7章 首飾り事件 その3
ローズ・ノワールは知る由もなかったが、ロアン大司教とジャンヌ・ド・ラモット・ド・ヴァロア伯夫人がパレ・ロワイヤルで出会ったことから、この舞台は回り始めた。
ロアンはマリー・アントワネットから毛嫌いされていた。理由は単純なものだった。放蕩者のロアンを、母親のマリア・テレジアが嫌っていたからである。母親が嫌っているから娘も、ロアンを嫌った。しかし、フランスの大貴族であるロアンと王妃マリー・アントワネットはヴェルサイユでしばしば顔を合わせるようになる。王妃はロアンを露骨に無視した。デュバリー夫人の時と同じである。そのうち、王妃はトリアノン宮に引きこもり、ヴェルサイユには殆ど顔を見せなくなった。ロアンと顔を合わせたくないからだろうと宮廷ではもっぱらの噂となった。さすがのロアンもこのうわさには参って、ヴェルサイユを辞し、パレ・ロワイヤルを訪れるようになった。そんな折、謎めいた黒髪の貴婦人が現れた。放蕩者のロアンは、この謎めいた貴婦人に、夢中になった。何度目かの逢瀬の後、ロアンは自分の悩みを切り出した。
「わたくしも王妃様とは親しくさせていただいておりますのよ。」黒髪の貴婦人、ジャンヌ・ド・ラモットは自分がヴァロア朝の末裔という高貴な血筋からアントワネット王妃の信頼を得たのだと説明した。
そのような高貴な女人と知り合いになれたとは。ロアンは自分の幸運に天にも昇らんばかりだった。
早速、王妃の「お友達」ジャンヌ・ド・ラモット夫人を介して、ロアンは王妃に手紙を書いた。
「あまり親しげになさいませんように。王妃様は、内気なお方でらっしゃいますから。」ジャンヌは微笑んだ。
ロアンが手紙を預け、しばらく待たされてから、ようやく王妃の手紙が届いた。
”あなたを私の友人と思っております。”
筆跡もあのマリー・アントワネット王妃の麗しい字体である。たった一行であったが、ロアンは王妃の手紙に何度も口づけをした。
「全く、大笑いさ。」その夜、夫ニコラス・ド・ラモットと従者ヴィレットと酒を酌み交わしながら、ジャンヌは笑い転げた。
「あっしの手紙に何度も口づけっすか。気持ちが悪いぜ。」ヴィレットも大笑いする。
「あんなにうまくいくとは思わなかった。あのバカ司教から、搾り取れるだけ搾り取ってやる。」ジャンヌの目がきらりと光る。
その後、一週間に一回、ロアンとマリー・アントワネットの間に文のやり取りが始まった。気前のよいロアンは、仲介手数料としてかなりの額をジャンヌたちに渡していた。
「姐さん。もうこれで十分じゃないすかね。」
「バカをお言いでないよ。こんなはした金。勝負はこれからさ。」
「ジャンヌ、おめえ何するつもりだよ?」
「ベーマー商会の奴ら、160万リーブルの首飾りをアントワネットに売りたくてしょうがないらしい。それを、あたしたちが、そっくり頂こうってえのさ。」
「ひゃ、160万リーブル」「そんな途方もねえこと・・・頭大丈夫か」男二人は震えている。
ジャンヌの計画。
それは、ロアンを使って、ベーマー商会から、160万リーブルの首飾りをだまし取ろうというものだった。王妃はベーマー商会の首飾りを買いたがっているが、ルイ16世が許さない。そこでロアンに、一時的に首飾りを預け、後に代金を返す、そうジャンヌはロアンに説明した。
「その160万リーブル、このロアンが払ってもかまいませぬ。」
「いいえ、大司教様。王妃様はお友達のあなたにご負担をかけるのは忍びないと仰せなのですわ。」内心舌をぺろりと出しながら、何食わぬ顔でジャンヌは言った。
「おお、我が麗しきマリー・アントワネット王妃様。」ロアンは感涙している。
このバカ。従者のヴィレットは吹きだしたいのを必死にこらえた。
「ジャンヌ姐さん、あんなばか、みたことねえや。」帰りについ上っ調子になったヴィレットが言う。
「調子にお乗りでないよ、ヴィレット。」ジャンヌはぴしゃりと言った。
