第5話 未来で待つ者
大きな革の手袋に掴まれて、窒息しそうだ。
いきなり『スイッチ』なんてひどい、とフォクセルはその場にいないラスカに抗議したかった。
身体を入れ替えるなら入れ替えると、一言言ってくれればまだ覚悟ができるのだが。
荷馬車の戸が乱暴に引き開けられ、手のひら大のラスカの身体に入ったフォクセルは荷台にさっと置かれた。
鞭を当てる音とともに、ガタゴトと荷馬車が動き出す。
はずみでフォクセルは荷台から転がり落ち、したたかに右の羽の関節をぶつけた。
じいんという痛みがしみわたり、彼は、ラスカの羽はやはり本当に背中から生えていたんだということを身体で思い知る。
痛みで動けずにいると、突然柔らかな手に捉えられ、彼は思わず息をつめた。
「お人形さんだ! パパ、可愛いお人形さんだ!」
自分の身長より高い位置まで持ち上げられた彼を、緑色の大きな瞳が愛おしそうに眺める。
三、四歳くらいだろうか。
ハチミツ色の髪をした幼子が、満面の笑みを浮かべてこちらを見ていた。
「フィービ、人形を壊すんじゃないぞ! これで家に帰れるんだ!」
御者台の向こうから切羽詰まった声が聞こえた。どこか聞き覚えのある声だ。
少し考えて、フォクセルは思い当たった。
馬車を押し売りしようとした、髭面の商人だ。
「素敵なお人形さん! 私も欲しい!」
「だめだ、フィービ! お前のものじゃないぞ」
フィービという名前の子供の手でくるくると振り回され、彼は胸がむかむかしてきた。
ここで吐いたら、人形ではないとバレてしまう。
そうなればどうなるか、フォクセルにも予想はついた。
希少な妖精と間違われ、もっと高値で売り飛ばされるに違いない。
と、もう一度高く持ち上げられたときに、後ろの窓が見え、フォクセルは人形のふりも忘れて口をあんぐりと開けた。
窓から身軽に飛び降りたフォクセルが––いや、中身はラスカが入っているのだが––棒切れを持ち、恐ろしい勢いで馬車を追いかけてきている。
未だかつて、こんなに早く走る人間を見たことがない。
ラスカは瞬く間に疾走する馬車に追いついてくる。
「く、来るな!」
馬車とほとんど並んだとき、ピシリと馬用の鞭が鳴り、窓から彼の頭を狙って鞭が飛んだ。
が、ラスカは全く動じず、首を曲げて鞭を避けている。
そのとき馬がいなないて反り返るように後ろ足だちになり、急に車がバキバキと音を立てて止まった。
その反動で、フォクセルたちもしたたかに箱馬車の壁に叩きつけられた。
さっき翼をぶつけた痛さよりももっと激しい痛みが襲い、気がとおくなる。
扉が乱暴に押し開けられる音がして、彼は目を開けた。
目の前には、馬車の床に転がった女の子と、その手に握られたラスカ。
彼は自分の身体にまた戻ってきていた。
よいしょ、とラスカがまだ気絶している女の子の手から這い出してくる。
手足を動かし、首を回した後、ラスカは呆然としているフォクセルに文句を言った。
「痛いわね。私の身体よ! 大切に扱ってよね」
「いや、今のは確実に君のせいだと思うんだけど……どうやって止めたの?」
「車輪に棒切れを入れて無理やり」
彼は、恐る恐る自分の手を確認してみる。
なんとなく痛いと思っていたが、荷馬車のランプに照らされた両手は、皮がむけて真赤になっていた。
自分のことは大切に扱えと言っていたのに、これはラスカもお互い様だろう。
「うう……痛いよう! 痛いよう!」
女の子が起き上がって泣き始めたので、フォクセルは慌てて駆け寄った。
泣いてはいるが、頭にコブができている以外、特に問題はないようだ。
しゃくりあげる間に、蜂蜜色の髪の少女は涙声で尋ねた。
「お兄ちゃん……だあれ?」
「……人形の持ち主だよ」
「……お人形さん……持ち主がいるの?」
「お、お願いです! 子供にひどいことだけはしないでください!」
後ろから声をかけられて、フォクセルは振り返った。
黒ひげのおじさんが、こちらも泣かんばかりの表情で馬車の外で固まっている。
どうもフォクセルがわざと子供を泣かせたものと決め付けているようだ。
とりあえずフォクセルは、言葉を選びながら咎めた。
「ええと……僕の持ち物を盗んだおじさんの方がひどいんじゃないかな」
「それは……すみません、お返しします……」
眉を下げてしょぼくれた顔をした髭のおじさんが、懐からフォクセルの銅貨が入った皮袋を取り出した。彼は口をへの字にしたまま皮袋を受け取った。
おじさんは申し訳なさそうに言う。
「それと、人形は、あの子が持っています……」
「それは大丈夫、もう見つけたから」
フォクセルは馬車の座席の下から痛む手でラスカを持ち上げてポケットへ入れ込む。
もう一度外へ向き直ると、おじさんの姿が見えなくなった。
少しの時間のはずだったが、とフォクセルはきょろきょろとおじさんを探す。
と、おじさんは馬車の横で額をつけてうずくまっていた。
「お金も人形もお返ししますから、どうか兵を呼ばないでください!
