1章 義賊登場 その1
ミシェルがマレーネの店で働くようになってから2カ月が過ぎた。季節は初夏となり、気持ちの良い風が裏通りまで吹いてくる。今日もマレーネはミシェルと共に荷馬車で、買い出しに出かけている。
「よう、マレーネ。精が出るなあ。」ユラン元隊長が馬上から声をかけた。
「どうぞ、ユラン隊長さん。」マレーネは愛想よく微笑むと、白いユリを渡した。
「わしのことを、隊長と呼んでくれるのは、お前さんだけじゃなあ。」
「いいや、わし達も『隊長さん』と、呼びますだ。」と、食堂の主サミュエルが話しかけた。
仕入れを済ませ、花を飾り、またいつもの客がやってくる。ミシェルも、応対にはようやくなれるようになった。
「毎度あり。」
「よう、小さな小僧さん、店番はなれたかい。」黒髪の背の高い男がリラの花束を買っていく。
「はい。ルノーさん。おつり3ドゥニエ。」
客足が途絶えるころになると、もう日が高かった。ミシェルと二人、昼食を取る。パンとスープだけの簡易なものだが、その食事は、マレーネに両親が生きてきたころを思い出させた。
「どうしたの?マレーネ。」あの日以来、すっかり素直になったミシェルが尋ねる。
「何でもないわ。それより、食事が終わったら、字を勉強するのよ。」
「ちぇ、めんどくさいなあ。」
「字が読めるようになる約束よ。」
「字なんか読めたって何になるのさ。」
憎まれ口をたたきつつも、ミシェルは石板にアルファベットを書き始めた。
夕暮れ、二人がサミュエルの食堂に花を届けに行くと、常連客が集っていた。ユランもいる。
「あ~~、上手い。親仁、もう一杯。」
「まだ、勤務中ですだ、隊長さん。上官にお目玉を食らいますだ。」サミュエルが苦笑する。
「ヒューゴ・コルベールがなんだ。あいつはわしの使い走りだったんだぞ。元は。」
ユランの言葉に、一同はどっと笑った。
急に若い娘が飛び込んできた。
「なんだ?デュランんとこのアリサじゃないか。」
「助けてください。売られるのは嫌。」娘は可哀想に顔色が白くなっている。
「何があったんじゃ?」ユランが声をかけた。
「父さんの借金のかたに、あたし、あたし」
「はあ?デュランのやつは、確か博打もやらんし、誰に借金しただ?」サミュエルが不審そうに言った。
「モランさんの所で。」
「モランだって。」「あの強欲」「気の毒に」
「証文もあると言われて。でも父さんは、覚えがないって。」
男たちが入ってきた。
黙ったままアリサの腕をつかむと引き立てようとした。
「おい、待て。」
警備隊のユランの制止も耳に入らぬといった風情で、アリサを連れて行く。
「いい加減にしないか。証文を確かめたい。持ってくるんだ。」
「どうぞ。ご覧なさい。ご不審の点がございますかな。ユラン元隊長殿。」
男の一人が冷ややかに言うと、証文を差し出した。デュランと名前が記されている。
「デュランを連れてくるんだ。」
元隊長の言葉に促されるように、男たちは立ち去り、ほどなく、デュランが現れた。
「覚えが全くねえんです。」デュランは呆けたように言った。
「ともかく名前を書いてみろ。」
店にいた全員で確かめたが、同じ筆跡にしか見えない。
「とにかく、本部から筆跡鑑定人を連れてくる。それまで娘を連れて行くのは待て。」
「どうぞ、ご勝手に、元隊長殿。」男たちは薄笑いを浮かべながら立ち去った。
「随分失礼な態度ね。」マレーネは不快な気分になった。
「モラン商会は、カトリーヌ夫人の御用達だからなあ。手下も笠に来てるんだで。」サミュエルの言葉にマレーネの顔色が変わった。
カトリーヌ夫人、あの女の逆恨みのせいで、父さん母さんは殺されたんだ。そしてまた、デュラン親子まで、貴族だからって、どこまで許されるんだろう。こんな無法が。
「マレーネ、大丈夫?」ミシェルが話しかけた。
「大丈夫よ。」
「どうしたんだい?みんな。」騒ぎの後、ピエールが入ってきた。
「あ、弁護士先生、どうにかならんかね?」サミュエルが、デュランの事件の話をした。
「デュランさん、覚えがないって言うけど、名前を書いたことは無いのかい。」ピエールが尋ねた。
「そう言えば・・・少し前、酒場であいつらが、あっしらに、名前も書けねえだろうって言うもんだから、あっしら、」
「書いたのか?」ピエールが問い詰めた。
