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闇の騎士   作者: 涼華
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プロローグ

教会の鐘の音で、パリは目覚める。

彼女もまた眼を開けた。質素だが、子供のころから使い慣れたベットである。こんなにぐっすりと眠ったのは、久しぶりだった。本当に帰ってきたのだ、自分の家に。寝室になっている2階の窓を開ける。朝日が眩しい。パンを焼くにおいに混じって、花の香りもしてきた。急いで身支度を済ませ、店の戸を開けた。

「お早う。マレーネ。」パン屋のおかみさんが彼女に声をかけた。

「ソレルの小母さん、お早う。」彼女も挨拶をする。栗色の髪がふわりと揺れた。

「本当に帰ってきてくれてよかった。あんたの父さんたちがあんなことになって、あんたは貴族様の、え~~っと、ええっと」

「ラ・フォンテーヌ侯爵様。」

「そうそう、ラ・フォンテーヌ侯爵様に連れて行かれて、この界隈もすっかり火が消えたようになっちまってねえ。その侯爵様も、お亡くなりに?」

「ええ、1カ月前に。」マレーネの青い瞳に悲しみが宿った。

「でも、本当に戻ってくれてよかった。5年ぶりだもんねえ。見違えるほど別嬪になって、こりゃ、若い男たちがほっとかないねえ。」

「嫌だわ。小母さんたら。それより、他の皆さんもお変わりなく?」

「マレーネ!」若い男の声がした。

「ピエール?ピエールなのね。見違えたわ。」

「君もだよ。マレーネ。戻ってきてくれるとは思わなかった。」

二人は手を取り合い見つめ合った。5年という月日がたっても、見た目が大人になっても、街のみんなは変わっていない、そのことは、彼女の心を温めた。

「食堂のサミュエル小父さんやジャンヌお婆さんは?新聞を書いてたルノーさんは?」

「みんな、変わりないさ。でも、ここんとこ不景気でねえ。商売も上がったりさ。」ソレルのおかみさんが口をはさんだ。

「僕たちの税金も、みんなあのアントワネット王妃のドレスや宝石に吸い上げられるって話さ。」ピエールが付け加えた。


「こら~~。お前ら。聞いたぞ、聞いたぞ。ピエール、朝っぱらからいちゃついでるだけじゃなく、王妃様の悪口まで言いおって。」明るい青色のパリ警備隊の制服を着た小太りの中年男がやって来た。マレーネにとっては、かつて見慣れた男である。

「これは、ユラン隊長様。」マレーネは優雅にお辞儀をした。3人とも貴族の立ち居振る舞いに見とれている。

「いかにもわしは、ユランだが。この娘さんは?」

「いやですよ。隊長さん。花屋のマレーネじゃないですか。ブランさんとこの。」

「あ、あの事件で亡くなった。」言いかけて慌ててユランは口を押えた。

「もう、5年も前の話ですから、隊長さん。」マレーネは目を伏せた。

「あ、いや、わしももう、隊長じゃ無いんじゃよ。」罰が悪そうにユランが答えた。「傷心のわしのために、ひとつまけてくれんかね。」

「これをどうぞ。」マレーネはにっこりと笑い、黄色いバラを1本、元隊長に渡した。


その日一日は、あわただしく過ぎて行った。マレーネが戻ってきた。ブラン商会が再開した。昔なじみの人たちに囲まれ、仕入れた花も、あっという間になくなってしまった。


「一息ついたかい。」ピエールだった。

マレーネは頷いた。

ピエールは店の中に入ると、ドアを閉めた。

「どうしたの?」

「ねえ、マレーネ。戻ってきたってことは、貴族はやめるってこと?」

「ええ、貴族はもうこりごり、ラ・フォンテーヌさまが亡くなられてからは、嫌な思いも随分したわ。」

「そう、じゃあ、マレーネ。僕たちの仲間に入らないか?」

「仲間って?」

「地下活動さ」ピエールは声を潜めた。

パリでも国王一家、特に、アントワネット王妃に不満を持つ活動家が、パレ・ロワイヤルに集まっていることは、ラ・フォンテーヌ侯爵からも、聞いていたことだった、しかし、ピエールまで。

