第6話 帝都カサニエル
帝都カサニエルは、石灰岩の巨大な城壁に守られている。
大人十人ほどの高さの城壁の隙間に潜むように、中央街道門はあった。
街道には都に入ろうとする荷馬車や人々が、列をなして待っていた。
旅芸人の一座が村にやってきたときでさえ見たことがない行列に、フォクセルは少々気後れしながら並んだ。
朝早くから並び続けてやっと昼過ぎにその門をくぐったとき、彼は口を開けたまましばし固まっていた。
「邪魔だ、どけ!」
後から入ってきた男が乱暴にフォクセルを押しのけたが、彼はまだ夢見心地だった。
どこを見ても人、人、人の波。
四台の馬車がすれ違っても十分な広さの通りには、様々な地域、様々な職業の格好をした人々がひしめき合っている。
もちろん城壁の外でも、都に入ろうとする人々の列で混雑していることは覚悟していた。
しかし、この城門前の大通りの混みようは想像を絶するものだった。
誰も彼もが、何か見えないうねりに乗せられているように通りに流れを作り出している。
通りに面した軒先にはずらりと銅の看板が掲げられ、店から半ばはみ出すようにして色とりどりの見たことのない商品の数々置かれている。異国の絨毯。たくさんの鳥かごでピイピイと鳴いている鳥たち。目も見張るような原色の香辛料が入った樽。
まるで色の洪水だ。
フォクセルはすっかり気圧されてしまい、ただ人の流れに流されてふらふらと歩き続けた。
どこまで行っても店は引きもきらず、人混みが途絶える気配さえない。
「ちょっと」
ポケットごしに脇腹を小突かれて、彼はこっそり中を見た。
「お城への道から外れているわよ。ちゃんと右に曲がって」
「こんなにたくさん人がいるところは初めてなんだ」
不満げなラスカにそう告げて、彼はあたりを見回した。
知っている顔でも見れば安心するかと思ったのだ。
だが、知り合いは誰一人いなかった。
例の人形を盗んだおじさんも、もう船に乗り込んだ頃だろう。
結局、あれからフォクセルがいくら尋ねても、ラスカは詳しいことを教えてくれなかった。
フィービなんて名前はありふれているので同じ人かどうかもわからないし、今いくら心配したところでできることはないと突っぱねるので、彼もとうとう諦めたのだ。
「……あのおじさんとフィービは、ちゃんと船に乗れたのかな」
「乗ったと思うわ。あの人たちにはこれ以上、私の『予言』を乱さないで欲しいわね」
その冷ややかな物言いに、彼は以前から疑問に感じていたことを聞いた。
「君の言う『予言』とか『運命』は、つまり前の世界の僕らに起こったことなんだよね?
ラスカが小さくなったから、あのおじさんがラスカを盗むことを思いついてしまった。
でも、前の世界では君は大きかったから、盗まれたりしなかったってことだよね。
じゃあ、予言も絶対じゃないんだ」
ラスカがポケットの中で肩をすくめる。
「まあね。だから、前の世界からなるべく離れてしまったら困るの。
せっかくの『予言』が外れる確率が高くなるから」
「じゃあ……僕がミルクをこぼしたのも、前の世界と一緒なんだね?」
「そうよ。あそこで女の人に毒を持っていくような男なら、英雄に選ばれたりはしないわよ」
あれでことが大きくなるのは確かなんだけどね、とラスカはため息をついて語った。
彼はどこか誇らしいような、後ろめたいような複雑な心境になった。
英雄になる運命だとラスカに散々言い聞かされていたが、今まで正直本気にとっていなかった。
だが、初めてフォクセルはこう思えた。
英雄となった自分と、今ここで人込みに紛れて途方にくれている自分。
どう考えてもかけ離れた存在だが、その未来は、細い糸のように確かに繋がっていると。
