序
久瀬伸成。とある学校で国語教師をしている凡庸な男である。生徒や保護者、同僚たちの評価は可もなく不可もなし。不真面目でも、かといってノリが悪いわけでもない。ごく普通の、少々几帳面な影の薄い男という印象を誰もが持っていた。
だが、学校という閉鎖空間から別の閉鎖空間へ出てみるとこの男の印象はがらりと変わる。彼はある一部の人間たちの間では有名な男であった。彼の発信する世界観・思考・生き方を人生の指針、彼自身を魂の師匠と呼ぶ人間も少なくはなかった。彼はそれに満足し、しかし決して人前ではその姿を見せることはなく凡庸な男のままであった。
そんな彼がある日姿を消した。遅刻や無断欠勤などしたことのない男の突然の行動を不審に思った同僚たちは、住所を頼りに彼の家を訪れた。親兄弟は既に亡く、独り身と周囲に話していた彼の家は平屋の一軒家であった。家の明かりは点いていたが呼び鈴を鳴らしても反応はなく、思い切って引き戸の扉に手をかけると難なく開いた。ためらったが、同僚たちは家の中へと足を踏み入れそして驚愕した。
人ひとりが何とか通れるだけの道筋を残し、廊下中、本で埋め尽くされていたのである。
古文書のような古びた本から新しそうな単行本まで、多種多様な紙の山がそこら中に出来上がっていた。同僚たちが持つ彼の印象とはかけ離れた光景に驚きつつも恐る恐る奥へと進み、唯一明かりの点いていた部屋に入ってみるとそこは書斎のようになっていた。主不在の書斎は廊下とは打って変わって整然と本が棚に並び、掃除も行き届いているようだった。そして机の上には数冊の本と書きかけの原稿用紙が置いてあった。原稿用紙にはたった一行だけこう書かれていた。
〈世界は悪意で満ちている〉