「でも、ただの紙切れで、そこにいたみんなが、書いたんで」
「ピエール、どういうことなの?」
「多分、偽造だ。みんなの名前を書いた紙からデュランの署名をうつし取ったんだ。ガラス板の下から火でも当てれば簡単に透ける。そうやって偽造したんだろう。」
「じゃあ、インチキか。警備隊につきだそうぜ。」周りはいきり立った。
「ダメだ。証拠がない。」ピエールは唇をかんだ。「今の法律ではどうにもできない。」
「そんな。じゃあアリサは」マレーネの問に、ピエールは首を横に振った。
泣きじゃくるアリサをなだめて、サミュエルが二人を家へ送る。その姿を見ながら、マレーネは荷馬車に乗った。
「畜生、俺が証文を盗んでやらあ。」
「よしなさい。怪我じゃすまないわ。」
「じゃあ、黙って見てろって言うのかよ。」
いつも犠牲になるのは、貧しい弱い者ばかり、貴族の後ろ盾があるだけで好き勝手ができるなんて、許せない。マレーネの心に、ラ・フォンテーヌ侯爵の言葉が甦ってきた。
いつか、その剣を正義のために使ってほしい。人々の幸せのために。
その夜、下町の屋根の上を駆け抜ける一つの影があった。
その影は、つつっと闇に溶け、また現れながら金貸しのモランの家へと吸い込まれていった。黒尽くめのその影は、闇に溶け込んで、屋敷の人間の眼には止まらない。影は屋敷の天井裏に忍び込むとモランたちの様子をうかがっていた。
次の夜、泣いているアリサを男たちが引き立ててきた。
「あきらめるんだな。」庭先にアリサを放り出すと、一人が冷たく言った。
「まあ、お前さんなら結構な値段で、娼館に売れるだろうよ、親父さんの借金もこれで帳消し。いや、いやお釣りがくるかもしれんなあ。」館の主人、モランが下卑た笑いを浮かべた。
「俺たちに味見をさせて貰えませんかね。旦那。」
「ダメだ。値段が下がってしまうぞ。」
「確かに。」
「まあ、あの元隊長も、若僧の弁護士見習いも、随分食い下がったが、この証文さえあれば、誰も手出しはできやせんわい。」モランは得意げにアリサに言った。
「旦那の悪知恵にゃ、叶いませんや。」男たちは笑った。
「さあ、馬車に乗るんだ。」
「いや!誰か!」
アリサの悲鳴を楽しむかのように男たちは彼女を引きずっていく。
「待ちなさい。」その時頭上で低い声がした。まだ少年のような声である。
庭にいた者たちは一斉に屋根を見上げた。黒いマントに、黒の上着、黒のキュロット、黒のブーツ、全身黒尽くめの若者が立っていた。黒のヘルメットに、黒い仮面で顔の半分を覆っている。
「なんだお前は。サーカスの芸人か?」モランが薄笑いを浮かべたまま尋ねた。
「この娘は、私が預かります。」
「何寝ぼけたこと抜かしやがる。証文があるんだぞ」
「その証文は」若い男は紙を取り出した。「酒場であなた方が書かせた単なる紙切れ、これを移して偽の証文を作りだしたことを、昨夜、しかと見せていただきました。」
「なんだと。」焦る男たちを制して、モランは平然と言った。
「たとえそれがあったとして、なんの証拠になる。お前の証言など、警備隊が信用するとでも思ったのか。」
「思いません。ですから別の方法で、証文を無効にすることにしました。」
「なに?」モランが言うと同時に、館に火柱が上がった。
「ききき、貴様、よくも火を。」
火柱に一瞬目がくらむ、その隙に、青年はモランの目の前に飛び降りると、証文をひったくりざまに、けりを加えると、アリサの手を取った。
「さあ、逃げなさい。証文がなくなった今、あなたはもう自由です。」証文をちぎりながら青年は言った。
「ありがとうございます。貴族様。」
男たちが飛びかかってきた。黒尽くめの青年は、左手を一閃する。細身のナイフが男たちの首筋に突き刺さる。彼らは声もなく倒れた。
「わ、わしのカネが」モランが泣きわめいている。
「せいぜい、カトリーヌ夫人に援助してもらいなさい。」
馬車にアリサを乗せると、青年は馬に鞭をくれた。燃えている館から逃げるので精いっぱいだ。消防団や警備隊も集まっている。
「もう追ってこないでしょう。」アリサをおろしながら黒の青年は言った。
「お名前を、貴族の若様。」
「名乗るほどのものではありません。」
「でも」
「わかりました。私の名はローズ・ノワール。」
馬車と共に青年の姿もいずこともなく消えた。