第2話 掲げる毒杯
一番いい部屋、などと言ってもこの宿屋には三部屋しかない。
三つの中で、一番清潔な奥の部屋に病気の彼女は召使いに担がれ運ばれた。
隣の部屋は召使いたち、その隣の入り口に近い場所は騎士たちが雑魚寝する。
半年ぶりのお客のおかげで、埃をかぶらんばかりだった宿が急に生き生きとし始めたようだった。
フォクセルは金貨の袋を持たされ、いろいろな場所へ駆け込むことになった。
近所のおかみさんに雌牛を借りて乳を搾り、風車小屋でパンを分けてもらい、医者をつれて駆け戻る。
貴婦人以外の皆がパンとミルクという粗末な夜食を食べて二階にあがると、彼はようよう解放され、また台所の椅子に腰掛けて一息ついた。
が、吸った息を吐き出す暇もなく、階段を降りてくるけたたましい靴音に邪魔された。
「少年! ミルクを持ってきてくれませんか。奥方様が所望しています」
台所から階段の様子をうかがおうと顔をのぞかせたフォクセルに、召使いの一人がそう言いつけると、また足音を立てて上がっていった。
彼は慌てて扉から顔をひっこめ、隅においてあるミルク壺を抱えてテーブルへ置く。
そしてテーブル脇にある食器棚から木のコップを取り出し、布で念入りに拭いた。
ミルク入れの壺を傾け、コップにミルクを注ぐ。
白い線が木のカップに落ち、黒いコップを白で満たしていく。
注ぎ終わり、壺を戻しにフォクセルがテーブルを離れたとき。
壺を置いた途端、背中に嫌な予感が走り、彼は思わず振り返った。
ラスカがいつの間にかフォクセルのポケットから出てテーブルに立っている。
そして、コップをじっと眺めている。
フォクセルはじっとりと汗ばんだ手を服で拭いながら聞いた。
「ラスカ、どうしたの?」
彼女は意を決したように、顔を上げて彼の目を見つめた。
「さあ、ここに毒を入れるのよ」
そう言ってコップを指し示す。
フォクセルは思わずかぶりをふった。
「あの人、魔王どころか、悪い人に見えないよ。それに病気だ」
「そうね。でも、あの人がいい人か悪い人かはこの際重要じゃない。
ここで私の言ったとおりにすれば、貴方は救国の英雄になるのよ」
まるで教会の祈りのように淡々とした調子で話すラスカに、フォクセルはますます驚愕した。
脳裏に、二階で寝ている貴婦人の顔が蘇った。
具合が悪そうにしていたが、対等に話してくれた。
魔王かもしれないと怯えていた彼に、優しい言葉をかけてくれた。
頭を撫でられたときには痺れたようになり、ただ一つの考えだけが頭をぐるぐると駆け巡っていた。
まるで——ママが帰ってきたようだ、と。
「できないというなら、私がやる」
沈黙して立ち尽くした彼を待ちあぐねたのか、ラスカが重々しく言い、片手を振り上げた。
そして、フォクセルには分からない不思議な言葉を唱えながら円を描くような手つきをする。
と、彼の右手の手のひらが突然かっと熱くなった。
視界がうねる。
瞬きをした次の瞬間、彼は叫び声をあげそうになった。
自分の分身が、目の前に突っ立っていたからだ。
顔もそっくり同じだが、ぞっとするほど巨大だった。
彼の十倍以上はあるだろうか。
まるで巨人のような自分を目の当たりにして、フォクセルは固まったように動けなかった。
部屋はだだっ広く、天井は見上げるように高く、調度品も巨人サイズだ。
フォクセルは堅い木床の上に立っていると思っていたが、巨大なテーブルの上にいるということに気付いた。
彼は震える手を押さえ込み、巨人に向かって声を張り上げた。
「お……お前は誰だ!」
「私よ」
ぬっと巨人の手が差し出され、フォクセルはぞっとして飛びさすった。
そのとき、目の端を長い金髪が流れ、身体が背からふわっと浮いた。
白い長い服がなびく。
肩の後ろの筋肉が異様に動いた。振り返って確認すると、これまた白い羽が肩の辺りから飛び出していることが分かってぎょっとする。
一体何が起こったのか、彼はようよう理解した。
「ラスカ……もしかして、僕はラスカになったのか?」
「私と少しの間だけ身体を交換できる。私が貴方にかけた加護よ。
待ってて、すぐに済むから」
馬鹿でかい自分がまるで女の子のような言葉遣いで返してきた。
フォクセルとそっくりだが、ただ一カ所、大きな瞳だけが緑色に変わっている。
ラスカの目の色だ。
彼は巨大な自分にラスカが入れ違いで入っていることに気付いた。
大きな緑色の瞳がキョロキョロとあたりを見回す。
そして目指すものを部屋の隅に見つけて屈み込んだ。
フォクセルは上階の客に気づかれる危険も忘れ、危うく悲鳴を上げそうになった。
巨大な手が掴み上げたのは、ネズミ避けの毒液をたっぷり染み込ませたチーズの切れ端。
食べ物がすっかりなくなってしまったときでさえ、食べようとしなかった代物だ。
彼は慌ててテーブルの端に駆け寄り、小さな手を振った。
「いや、止めようよ!」
しかしそんな言葉など聞こえなかったかのように、フォクセルの格好をしたラスカはカップの上で指を離した。
ポチャンと白い液体が跳ね返り、毒入りのチーズは白いミルクの底に沈む。
彼はそのコップに駆け寄りながら、必死で懇願した。
「ねえ、ラスカ! 聞いてくれ!