ジャンヌの懸念は当たった。さすがのロアンも、話がうますぎると疑いだしたのだ。彼はジャンヌに、王妃にあわせろとせがみだした。
「王妃の替え玉でもいねえのか?ジャンヌ。」
「あんた、そう簡単にお言いでないよ。」
「パレ・ロワイヤルにいる娼婦の中にゃ、王妃のそっくりさんもいるって話じゃねえか。」
「顔かたちが似てたって駄目さ。雰囲気が似てないと。アントワネットの持ってる気品がなかなかまねできないのさ。」
「じゃあ、諦めるんですかい、ここまできて、姐さん。」
「お宝が目の前だってのに、諦めてたまるかい。」
この様子から、ジャンヌ・ド・ラモットがヴァロア朝の末裔とは信じがたいのだが、末裔は事実である。しかし、ジャンヌ・ド・ラモットは、さる貴婦人に見出される前は、パリの通りで物乞いをしていたのだった。まさに氏より育ちを地でいった女であった。
そんなある日、ジャンヌは、ベーマー商会に出かけて行った。主のベーマーに首飾りの相談を持ち掛けられたのである。そこで花をいけていた花屋の娘がジャンヌの目に留まった。似ている。顔よりも姿がそして雰囲気が良く似ているのだ。それに、貴族の行儀見習いも習っている。これならぼろは出まい。アントワネットよりもずいぶん若いが、この娘ならいけるかもしれない。ジャンヌはヴィレットを呼んだ。
「何か御用ですか?奥様」
「ブラン商会という花屋を探っておいで。特に娘の様子を、いいね。」
ヴィレットの探りから、ブラン商会はマレーネという娘とその弟で小ぢんまりとやっているようだった。弟の方は学校に行っているらしく週末にしか返ってこないことや、両親が亡くなり身寄りもないこともわかった。これならあとくされもあるまい。あの娘も弟の学費も稼がねばならないだろう。花の宅配もそのためだろうと、ジャンヌは考えた。金をちらつかせれば、あの娘は簡単に乗ってくる。
花屋の娘がやって来た。
何も知らぬ娘はヴィレットに命ぜられるままに、ラ・モット邸を花で飾った。
「今日は、お客様が来るのだ。お前、悪いが小間使いとして、お給仕をやってもらえないか?」ある日ヴィレットが、マレーネに言った。「貴族の立ち居振る舞いのできる小間使いがあいにく急病になってね。」
マレーネは頷いた。本当にその夜は客が来た。ジャンヌを王妃のお友達と信じているのはロアンだけではないようだった。給仕をしながら、会話に耳をそばだてる。たわいもない話だった。大事な話は客が返ってからだろう。
客たちが帰ってから、マレーネはラ・モット夫人に呼び出された。
「奥様は、お前の立ち居振る舞いを見込んでさるお方のところに一緒に来てほしいとお望みだ。高貴なお方なので、奥様お一人で会うのは、軽々しいとおっしゃってな。」ヴィレットがマレーネに話しかける。
マレーネは黙っていた。
「家を空けるのが心配なら、弟さんが戻ってこない平日にするともおっしゃっている。良しといってくれまいか?特別にお代も弾むとおっしゃっているぞ。」
「わかりました。」きた。とマレーネは思った。
上手く引っかかった。ヴィレットは思い、扇で口元を隠しているジャンヌもそう思った。
「ベーマー商会で、あなたに会ってから、うちでご奉公してもらいたいと思ったのですが、あなたが、花屋さんをなさっていたので、言いだせませんでしたのよ。」ジャンヌは優しく微笑んだ。
「いつでしょうか?」
「それはさるお方のご都合次第。あなたの振る舞いももう少し、エレガントになっていただかないと・・・」
ジャンヌの口ぶりから、相手はロアン大司教だろうとマレーネは推測した。私をなぜ大司教にあわせるのか。そして私は誰になりすますのだろう。
その日から、マレーネはラ・モット邸に行くたびに、ジャンヌの特訓を受けた。
小首をかしげて微笑むこと、帽子を斜めにかぶり、顎の線が見えるようにすること。豪華なドレスを身につけてお辞儀や、歩き方も細かく指導された。




