7章 首飾り事件 その4
今日もマレーネはラ・モット邸から戻ってきた。誰も居ないはずの家に灯りがともり、香ばしい匂いが漂っている。
「マレーネ。お帰り。」ミシェルだった。
「随分早かったわね。」
「うん、今日はテストだったんだ。数学の。早くできたものから帰って良かったから、さっさと帰ったんだけど、マレーネ、いないんだもん。」ミシェルは口を尖らせた。
「あんたはなんだか、1日単位で背が伸びるようよ。もう、私の肩ぐらいになって」
「シチューをつくっといたよ。肉入りの。でも、こんな贅沢して大丈夫?」
「ええ、ちょっと訳ありのお客さんがついたの。」マレーネは声を潜めた。
ミシェルと食卓を囲むのは6日ぶりだった。でもそれがマレーネには半年ぶりのような気さえする。
「ああ、ミシェルの食事は美味しいわ。」
「マレーネが不味すぎるんだよ。」
マレーネは頬を膨らませ、ミシェルが噴き出した。
「それよりさ、訳ありのお客さんて?」
「私を誰かの身代わりにさせようとしているらしいのよ。ロアン大司教もかかわってるらしいの。こんなにお金ももらったわ。」
「じゃあ、ローズ・ノワールの出番かい?」
マレーネは首を横に振った。
「何でさ?」ミシェルがシチューをほおばりながら聞いた。
「ラ・モット夫人も仲間のヴィレットも私たち下町の人間には何もしてないわ。ヴィレットなんか、お店に花を買うついでに、アリサに自分のハンカチ1枚洗わせて、2スウも渡してたわ。」
「ひょ~~。気前いいじゃん。」
「あの人たちが、私を使ってロアン大司教に何をしようと、関係ないわ。」
「でもさ・・・口封じってことも」
「十分考えられるわね。」
「その時は?」
「ローズ・ノワールの出番よ。」
「僕にも手伝わせてよ。」
「あんたは学校があるわ。多分、平日に呼び出されると思う。」
「手伝わせてよ。」
「ええ、頼むわ。」
ある曇った日の夕方、マレーネはいつもの通り呼び出された。おそらく決行するならば今日であろう。ローズ・ノワールの、闇の世界に身を置いたものの勘が、マレーネにそう言っている。
「今日は来てもらいます。高貴なお方のところへ。」
さすがのジャンヌも緊張した面持ちだ。マレーネは頷いた。
馬車は優雅に進んでいる。しかし、行く先が分かった時、マレーネも驚いた。ヴェルサイユ宮殿。ロアン大司教の館ではないのか。私は誰になりすますのだろう。豪華な衣装に身を包み、帽子を優雅にかぶりながら、マレーネは不安に包まれている。
「落ち着きなさい。大丈夫ですよ。あなたはただ、わたくしの言った通りになさればよろしいのですから。」ラ・モット夫人は優しく言葉をかけた。
その日は、闇夜だった。そう、怪盗が跋扈するにはふさわしい夜だ。ローズ・ノワールことマレーネはそう思った。ヴェルサイユ宮殿の薔薇の小道と呼ばれるところに、その高貴なお方はいる。その方に、ピンクのバラを手渡し、「わたくしの気持ちはわかっておりますね。」というだけだ。ジャンヌはマレーネにそういった。私は、ラ・モット夫人の指示通りに動くだけだ。
ロアンは、ラ・モット夫人から言われた通り、薔薇の小道で待っていた。闇夜で人通りも殆ど無く、一人で待つのは心細かったが、王妃様からお言葉をいただけると思うと、それだけで恐怖も消し飛ぶほどであった。やがて、女がやってきた。一人は、ラ・モット夫人だ。そして、もう一人は・・・
ロアンは、王妃からバラを手渡され、お言葉をかけてもらい、天にも昇る心地である。貴族らしく片膝をつき、ドレスの裾に口づけをしながら感謝の言葉を長々と述べた。他人の気配がしたので、ラ・モット夫人は王妃を連れて行ったが、ロアンの手には、王妃の香水の芳しい香りが残っている。おお、麗しきマリー・アントワネット様、160万リーブルなど、このロアン、進呈いたしましょう程に・・・
「本当に何と感謝して良いか、マレーネ。おかげで何もかもうまくいきました。」帰りの馬車のなかでジャンヌは満足そうに微笑んだ。
「あれでよかったんですか?」マレーネはおずおずと聞いた。
「ええ、これであの方も、わたくしのお友達も助かります。お友達はやはりさる高貴な方なので、お会いすることが叶わなかったのですわ。」
「今日は、ラ・モット邸に泊まりなさい。マレーネ。」ヴィレットも重々しく言った。
「いいえ、花の仕入れがありますので。」
「そう、じゃあ、お代をはずみなさい。ヴィレット。」ラ・モット夫人はかなりの額をマレーネに渡した。
「わかってると思うが、この事は口外無用。そして、ラ・モット邸に出入りするのも、今日限りということで。」
