7章 首飾り事件 その8
「よう、ルノー、おめえの新聞は相変わらず、しけた記事しか書けねえのかよ。」
食堂では、相変わらず常連がルノーにぼやいている。マレーネは窓際の花を代えながら、ため息をついた。殆ど原価とは言え、サミュエルには負担らしい。注文も半減してしまった。せめて、少しでも持つ花を、そして生活に疲れた人々の憩いになるように、マレーネは花に祈らずにはいられない。
「いつも大変だなあ。マレーネ。今日は何にしたんだい?」珍しくルノーがねぎらった。
新聞が売れなくて生活が厳しいのはルノーも同じはずだった。
「カスミソウと黄色いキクとピンクのスィートピーよ。どれも、持ちがいいの。カスミソウとキクはドライフラワーでもお店を飾れるわ。でも、ルノー、ラ・モット夫人の話を随分抑えて書いてるけど、本当に弁護士さんに言ったことなんでしょう?」
「ラ・モット夫人の言葉だったとしても、それが真実かどうかはわからない。ゴシップ誌なら尾ひれをつけてもいいさ。新聞となれば真実だと裏が取れない限り・・・」
「ラ・モット夫人が言ったことでもダメだか?」
「そうさ、サミュエル親仁、嘘かもしれない。自分を庇うために、だから証拠が必要なのさ。記事でも、裁判でも、」
「このままだと、裁判はどうなるのかしら?ルノー?」
「うん。ロアン大司教もラ・モット夫人も無罪じゃないかな、証拠不十分で」
「じゃあ、アントワネット王妃は、どうなるの?」
「この噂だけが独り歩きして、もっと評判が落ちるだろうさ。しかし、バカな王妃だ。ラヴォアジエさんもいってたけど、穏便にしておけばよかったのに。」
「じゃあ、ますます嫌われるってこと?」マレーネはほくそ笑んだ。
「いや、その程度じゃすまないかもしれない。」ルノーは難しい顔をした。
「じゃあ、どうなるの?」
「うん。解らないけど、もっと、大事件になるかもしれない。上手く言えないけど、そんな予感がするんだ。」
「ルノー、お前さん何時から占い師になっただ?」サミュエルがからかった。
その夜、いつもの通り、天窓から抜け出し森に走った。枝から枝へ飛び移り、短剣に見立てた金属の棒を的に投げる。木の上で剣の稽古をしながら、ローズ・ノワールの口元に笑いが浮かんでいる。今夜はこのぐらいにしよう。気の抜けた稽古をすれば、ケガでは済まない。枝に身を横たえながら、ローズ・ノワールは、含み笑いをした。こんな痛快なことはない。マリー・アントワネットに、父さん母さんの恨みを晴らしたいと常々思っていた。しかし、相手はヴェルサイユ宮殿やトリアノン宮殿の奥深くに住んでいる。到底、一介の盗賊が叶う相手ではない。そう思っていた。しかし、こんな思いがけない方法で仇にダメージを与えられるとは。しかも、自分は首謀者ではない。ローズ・ノワールとしてマリー・アントワネットをどうこうした訳ですらないのだ。首謀者はあくまでもラ・モット夫人。警備隊も彼女に言いように振り回されることだろう。ヒューゴ・コルベールとて、真相に近づくことはできまい。せいぜい振り回されることだ。そう思うと、また、忍び笑いが漏れた。
ついにロアン大司教の裁判が始まった。ロアン大司教の一族は、身内の無罪を晴らすべく、独自の捜査を行ったのだが、それは、パリ警備隊の操作を裏打ちするものとなった。ロアン大司教は、警備隊長に感謝の意を述べた。
「あなたが、指揮を取ってくれて本当に助かりました。何とお礼を申し上げてよいか。」
「我々の仕事は、犯人を見つけることです。」コルベールはそっけなく言った。「裁判で決着がつきましょう。」
ロアンは頷いた。大貴族の名誉に賭けて、最高の弁護士を雇ったはず、勝算は十分あるのだろう。コルベールはそう思っている。
パリの市民たちも、裁判所の外に連日詰めかけた。塀を掴みながら、人々は裁判の行方をかたずをのんで見詰めている。
ロアン大司教は、無罪だぞ。ラ・モット夫人も利用されただけだ。真犯人は別にいる。あいつだ。あのオーストリア女だ。あいつこそ裁判にかけろ。あの女を監獄にぶち込め。
「ラ・モット夫人、あなたは、王妃のご友人と言われるが、どのような関係なのか?」法廷で検察官が尋ねた。
「はい、特別な友人でございます。」ラ・モット夫人は悠然と答えた。
「特別なとは?」
「もちろん、特別でございます。」
「その特別とは何か?」
「あ、その、じつは・・・レスボス風(同性愛)でして・・・」
その言葉に、傍聴席からどよめきが広がる。
何と言うことだ。アンリ・フィリップは、茫然と聞いている。王妃がポリニャック伯夫人とそのような関係と聞いたことがあるが、噂は誠であったのか。しかし、このような卑しげな女とまで・・・
「どう思われます?」アンリ・フィリップは、隣に座っている若者に尋ねている。
「そうですね・・・多分、偽証でしょう。世の中には、ついた本人も真実だと思いこむ性格の人間がいると聞きますが、ラ・モット夫人もそのタイプなのでしょう。問題は、彼女の偽証を裁判官がどう判断するかでしょうね。」青年は淡々と言った。
アンリ・フィリップは、頷きながらも不安に駆られた。出鱈目とは言え、このような恥ずべきスキャンダルが公表されているのだ。王妃の権威どころか、王室そのものが危うくなりかねない。
「では、ラ・モット夫人。王妃はその特別な関係ゆえに、高額の首飾りをあなたに託したと言われるのか?」
「何度も申しあげましたが、その通りでございます。」あくまでも優雅に、ジャンヌは答えた。
大した女狐だ。あの女賊め。ヒューゴ・コルベールは傍聴席の端に立ち、法廷を見つめながら考えている。裁判官も、あの女賊が、出鱈目を言っているのはわかっているはずだが、証拠がない。どう判断をつけるのか。
審議が行われ、連日、パレ・ロワイヤルの新聞にラ・モット夫人の供述が載った。夫人はアントワネットの同性愛相手であり、それで、詐欺の片棒を担がせられた。人々はそれを信じた。
そして、1786年5月、判決が下った。真夜中になっていたが、裁判所前の大群衆に向かって、判決文が読み渡された。
判決
ロアン大司教・・・無罪 娼婦ニコル・・・無罪
ヴィトー・ド・ヴィレット・・・国外追放 ラ・モット夫人・・・主犯として焼鏝の刑
判決文を聞くために、一瞬水を打ったような静けさに包まれた群衆は、次の瞬間、鬨の声を上げた。
「万歳!!!ロアン大司教、万歳!!!」
群衆が歓呼の叫びをあげた。男も女も踊り狂った。
現れた大司教に、人々は万雷の拍手と歓呼の声で迎えた。
後日、ロアンはその日、見ず知らずの群衆の大歓声に迎えられ、大変、当惑したと語っている。
「万歳!!!」「高等法院、万歳!!!」「オーストリア女を監獄へ!!!」「160万リーブルの首飾りはあの女が持ってるぞ!!!取り返せ!!!」
正義の鉄槌は下されたのだ!
オーストリア女は、無実の大司教を陥れようとして、今までの罪を暴かれた!
今度は、あの女を法廷に引きずりだせ!




