7章 首飾り事件 その6
「なんか。すげえ騒ぎになってるそうじゃねえか。」
サミュエルの食堂で、常連たちがルノーに尋ねている。花をいけ終わったマレーネもテーブルについた。
「いったい何があったの?ルノー。」
「よくまだ解らないんだが、ロアン大司教が首飾りを、アントワネットに頼まれて代わりに買ったんだそうだ。その代金が支払われないんで、宝石商が王妃に直訴して、ロアン大司教がかかわってるらしいと分かり、王妃が怒って逮捕させた。今はっきりしてるのはここまでさ。俺の新聞には書いたけどね」
「なんで、アントワネットが怒るだ?」
「ロアン大司教が王妃の名を騙って宝石をだまし取ったと思っているらしい。」
「それはおかしいだ。」サミュエルがきっぱり言った。
「どこがおかしいの?小父さん。」
「ロアン大司教は大金持ちだ。金が腐るほどある人間が、アントワネットの名前を騙るはずがねえだ。そんなにほしけりゃ、自分で買うだ。」
「でも、パレ・ロワイヤルの新聞じゃ。160万リーブルだって話だぜ。」
160万リーブル!!見当もつかない金額に皆口を開けている。
「おら、1リーブルだって見たことない。アリサがこの前、恵んでもらった2スウが、俺が見た一番たけえ金だ。」デュランが呆けたように言った。
「そのなけなしの2スウを飲んじまったのは、おめえだろうがよ。」周りがはやし立てた。
ラヴォアジエが入ってきた。
「よう、ラヴォアジエ先生、デュランの奴、せっかく恵んでもらった2スウを飲んじまったんだよ。」
一人が言うと、ラヴォアジエは、困ったような顔をした。
「いけませんねえ。そう言う『贈り物』は、いざというときのために貯めておかないと。」
「それができたら、デュランもこんなとこで燻ってねえだ。」サミュエルは容赦がない。
「ねえ、ルノー。ピエールにこのことを知らせたら?」マレーネはルノーに頼んだ。ピエールなら、きっと、王政の腐敗を突く論説を展開するに違いない。
「うん。そうするつもりだ。」
「しかし、困ったものです。」ラヴォアジエはまた額の汗を拭いた。「逮捕だ裁判だなどと、王妃様も大騒ぎせず、陛下に任せて、穏便に処置をした方がずっと良かったと思います。」
「なんでだよ?」
「サミュエルの親仁さんの言う通りで、ロアン大司教がだまし取ったとはとても思えません。ロアン大司教は、王妃様に嫌われているのを大変気にしていたそうです。その人がわざわざ相手を怒らせるようなことをするでしょうか?何か裏があって、その裏がはっきりするまで表ざたにすべきではなかったと思います。それこそ、コルベール隊長にでも調べてもらってからの方が」
「先生は、コルベールを随分買ってるだ。鞭打たれたり、放り出されてるわりにゃだ。」
「なにしろ、次の隊長には、殺されるところでしたからね。麻袋に詰め込まれて・・・ローズ・ノワールが来てくれなかったら・・・」
「そういやあ、ローズ・ノワールは、女だって、マシュー・マルソーの奴も言ってたが、女にあんなことができるかねえ」
その後は、ローズ・ノワールの話題で盛り上がった。日々の生活に追われている人々にとって、現実を忘れさせてくれるものなら何でもよかったのだ。
その夜更け、マレーネは天窓から外に出た。ローズ・ノワールの影が、夜の街を走る。森の木に飛び移り、枝から枝に身を預けながら、彼女の口元から忍び笑いが漏れた。それは、次第に大きくなり、辺りに響き始めた。ラ・モット夫人にしてやられたのなら、放っておけばよいものを。バカな女だ。ローズ・ノワールは、枝に身を任せながら、笑いが込み上げてくる。ロアン大司教には気の毒だが、大いに注目の的になってもらおう。彼が有罪でも無罪でも、マリー・アントワネットもただでは済むまい。いい気味だ。ローズ・ノワールは、また笑った。その声が、夜の森にこだまする。
「女の声がしますね。」
「こんな真夜中に?」
「幽霊じゃないですか?マルソー副官。」
「バカなことを言うな!木のこすれる音だろう。」