「危ないことをやらせられてるんじゃないでしょうね?」

「違うさ。」ピエールは笑った。「弁護士の勉強をしてるんだ。弁護士になれば、僕たち平民が少しでもしぼり取られないようにすることができる。それに、どうしたら幸せに暮らせるかってことを話し合ってるだけさ。」

「すごいわ。ピエール。」5年の月日は、熱血漢のピエールに思慮深さを与えたようだった。

「それより、ラ・フォンテーヌ侯爵は、病気で亡くなったんだって?」

「急に亡くなったの。だから毒殺かもしれないって。」

「それで戻ってきたのか。」ピエールは頷いた。

きっと、私がラ・フォンテーヌ一族から毒殺の疑いをかけられたことも、わかったのだろう。

「マレーネ。返事は急がないよ。でも・・・」

ピエールは言い淀んだ。しばらく、何か考え込み、意を決したように続けた。

「いやなことを思い出させて悪いけど、ヒューゴ・コルベールを覚えてる?」

マレーネの顔色が変わった。

「忘れるわけないわ。あいつが、あいつが、アントワネット王妃の命令だって父さんに黒バラを集めさせなければ、父さんも母さんも殺されることはなかった。」

「悔しいのはわかる。でも、悪いのは王妃に負けて、逆恨みをしたあの貴族の女だし、あいつはアントワネット王妃の命令に従っただけだ。でも、ユランのおっさんの代わりに隊長になったのはあいつなんだよ。」

「どうして?」彼女は唇まで蒼くなっている。

「ゴシップ記事では、黒バラをアントワネット王妃に献上したその功績だって言ってるけど、違うだろうね。その方がまだましだ。本当は、ユランのおっさんと違い、あいつが情け容赦なく取り締まるからだろう。あいつは平民出のくせに、僕たち平民を目の敵にしてるんだ。」

コルベールの鷹のような目を思い出し、マレーネは気分が悪くなってきた。

その時、裏口でかすかな音がした。

「密偵かしら。」マレーネは声を潜めた。

足音を忍ばせて二人はドアをあけた。


「まだ、子供じゃないか?」

「酷いケガだわ。鞭で打たれたのね。」

倒れている少年をマレーネは開いているベットに運んだ。

「この子の看病は私がするわ。ピエール、気を付けてね。」

「うん。」

その時、通りに馬の蹄の音がした。馬車が来たようだった。

「貴族の馬車みたいだな。なんだろう?」ピエールは不審そうだった。

店のドアが静かにノックされた。

「こちらはマレーネ・ド・ラ・フォンテーヌ様のお宅ですか?」穏やかな声だった。

「アンリ・フィリップ、今開けます。」

ドアの外には、いかにも貴族然とした若者が立っていた、仕立ての良い衣装、ふっくらとした体つきからおっとりとした育ちの良さを醸し出している。人の良さそうな穏やかな顔立ちは、貴族の良い所を集めたような雰囲気だった。

「マレーネ、この方は?」

「私は、アンリ・フィリップ・ド・ラ・フォンテーヌ、マレーネの従兄です。」貴族の青年は自己紹介をした。

「現、ラ・フォンテーヌ侯爵様よ。」マレーネが付け加えた。

「失礼しました。僕、いえ、私はピエール、弁護士見習いです。」

「今日は、マレーネ、あなたにラ・フォンテーヌ家に戻っていただきたくて伺ったのです。」

アンリ・フィリップの言葉に二人は顔を見あわせた。

「アンリ・フィリップ、私を追い出したのはあなたのお母様ですよ。」

「母も先日亡くなりました。卒中で。」アンリ・フィリップは、額の汗をハンカチで吹いた。

マレーネも呆然と聞いている。

「医者の話では、興奮して頭に血が上ったからであろうと、情けない話です、強欲で・・・本来なら、養女のあなたがラ・フォンテーヌ侯爵を継ぐはずだったのですから、それを・・・」

