7章 首飾り事件 その1
ミシェルが週末だけ戻ってくるようになって、マレーネは店が急に広くなったような気がした。寂しさを紛らわすように、マレーネは花の宅配をするようになった。相手はラ・フォンテーヌ侯爵家御用達の大商人たちである。そして、そのつてで、マリー・アントワネットが利用している宝石商や洋裁店にも関われるようになった。これなら、マリー・アントワネットの弱みが握れるかもしれない。父さん母さんがああなったのも、あのオーストリア女が衣装比べなどという下らない遊びを行ったからだ。両親が死んだのも、自分が盗賊ローズ・ノワールにならなければならなかったのも、全てあのオーストリア女のせいだ。許せない。
今日は、彼女は宝石商のベーマー商会に花を届けに来た。まばゆい宝石の光のなかで、花はあくまでも控えめに飾ったほうが良いだろう。マレーネは白いカスミソウをルビーに真珠には淡いピンクのスウィートピーと、小ぶりの控え目な花を用意した。マレーネにとって、花屋の仕事は慰めだった。花を飾り付けているとき、全てのわずらわしさ、自分の所業すらも消えていく。
貴族の馬車が止まり、ベーマー商会の玄関の扉が開く。客が来たようだった、黒髪の豪華な衣装に身を包んだ貴婦人である。何者なのだろう。普通の貴族には感じぬ、何か異質な気配にマレーネは不安になる。貴婦人は、マレーネをしげしげと見詰めていたが、すぐに店主のベーマーと話し始めた。
ベーマーは大きな問題を抱えていた。というのも、かつてデュバリー伯夫人のために作ったダイヤの首飾りがルイ15世の死去のため、買い手がつかず、大変な損害になりかかっていたのだった。買ってくれるとすれば、マリー・アントワネットしかいない。しかし、ベーマーが何度ヴェルサイユに出向いても、マリー・アントワネット王妃は首を縦に振らなかった。王妃がダメなら、王妃の「お友達」から頼むのはどうだろう。ベーマーの頭に、ポリニャック伯夫人のことが思い浮かんだ。しかし、ベーマーには、ポリニャック伯夫人との繋がりは何一つないのだ。
「では、デュバリー夫人の首飾りを、王妃様に買っていただきたいとおっしゃられるの?」黒髪の貴婦人が尋ねている。
マレーネは聞き耳を立てた。
「ですが、いくら王妃様にお願いしても、首を縦に振ってくれないのです。宝石好きの王妃様にしては珍しいのですが。」ベーマーが言った。
全部私たち平民から搾り取ったものじゃないか。宝石もそこらのガラス玉もさほどの差はあるまいに、マレーネは腹立たしい。
「先代の愛妾の首飾り、まして卑しい平民と毛嫌いしていたデュバリー夫人のものでは」黒髪の貴婦人は嫣然と微笑んだ。
噎せ返るような色香である。
「そこを、王妃のお友達であるラ・モット・ド・ヴァロア伯夫人、あなたに。」ベーマーは泣きついている。
「わかりましたわ。何とかいたしましょう。」ラ・モット・ド・ヴァロア伯夫人は扇を悠然と動かした。
商人は貴婦人に宝石を見せている。気に入ったものがあったのか、貴婦人は従者に金貨を払わせている。下町でくらすアリサは、あの金貨一枚を得るためにも、どれほど働かなければならないことか。いっそ身を売った方が楽なのかもしれない。しかし、その先に待っているのは、梅毒による死だけだ。
ベーマーが戻ってきた。マレーネは今日の報酬を受け取る。花かごを見ていた貴婦人がマレーネに声をかけた。思わず貴族の挨拶を行う。
「まあ、この花屋の娘さんは、」ラ・モット・ド・ヴァロア伯夫人が驚いている。
「貴族様のお屋敷で働いていた時、行儀見習いをいたしまして、」マレーネはとっさに言った。
この女にラ・フォンテーヌ侯爵家とのつながりを気付かれるのは不味い、そして、ベーマーにも。
「まあ、やはり、王妃様ではないですが、エレガンスが大事ですわ。この頃は特に。」
マレーネのことを気に入ったのか、ラ・モット夫人は、スウィートピーを何本か買っていった。
帰り道、いつもの通り、サミュエルの食堂に花を届けた。ルノーが来ている。
「マレーネ、景気はいいかい?」
「あまりいいとは言えないわ。」
「うちはさっぱりだあ。マレーネ、半値にまけとくれ。」
マレーネは微笑んだ。やはり私には、この下町があっている。しかし、今の状況では、花を買ってくれる人も減るばかりだ。