大都会に圧倒されかけていたフォクセルの心に、少しだけ勇気の火が灯り、彼は行き交う人をすり抜けながら城への道を進み始めた。
どうにかこうにか人の波をかき分け、ときに馬車に泥を跳ね飛ばされながらも、彼はラスカが示す方向に歩き続けた。
街の城門と同じような、背の高い石塀がそびえる通りに出たのは、街に入ってからたっぷり2刻もたったときだった。
フォクセルの住んでいたサレナタリアなら、村の周りを余裕で5周はできる時間だ。
恐ろしいまでに延々と続く白い石塀に沿って歩いていくと、金色の立派な正門が見えてきた。
金に様々な彫り物が施された扉は、門というより一種の芸術品だ。
しかし、目下の問題は立派な門ではなかった。
門の両脇に見張り小屋があり、光り輝く銀色の鎧を纏った兵士が槍を持って立っているのだ。
フォクセルは人に紛れ、門を横目で見つつ通り過ぎたあと、ポケットの中身にこっそりと聞いた。
「ねえ……警備兵がいるんだけど」
「そりゃあ、いるでしょうね」
「どうやって入ればいいの? 入れてくれっこないよ」
「神に祈りなさい」
初めて天使らしいことを言ったラスカに、彼は思わず声を高めてポケットの中を覗き込んだ。
「ええ! 助けてくれるの?」
「何よ、私だって神の御使いなのよ。
まるで私が助けたことがないみたいじゃないの」
ラスカが薄暗いポケットの中で口を尖らせているのがうっすら見えた。
「祈りの言葉を唱えれば、右手に聖なるあざが浮き出るはずよ。それを門番に見せなさい。
神に選ばれし英雄と分かれば、一発でひれ伏すはず」
そういえば、ラスカが勝手に入れ替わる度に右手が熱くなっていたことを思い出す。
フォクセルは喜び勇んで祈りの言葉を唱えながら右手を見て––がくり、と肩を落とした。
手のひらは真っ赤で、ヒリヒリするほど皮が向けていた。
ラスカがフォクセルの体を乗っ取って、盗人の馬車を無理やり止めたときの傷だ。
軟膏を買って塗って痛みはましになっていたものの、一日やそこらで治るほどの軽い怪我でもなかった。
「ラスカ……この手じゃ無理だよ……聖なるあざなんて見えっこないよ」
彼は見せるためにポケットに突っ込んだ。
ラスカに手を触られると、触られた箇所がじんじん痛む。
ラスカが深刻な声で独り言をいうのが聞こえた。
「……早速、前とは違う世界で起こったことの弊害が現れたわね」
「どうしよう? どうすればいい?」
彼は焦ってラスカを質問攻めにした。
ポケットの中ではしばし沈黙が続いた後、不自然に明るい声が聞こえた。
「門の前で人形劇でもしましょうか!
兵と仲良くなれば、いいことがあるかもしれないわ……ないかも……しれないけど」
「ラスカまで自信を無くさないでよ!」
途中から声が小さくなっていったラスカに、フォクセルは思わず突っ込んだ。
ここまで来たら、きっと何か変わると思っていのに。
皇帝に謁見するまでは行かないだろうとは思っていたが––何か、騎士らしきものに抜擢されるとか––偉い人に英雄だ、と見いだされるとか––そういうことになると思っていた。
しかし、現実は手を擦りむいた芸人の少年が、汚らしい格好で王城の門の前にぽつんと立っているだけだ。
フォセクルは泣きたいのを我慢して、道の隅に座り込むと、大きな丸い帽子を脱いで横に置いた。そしてポケットからラスカを出して地面に座らせると、痛む手のひらで加減しいしい手を叩いて客を呼び込んだ。
「さあさあ、道ゆく皆さま、お立ち会い!
ここで上演しますのは、まるで糸が付いていないように見えます人形芝居!
小さな天使が天上の舞を披露いたします!