「いいのです。私はもう貴族はこりごりしています。甥のあなただったら、ラ・フォンテーヌ侯爵様も安心することでしょう。」

「そうですか・・・残念です。では、せめて、この店が立ちゆくように支援させていただけませんか?」

断ろうとするマレーネを制して、ピエールが口をはさんだ。

「マレーネ。アンリ・フィリップ侯爵のご好意を受け取ったら?一人で商売するのは大変だし、ラ・フォンテーヌ侯爵家の後ろ盾があれば、貴族や大商人の家にも商売をしやすくなるし。」

「じゃあ、何かあったら、お願いすることにしますわ。アンリ・フィリップ。」

「あと、これを」

アンリ・フィリップは、サーベルと美しい幾何学模様の小箱をマレーネに手渡した。

「伯父の形見です。」

「ええ、解っていますわ。」

このサーベルで、何度も剣の稽古をつけてもらった。そなたは一流の剣の使い手となるだろう。男であれば侍従武官として王妃様のお側に上がることもできるであろうに。マレーネ、この剣を人々のために使ってほしい。ラ・フォンテーヌ侯爵の言葉をマレーネは思いだした。

「その小箱は?」

ピエールの言葉に我に返った。

「何でも私の出自が記されているとか」

「え?マレーネ。君はラ・フォンテーヌ侯爵の実の娘じゃないのかい。」

それは、この界隈のもっぱらの噂であった。

「私も最初は、マレーネは、伯父とオーストリアから連れ帰った小間使いとの間の娘と思いました。しかし、伯父の性格から考えても、正式に結婚したはずですし、たとえできなくとも、認知をし侯爵家で育てたはずです。それを出入りしていたとはいえ、下町の花屋に預けるなど、よほどのことがあったとしか思えません。ですから、はっきりするまで、侯爵家にいていただいた方がマレーネ、あなたのためになると思うのですが。それに、あなたの姉上がヴェルサイユに出入りを許された由緒正しい貴族だとすればなおの事。」

思いがけない展開にピエールは言葉もない。

「アンリ・フィリップ。そんな面倒は、もう沢山です。私の実の両親が貴族であろうとなかろうと、私は、ジョゼフ・ブランの娘。花屋の娘です。父さんの遺したこのお店を父さんが生きていた時ぐらい繁盛させる。それが私の今の望み。」

「そうですか・・・」アンリ・フィリップは肩を落とした。

「でも、ラ・フォンテーヌ侯爵の養女であることは変わりないのだから、アンリ・フィリップ、あなたとも、いつまでも従兄妹通しであることは変わりません。」

「何かあったら、いつでも、ラ・フォンテーヌ家に来てください。」

二人は握手した。

豪華な2頭立ての馬車が去っていく。辻馬車にすら乗れない庶民の暮らしとは別の世界がそこにはあった。


「この箱開けられないのかなあ?」ピエールが手に取り、上下左右を見つめている。

「なんでも、東洋の寄せ木細工とか言う仕掛け箱らしいのよ。ラ・フォンテーヌ侯爵様に、開け方を聞く前に亡くなられてしまったのよ。」

「叩き壊すわけにはいかないだろうなあ。」

「やめて。こんなに美しい箱なのよ。それに、中のものまで壊れてしまうわ。」

「でも、」そう言うとピエールは、ゆっくりとマレーネの姿を見つめた。

「ラ・フォンテーヌ侯爵のご落胤かと思ってたけど、オーストリアの貴族の落としだねかあ。だから君はこんなに、すらりとしていて、目も青くて、北方系の顔だちなんだね。」

「ピエールったら。」マレーネは頬を赤らめた。「冗談が過ぎるわ。さあ、もうすっかり暗くなってしまって、もう帰らないと。」

「ああ、それよりこの子供の看病は?」

「大丈夫。私がやるわ。もうお帰りになって。」

急に優美な言葉遣いをされ、青年は戸惑い、笑って出て行った。


今日は千客万来だった。そう思いながら、眠っている子供の体をふき、傷に薬を塗り込んだ。金茶色の髪の、まだ6,7歳の少年だ。目鼻立ちは整っているが、痩せていた。おそらく、どこかの徒弟先かサーカスからでも逃げ出したのだろう。古い傷もあり、それからも酷い扱いを受けていたことがわかる。おそらくこの子も捨て子なのだろう、自分と同じように。そして、自分は拾ってくれた人がまともだったから、こうしていられるだけなのだ。