「今日はどこへ行ったんだい?」
「ベーマー商会よ。」
「じゃあ、ヴェルサイユ御用達の宝石商の。」
「宝石より、食いもんだあ。ここんとこ、まともな食い物もだせやしねえだ。」
談笑しているところへ、ラヴォアジエがやって来た。彼が大化学者だと知ってから、町の人たちの見る目が変わっている。
「これは、大化学者の先生。今日は何にするだ?」
ラヴォアジエがワインを注文し、話に加わった。
「徴税人の先生、マレーネの店は儲かってるだか?」
「そうも言えないでしょう。高価な花を買ってくれても、仕入れ値も高くなってますから、あまり変わりませんね。税率も上がりますし。」
「どのみち、商売は厳しいってことだか?」
のんびりした話が続く。
マレーネはふとユラン元隊長のことを思い出した。田舎に帰ったというけど元気にしているだろうか。
「マレーネ、ピエールから手紙は来たかい?」ルノーが尋ねた。
「ここの所は着てないわ。ちょっと心配なんだけど。」病気でもしてなければいいのだが。
「ミシェルは?」
「また、週末には学校から戻ってくるわ。」
「ミシェルも姉さんが恋しいだろうな。」
マレーネは笑った。
ベーマー商会に出入りするようになってから、マレーネの店に、馭者風の男が花を買いに来るようになっていた。ラ・モット夫人の従者だと、マレーネはすぐに見破った。なぜわざわざ変装してくるのか。ラ・モット夫人とは何者なのだろう。ヴァロアを名乗っているということは、ヴァロア朝の末裔なのだろうか。その血統で王妃の「お友達」になったのか。それにしては何か引っかかる。ラ・モット夫人の醸し出す何かが、マレーネの心に感応する。それは、同じ闇の世界に身を置いたものだけが感じる何かなのかもしれなかった。
「アンリ・フィリップ、ラ・モット・ド・ヴァロア伯夫人をご存知ですか?」
ある日ラ・フォンテーヌ侯爵家へ花を届けに行ったついでに、思い切ってマレーネは聞いてみた。
「ラ・モット夫人ですか?聞いたことは無いですねえ。ヴェルサイユに出入りを許されてないのでは?」アンリ・フィリップは首をかしげた。
「ベーマー商会の主は、ラ・モット夫人を王妃のお友達といってましたが・・・」
「う~~ん。聞いたことがありません。お友達は、確か、スウェーデンのアクセル・フォン・フェルセン伯。ポリニャック伯夫人の一族、そして、モード大臣のマダム・ベルタン、この人は平民です。ラ・モット夫人も平民ではないでしょうか?そして、トリアノン宮に出入りしているのでは?」
「アンリ・フィリップ、あなたはトリアノンには招かれないのですか?」不思議そうにマレーネは尋ねた。
「王妃様は好き嫌いの激しい方です。」温厚なアンリ・フィリップしては珍しく強い言い方になった。
「堅苦しいヴェルサイユを嫌って、トリアノンで気の置けないお友達やご家族と暮らしていらっしゃいます。トリアノンに招かれなかった貴族たちは、皆王妃様のことを快くは思っておりません。それでパレ・ロワイヤルや、プロヴァンス伯のサロンに集まっているのです。私も、パレ・ロワイヤルに出入りしているので、あまり大きなことは言えませんが・・・」
マレーネは胸がムカムカしてきた。あのオーストリア女は、王妃らしいことは何もやっていないではないか。依怙贔屓ぐらい人間の感情を逆なでするものはない。そんなこともわからないのか。そんな女に平民の苦しみなどわかる訳がない。マレーネはアリサが洗濯物を洗っている姿を思い起こした。冷たい水と寒風で体が冷え、あかぎれだらけになっている手。あのオーストリア女を同じ目に遭わせてやれば、どれほど溜飲が下がることだろう。
「マレーネ、どうかしましたか?」
「何でもありませんわ。確か、マリー・アントワネット王妃のお母様は、オーストリアの女帝と呼ばれた、名君だったとか。」
「親が優れていると、得てして子供は劣るものです。ロシアのカザリン女帝のところも似たようなものです。私も伯父上の靴紐も結べぬ人間ですが・・・」アンリ・フィリップは顔を赤くした。
「そんな事はありませんわ。あなたのおかげで、ピエールは助かりました。ルノーの新聞社も」マレーネは慰めた。