マルソーの一隊は、夜の森を探索していた。灯り一つない森の中は、深い闇に覆われ、すぐぞ場にいる隊員たちの顔もよく見えない。このような気味の悪い所に、誰も長居はしたくないだろう。マシュー・マルソーもそう思っている。しかし、恐怖よりも、この前の銃声と殺されたならず者たちのことが気になっていた。ナイフを使った手口から、ローズ・ノワールがかかわっていることは明らかだった。しかし、今回はいつもとは違う。ヴィレットという男も、主人のラ・モット夫妻も、特に平民たちとのトラブルはなかった。では、なぜ、あの義賊が動いたのか。犯行現場に何か、手掛かりはないだろうか。これで何回目になるだろう。しかし、見つけられたのは、1台の馬車のわだちの跡、待ち伏せていたらしい複数の人物の足跡、だけだ。おそらく、殺された連中は、ヴィレットが馬車で運んできた何かを待っていたらしい。では、何を。それがわかりさえすれば。しかし、なんどやっても結局は堂々巡りになってしまうのだ。考え込んでいるマルソーの耳にも、か細い女の声が聞こえてきた。フクロウかムササビの類だろうと思っても、やはり薄気味の悪いものだった。マルソーは探索を打ち切り、隊員たちと帰路についた。
「どこに行っていたのかね?マルソー副官。」刑務大臣に呼び出されたはずのヒューゴ・コルベールが戻っていた。
「ヴィレットが襲われた一件の現場検証に、」マルソーはしどろもどろになった。
「こんな真夜中にか?」
「はい、犯行時刻と同じ時間帯に行けば何か得られるかと思いまして。」
コルベール隊長は笑った。
「で、何か見つかったのかね?」
「何も見つかりませんでした。森の中から女の声のような物音が聞こえ、隊員たちは幽霊だと言い出す始末で・・・」
「女の幽霊か・・・」コルベールはつぶやいた。
コルベールには珍しく、疲れの見える顔になっている。
「コーヒーでもお持ちしましょうか?」
「いや、いい。それより、明日からお前たちの隊は、ロアン大司教を取り調べてくれ。」
「よ、よろしいのですか?そんな事をして?」
マルソーは呆然とした。貴族を警備隊とは言え平民が取り調べられるとは思えない。
「アントワネット様、直々のご命令だそうだ。まあ、刑務大臣殿も随分困惑していたがな。」
次の日、マルソーは早速、バスティーユに放り込まれているロアン大司教を取り調べた。ロアンは、マリー・アントワネット王妃が、件の首飾りを欲しがっていたこと。代理人として自分が首飾りをベーマー商会から買い取り、王妃のお友達のラ・モット・ド・ヴァロア伯夫人に渡したこと、さらに、160万リーブルは自分が払うからベーマーにも告訴を取り下げてほしいと要求し、ベーマーも承知したことをぺらぺらと話した。その足で、ベーマー商会にも行ったが、ベーマーの話も、ロアンと全く同じであった。
「どう考えても、ロアン大司教が宝石をだまし取ったとは到底信じられません。」報告をしながら、マルソーは思わず付け加えた。
「ロアン大司教は、無罪だ。むしろ詐欺の被害者だよ。」コルベールも苦笑した。「アントワネット王妃は、彼を有罪にして監獄にぶち込みたいらしいがな。」
「これからどうされるので?」
「真犯人を捕まえる。」
「はあ?」
「わからんのか?ラ・モット夫人だ。王妃のご友人の。」
「えええ?」
マルソーは絶句したが、ヴィレットがローズ・ノワールとかかわりがある以上、ラ・モット夫人が盗賊と関係があってもおかしくないのかもしれない。
「すぐ、ラ・モット邸を取り囲め。マシュー・マルソー。」
ラ・モット邸はもぬけの殻だった。マシュー・マルソーは、くまなく邸内を捜索し、隠し扉の向こうに、書類を偽造するときに使われるすりガラスのついた仕掛け机を見つけたが、それ以外は何も見つからなかった。
「間一髪でしたね。姐さん。」御者台からヴィレットが声をかける。
「まさか、平民相手のパリ警備隊まで現れるとは思わなかったねえ。」ジャンヌは高笑いした。「ルクセンブルクまで逃げて、そのあと、アントワープからイギリスへ逃げれば大丈夫だからね。」
「でも、なんで姐さん、ルアーブルに行かねえんすか?近いのによ。」
「ばかだねえ。高跳びするんなら、ルアーブルだろうと、警備隊も踏んでいるはずさ。」
ルクセンブルクへ馬車を急がせるラ・モット夫人たちの前に、騎馬隊が立ちはだかった。パリ警備隊の制服を着ている。動揺するヴィレットを眼で制止し、ジャンヌは、指揮官らしい男を待った。
「どういうおつもりで、わたくしの馬車をお止めになるのですか?」ジャンヌは優雅に尋ねた。
「ジャンヌ・ド・ラ・モット・ド・ヴァロア伯夫人、160万リーブルの首飾りの重要証人として、御同行いただこう。」冷ややかな声だった。ヴィレットは震えが止まらない。
「わかりましたわ。でも、せめて指揮官のお名前ぐらい名乗ってくださいませんと・・・」ジャンヌは嫣然と微笑んだ。数多くの男たちを篭絡した笑みである。
「私は、パリ警備隊指揮官ヒューゴ・コルベール。」にこりともせずに警備隊長は言った。「その御者は、私のことを知っているようだな?ヴィトー・ド・ヴィレット君。」