僕のママは病気で死んでしまったんだよ!
あの人がいくら悪い人だとしても、こんなやり方はないと思うんだ!」
だから説明したでしょう、とラスカは素っ気なく言い、毒入りのカップをさっと持ち上げた。
「今、一人の人間を見殺しにすれば、未来の数億の命を救える。
それはいいことだと思わないの?」
数億。その数字に頭がくらくらした。
彼女一人を見殺しにするだけで数億の命が救われるというのが本当だとしたら——。
しかし、彼の頭には、まだ撫でられたときの感触が残っていた。
あんなに優しくされたのは親が亡くなって以来だ。
彼はからからに乾いた喉で説得した。
「それでも……僕は、救ってみせる!
僕が本当の英雄になるのなら、あの女の人と未来の数億の命、どちらも救えるはずなんだ!」
巨大な緑色の目がじっとこちらをうかがう。
そのとき、くらりとまた目まいがして、フォクセルは一瞬目を閉じた。
次に目を開けたとき、彼はミルクのカップを持って立っていた。
テーブルの上には小さなラスカが立っていて、こちらを不満そうに見ている。
「ああ、戻っちゃった。時間切れね」
「……とにかく、これは捨てて別の方法を考えようよ」
フォクセルはやっと自分の身体を取り戻したことに、ほっとして言った。
ラスカが何か言いかけたとたん、また階段を駆け下りる音が聞こえた。
召使いがこちらに来る。彼は慌ててラスカをつまみ上げてポケットに入れた。
間髪入れず、台所の扉が乱暴に開けられる。
「ミルクはまだなの?」
カツカツと高い音を立てて召使いの一人が台所に入ってきて、フォクセルの持っているミルクに目を留めた。
「私が持っていくわ」
召使いはフォクセルから有無を言わさずカップを奪うと、さっさと大股で部屋を出ていった。
フォクセルは青ざめたまま、固まっていた。
これで世界は救われるのだろうか。
まだ何も起こっていないのに。
——そう、まだ何も起こっていないのに、予言という名の口約束だけで、人が一人殺されようとしている。
そこまで考えたとき、彼は猛然と台所から走り出し、階段を駆け上がっていった。
廊下で番をしている兵士を押しのけ、ノックもせずに一番奥の扉を開ける。
小さな部屋のベッドに、貴婦人が寝かされていた。
その周りに、三人の召使いと呼んできた医者がぎゅうぎゅうにたむろしている。
山羊ひげの医者がぽかんとした顔でこちらを見ていた。
貴婦人は枕を重ねて身を起こし、一人の召使いが、今まさにコップを差し出しているところだ。
何事か、と目を丸くする召使いたちをかき分けて、フォクセルはベッドに進みより、勢いよくコップを叩き落とした。
中のミルクが床に落ち、白い染みがあたりに飛び散る。
召使いは悲鳴のような声を上げた。
「何をするのです!」
それに答えず、フォクセルはくるりと向きを変えると、必死で走り出した。
兵士に止められる前に、二階から転げるように階段を下り、そのまま外まで走り出る。
毒を盛ったことは、おいおいばれてしまうだろう。
この状況では弁解も難しく、大体騎士がこちらの言い訳を聞くとは思えない。
きっと理由など問いただしもせず、斬られてしまうだろう。
一刻も早くこの村から出なくては。
彼は息が続く限り走りに走った。薄い靴底を通して砂利が足に食い込み、痛む。
村の門まで来たとき、彼はやっと息をついて門に寄りかかった。
ポケットから小さな声が聞こえた。
「失敗したわね」
彼はポケットから天使をつまみ出して文句を言った。
「あんなの、英雄のすることじゃないよ。
もっと正しく、偉大なことをするのが英雄じゃないか」
彼が怒っているにもかかわらず、月に照らされたラスカの顔はなぜか晴れやかだった。
「……あなたはいつだって、ここで失敗するのよ。
でも、それがきっとあなたなんだわ」
「どうでしょうか。奥様のご病気は……」
妙な挙動をする宿屋の少年がこぼしたミルクを片づけた後、召使いは診察を終えた医者に小さな声で尋ねた。
「いやなに、ご心配はいりません」
貴婦人と召使いは頭を寄せ合って医者のぼそぼそと聞き取りにくい声を聞いた。
一瞬で、今まで顔色の悪かった貴婦人の顔が、ぱっと明るくなる。
「まあ、すぐに、あの人に知らせないと! ローザ、早馬を!」
ローザと呼ばれた召使いも満面の笑みで頷き、扉を開けて廊下に出ると、ひそひそ声でも抑えきれないような楽しい調子で騎士たちに声をかけた。
「今すぐ、ティルキア王様と本国に知らせに走ってちょうだい!
王妃様がご懐妊されたと!」