた?放っておけば死んだはずだ。」
「どうして私を助けたのです。放っておけばよかったのに。」同時に言葉が出た。
二人とも吹きだした。同じことを考えていたなんて。
「二度も助けてくれたお前に、こんなところで死んでほしく無かった。」
「私も、あなたに死んでほしく無かったんです。」
「後で後悔するぞ。」
「そう思います。でも今は」
その後は、二人とも黙ってしまった。火よりも互いの温もりの暖かさはこれほど心地よいものなのだろうか。