子供を下で寝かせ、彼女は2階に上がった。色々なことがあり過ぎて、ぐったりと疲れていた。

パリの夜は深い。貴族やいかがわしい商売をしているところは別として、庶民の家は寝静まっている。


眠っていたと思われた子供が起き上がった。足音を忍ばせ、店の売り上げの入った袋から、金貨を何枚か取り出し懐に入れた。子供は裏口に向かった。

「お待ち。」

闇のなかで声がした。同時に燭台に火がともった。子供は一瞬マレーネを見つめたが、胡坐をかいて座ると、居直った。

「なんだい。こんなに金もってんなら、2,3枚くれたっていいじゃないか。」

「ダメよ。」

「けちんぼ!」

「これは、明日の仕入れ代に使うの。なければ商売があがったりになるわ。」

「なんだい。ねーちゃん、カネがあると思ったら貧乏じゃんか!さっさと、警備隊に引き渡せよ。」

「鞭打ちになるわよ。」

「痛かえねえや。そんなもん。」

「一つだけ聞くわ。」

「なんだよ?」

「坊や、あんた誰かの手下なの?」

「坊やじゃねえや。ミシェルだい。はばかりながらこのミシェル様は、サーカスを飛び出して以来、誰の指図もなく生きてるんだい。」

ミシェルは金を懐から出すと、飛び上がった。サルのような身のこなしで、階段や天井の手すりを飛び回る。

「や~~い。悔しかったらここまで来てみろ。」

素晴らしい身の軽さだった。しかし、まだまだ未熟だ。彼女は縄を持つと、鞭のように一閃した。狙いすましたように縄は子供の足に絡みつく。子供は床に叩きつけられた。

「畜生!それで勝ったつもりかよ。」縛りあげられた縄は、するりと外れた。

「あばよ。ねーちゃん。」

子供が再び飛び上がる。

しかし、マレーネは、左手に忍ばせていた小石を投げつけた。石つぶてが全て子供の体に命中する。子供は再び落下した。

「おいらの負けだい。好きにしろい!」やけくそになったのか、今度は大の字になって喚いている。

「じゃあ、好きにさせて貰うわ。」マレーネは静かに言った。呼吸一つ乱れていない。

「なんだよ?」マレーネがただものではないと気付いたのか、子供は静かになった。

「あんたは私の店で働くの。もう、泥棒はやめるの。」

「子分になれって言うのかよ。」

「子分じゃないわ。しいて言えば弟分ね。字も教えるわ。」

「いやだって言ったら?」

「それこそ、警備隊に引き渡すわ。コソ泥として。ヒューゴ・コルベール隊長にね。」

子供の顔色が変わった。こんな小さな子供にまで恐れられているのか、あの男は。

「わかったよ。働くよ。ねーちゃんにはかなわねえや。」

「そう言う言葉遣いも辞めることね。それは下町の言葉じゃないわ。やくざ者の言葉よ。」

「どこで寝ればいいの?」

「あんたが今寝てたベットをどうぞ。ミシェル。」

「めし。ええっと、朝ご飯は?」

「あんたと私で交代で作ればいいわ。作れるの?」

「うん。でもねーちゃん、すごいなあ。サーカスに居たのかい?」

「マレーネでいいわ。貴族の館にいて、護身術を教えられたのよ。でも、みんなには絶対に秘密よ。」

「うん。」

ミシェルは頷いた。

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