こうするしかなかったのです!
誰も馬車を買ってくれず、お金も底をつきました! 後一日しかないのです!」
フォクセルは何となく居心地が悪くなり、自分も馬車から降りて地面にしゃがんだ。
それにも気づかないのか、おじさんは懸命に弁明を続ける。
「どうか、子供のためを思って……兵に引き渡すのだけは……」
「そもそも、どうしてこんなことを? 大体、この人形は僕しか扱えないんだよ?」
おじさんは顔をあげた。髭面に涙が滴っている。
「私たちはグンナル諸島の薬屋です。
毎年、秋には家族総出でカサンへ薬を売りにくるのですが……冬の初めには帰り着くはずが、春まで足止めをくらってしまい……」
「流行り風邪?」
フォクセルが聞くと、おじさんは頷いた。
「薬もただ同然の値で供出されてしまいました。
この季節から先、グンナルにはモンスーンが吹いて航行ができないんです。
今年最後の定期船の出港は明後日なのに、俺達には船倉に入れてもらう金すら用意できずで。
馬車を売ろうとしても、馬も馬車もおんぼろじゃ買い手もいなくて……珍しいあんたの人形を売れば、なんとかなると思ってしまったんです。あんたが宿の窓にいるのが見えて、つい魔がさして……」
フォクセルは、はっとして馬車の中でグスグス泣いている子供を指差した。
「もしかして、この子のお母さんは……」
「はやり風邪で……情けないが薬屋のくせに助けられなかった。
どうか、兵だけは……」
繰り返し頼まれたが、フォクセルにも兵を呼ぶつもりはさらさらなかった。
彼のしでかしたことが公になっていたら、捕まえられるのは彼も同じだ。
兵は呼ばない、ときっぱり伝えると、涙で汚れたおじさんの顔に少し笑みが戻ってきた。
フォクセルは銅貨の袋を、まだ地に手をついているおじさんに差し出した。
「人形をあげるわけにはいかない。
でも、この袋があれば船には乗れるよね?」
「……本当に? 本当にもらえるのか?」
何回もその言葉を繰り返した後、髭の男は恐る恐る銅貨の袋を受け取り、さっきよりももっとボロボロと泣き出した。
「ああ、ありがてえ。ありがてえ。
あなたにタクト大伸のご加護がありますように」
「もうあるわよ」とポケットから小さい声が聞こえ、フォクセルは思わずポケットを抑えた。
「馬鹿ねえ。馬鹿にもほどがあるわ。何も全部あげちゃうことないでしょうに」
馬車が夜道を走って行くのを見届けた後、宿屋への帰り道でラスカがポケットの中からぶつくさ言った。
が、フォクセルは口笛を吹きたくなるような愉快な気分だった。
「ねえ、前の僕もそんなに馬鹿だった?」
「そうね、まあまあってとこ。
でも、私が盗まれるのは今回が初めてよ。
高値で売れると思われたのは嬉しいけれど、迷惑だわ」
ラスカがポケットから顔を出し、より大きな声で文句を言う。
「でも、ラスカは無事だったし、よかったじゃないか。
それに、僕はあの家族を助けられて嬉しいんだ。
あの子と僕は似ている。僕より小さいのに、ママが流行病で死んでしまうなんて。
あの子……フィービが幸せになるといいな」
「待って」
鋭い声で、ラスカが遮った。
「今、なんて言った?」
「ええと、幸せになるといいなって……」
「その前よ!」
彼は首を傾げ、そしてポンと手を打ち、痛みで顔をしかめた。
「ああ、あの子、フィービって名前なんだよ。
馬車が停まってからはずっと泣いてたから、君は聞いていないだろうけど」
「……」
ポケットからのぞいている彼女の顔は、整っている分ぞっとするほど冷たく見えた。
「……同名というだけなことを祈るわ」
「何、どうしたの? あの女の子に何があるの?」
ただならぬ雰囲気に、フォクセルの楽しい気分も吹っ飛ぶ。
「あの子が本当に私の探している『フィービ』なら……
これから彼女は大変なことになるはずよ」
「それって予言なの? 何が起こるの? 止められないの?」
フォクセルが矢継ぎ早に質問を浴びせかけたが、ラスカは首を振った。
「何にしろ、私たちには、今の時点で何もできない。
あの子を殺せば世界滅亡が早まるし、あの子が船に乗るのを止めれば、魔王の最初の攻撃目標はカサンになるでしょう」
また物騒なことを言い出したラスカを、フォクセルは驚愕の目で見つめた。