マレーネは頷いた。口封じにしては十分すぎるほどの額だ。悪党たちではあっても、人殺しまでは考えていないのかもしれない。
荷馬車でブラン商会に戻る。この大金をどうしよう。その時、天窓に音がした。思わず身構える。
「ローズ・ノワール、全部終わったの?」ミシェルが天窓から入ってきた。
「まあ、学校はどうしたのよ?」
「寄宿舎抜け出してきた。」
「ばれたらクビよ。」
「平気、平気、上級生たちも抜けだしてるよ、毎晩。ねえ、何やったの?」
「ロアン大司教とあったのよ。ヴェルサイユ宮殿で。」
「ええっ?入れるの?」
「だから、ラ・モット夫人と一緒にこっそり入ったわ。」
「ばれなかったの?」
「あれだけ人がいるんだもの。一々誰もチェックしてないわよ。」
「で、なにやったのさ?」
マレーネは一部始終を話した。ロアンの間抜け面を思い出すと噴き出してくる。
「マレーネをその誰かと間違えたんだ。ばかだなあ。」
「まあ、ロアン大司教も大バカなんだけど、それだけラ・モット夫人がうまかったのよ。あの人、天才的詐欺師だわ。」
「ローズ・ノワールとどっちが上かな。」
「ラ・モット夫人でしょうね。私にも誰の替え玉か一切言わなかったから。」
「いったい誰に化けたの?」
「わからないわ。かなり高貴な貴族だろうってことだけね。探りたければ、ローズ・ノワールとして忍び込むしかないわ。」
マレーネは忍び込むつもりでいた。自分を巻き込んだなりすまし事件の顛末を、怪盗ローズ・ノワールとして確かめたくなったのだ。
ラ・モット邸に、夜の闇に紛れて影が走る。ローズ・ノワールは天井裏に潜み、ジャンヌたちの会話を聞いていた。
「すげえ、これが160万リーブルの首飾りっすか。」
燭台の光を反射して燦然と輝くダイヤの首飾りがあった。
「ニコラス、あんた、これをすぐバラバラにして、ロンドンに行って、売りさばいておくれでないか。」ジャンヌが夫のラ・モットに話しかけている。
「それは構わねえが、ジャンヌ、おめえも早くずらがったほうが良いんじゃねえか?」
「いま、トンずらしてごらん。ロアンもベーマーも疑うさ。だからあたしは残る。ヴィレット、お前もだよ。」
「わかったっす。姐さん。」
「それより、ジャンヌ。おめえあの小娘、どうするつもりだ?」
「バラしちまったほうがいいんじゃねえすか?後後のためにもよ。」
「小娘は放っておきな。」
「なんで?」男二人は同時に言った。
「娼婦でもない、素人の小娘、何もできやしないよ。それに、下手にバラしたら、それこそ警備隊さ。いいかい?あんた、ヴィレット、あたしが良いって言うまで、下手打つんじゃないよ。」
大した女賊だ。ローズ・ノワールは感心している。舌先三寸でロアンもベーマーも手玉に取ったと言うわけか。しかし、160万リーブルの首飾りとはケタが違い過ぎる。私がなりすました相手は、ただの貴族ではないのかもしれない。ベーマー商会は一体誰に売ったのか。花屋のマレーネとしてベーマー商会に行くことはもうできない。ラ・モット夫人一味を刺激しかねないからだ。
次の夜、ローズ・ノワールはベーマー商会に忍び込んだ。主のベーマーの顔色もつややかだ。
「いやあ、ロアン大司教が証人になって王妃様に買っていただけた。これで、倒産しなくて済む。」
「デュバリー夫人の首飾りの上、国王も渋い顔をなさってたというから、私たちも不安で一杯で」主と使用人たちの会話が弾んでいる。
自分のなりすました相手が何者かわかって、ローズ・ノワールは放心している。よりによって仇のマリー・アントワネットとは。養父母の仇、平民の怨嗟の的、その女と自分が似ているとは、他人の空似とは言え、不愉快極まりなかった。しかし、似ているのは雰囲気と姿かたちだけだ。雰囲気が似ているのは、私がラ・フォンテーヌ侯爵家で行儀見習いをされられたからであろう。そう、マレーネは自分を慰めた。
自分の部屋のベッドで身を横たえ、マレーネはラ・モット夫人の手腕を思い起こしていた。160万リーブルの詐欺とは言え、結局闇から闇に葬られ、王妃もロアン大司教も、素知らぬ顔で日々を暮らしていくのだろう。怪しげな金とは言えヴィレットが与えた2スウで、デュラン親子は、数日は食つなぐことができる。アリサも少しは休めるだろう。ピエールにこの話ができたなら。彼なら明快な文章で、王室と貴族の腐敗を暴くことだろう。しかし、それはマレーネにとって自分が怪盗ローズ・ノワールだと証明することに他ならなかった。