本当に生きているようなラスカ嬢のお芝居をご覧ください!」
数人の通行人が足を止め、怪訝な顔でこちらをみやる。
フォクセルは絶妙なタイミングで手のひらを動かして、糸を操るふりをした。
今では棒さえ持っていない。
腕や五指を動かすだけで彼の手に糸が付いているように見えるのだ。
座っていたラスカが立ち上がり、一歩足を引いて白いスカートを左右に持ち上げ、長い金髪の頭を下げて気取ったお辞儀をしてみせる。
見物人たちがざわざわとし、周りに人垣が出来始める。
さらにラスカがゆったりと踊り始めると、人々からは感嘆の声が聞こえてきた。
フォクセルは糸を操るふりを続けながら、いつもよりもっと人が集まりそうだと思った。
惨めな気持ちから始めた人形劇だったが、やっているうちにどんどん楽しくなってくる。
だが、そのとき。
「おい、止めないか!」
乱暴な声とともに、人垣がさっと割れた。
フォクセルはぽかんとして手を止め、乱入してきた男を見つめた。
ピカピカ光る銀色の鎧を身にまとった壮年の騎士が、いかつい顔をしてこちらを睨みつけている。
「小僧、城門前では大道芸は禁止だ! とっとと失せろ!」
見物人から、続きを見せろとヤジが飛んだが、壮年の騎士がギョロリとした目玉を向いて群衆を見渡すと、彼らはそそくさとその場から立ち去り始めた。
騎士はまたフォクセルに目を戻すと、脅すように赤い紐をくくりつけた槍を見せつけた。
「さあ、お前も早くいけ! 串刺しにされたくはないだろう!」
そこまで言われては仕方がない。
フォクセルは来た当初よりもっと情けない気分になりつつ、帽子を被り、腰を浮かしてラスカをそっと持ち上げた。
ラスカも内心憤懣やるかたないのだろうが、今は人形という形を取っている以上、ニッコリとした笑顔を崩していない。
そのとき、蹄の音を響かせて、白馬に引かせた豪奢な金色の馬車が通りを走って来た。これでもかと彩色がしてある馬車には、誰もが知る印章が付いている。
赤いライオン。カサン帝国の紋章だ。
フォクセルの目の前で、その馬車は急に止まった。
彼は、そのごてごてとした装飾の馬車を口をあんぐりと開けて見ていた。
赤い紗がかかったカーテンで、中はよく見えない。
兵士が不意に背筋を伸ばし、槍を地面につき、左手で胸を抑えて低く頭を下げた。
赤いカーテンから、さっと扇が差し伸ばされる。
それが合図のように、兵士が飛びつくように窓辺に近寄った。
ひそひそ話している声は聞こえるものの、聞き取れるのは、途切れ途切れの兵士の声だけだ。
「……しかし……ですが……」
「……下賤の者の持ち物など……確かに、ものは良いと思いますが……」
「いや……ええ……はい……」
やがて話がまとまったのか、大柄なその兵士は丁重にお辞儀をして馬車から離れると、どすどすとフォクセルの側へやって来た。
「あー、その。さる高貴なお方が、その人形をご所望だ。
金貨を三枚やるから、人形をこちらに手渡すように」
嫌です、と言いかけたフォクセルだったが、またいきなり右手が熱くなり、めまいとともに彼の目線が低くなった。
そして、抗議する間もなく擦り傷だらけの両手に抱えられていた。
また『スイッチ』だ。
自分の体に入ったラスカが片膝をつき、優雅にお辞儀をしているのを見て彼は驚く。
天使はこんなこともできるのか。続いて、ラスカが馬車に向かって流暢に話し始めた。
「カサン帝国第一皇女、エリューシア・リフィリエル・サンダルフォン・カサン様とお見受けいたします。
ですが、たとえ皇女様にでさえ、この人形だけをお売りすることはできません。
私は人形使い、これは商売道具でございます。
私ごと買っていただかねば、このフォクセル、路頭に迷ってしまいます」
馬車の扉が音を立てて開いた。
赤い扇を持った召使いが、慌てふためきながら扉を閉めようとしているが、その膝の上に乗った五、六歳くらいの子供が腕を突っ張ってそれを止め、興味深々の眼差しでこちらを眺めてくる。
カサンでは珍しい緑色の瞳に、ふわりと揺れる亜麻色の髪が巻き毛になって垂れ下がっている真っ赤な頰をした幼子。
昨日のフィービとよく似ていた。
金糸銀糸を織り込んだ目も眩むような服を着ているところだけが違っていたが。
あどけない声で、その女の子が尋ねる。
「どうして乗っているのが私だとわかったの?」
「それは、私が––」
そのとき彼の目線がぱっと上がり、いつもの高さに戻った。
ラスカは、と助けを求めるように手に持った彼女を見つめるが、彼女は忠実に人形の真似をしていて目配せさえしてくれない。
こんな重要なところで戻らないで欲しい、と彼は口をぱくぱくさせながら考えを巡らせた。
が、全く言い訳が思いつかない。
破れかぶれのフォクセルの口から飛び出たのは、こんな言葉だった。
「ええと……僕は……救国の英雄だからです!」
一瞬のち、馬車の周りは爆笑に包まれた。
召使いたちや御者、さっきフォクセルを追い払おうとした騎士までもが、腹を抱えて笑っている。
笑いすぎて涙が出たのか、ハンカチで目の周りを拭きながら皇女は言った。
「道化志望なのね! いいわ、一緒に雇いましょう!
そして、あなたのお人形劇を見せてちょうだい!」
あまりに予想外の成り行きに、彼はぎこちなくお辞儀をするだけで精一杯だった。