第1話 夜来る客
村の門を通る小道を行くと、荒れ地とみまごうばかりの手入れがされていない畑に黒い家家がぽつりぽつりと立ち並ぶ。明かりの灯っている家は少なかった。
フォクセルは大通りとは名ばかりの地道をてくてく歩き、一つの家の扉の前で立ち止まる。
ひさしに取り付けられた燕の看板が風にあおられてキイキイと鳴っていた。
この家も、明かりはついていない。
フォクセルは重い樫の扉を開けて中に入った。
「ただいま」
安っぽいテーブルや椅子が木の床板の上に乱雑に放り出されている。
暗い酒場の中には誰もおらず、酒瓶が並んでいた棚は埃を被っている。
酒などとっくの昔に売り払ってしまっていた。
一階は酒場、二階にはちいさな三部屋を備えた安宿。
この村で一軒しかない酒場兼宿屋『ツバメ亭』がフォクセルの住まいだった。
彼は立ち飲み用のカウンターを跳ね上げて台所に入った。
寒々とした部屋で、暖炉の中からまだ少しだけ火がある炭を冷たい火かき棒でつつき回し、小さく切った薪に火をつけた。
やがて暖炉に大きい火がともり、薪がぱちぱちとはぜる音と出すと、フォクセルはほっとして火かき棒を置き、薪で燭台に火を灯すと、テーブル脇の大きな椅子にぐったりともたれかかった。
「ちょっと、痛いじゃない!」
フォクセルが何の気なしに肘で押したポケットから、抗議の声が聞こえ、彼ははっとして手をのばした。
小さな女の子をそっとポケットからつまみ出し、何もないテーブルの上に置く。
手のひらくらいの大きさしかない、金髪の女の子は白い羽をふるわせ、長い布を巻いたような服についた砂や埃をぱたぱたとはたき落としている。
夢の続きでも見ているような気分で、彼はその天使と呼ぶには小さすぎる女の子を見つめていた。
まるで、旅の人形師が操る人形に魂が宿ってしまったかのような不思議な光景だった。
フォクセルはテーブルに肘をつき、彼女を見つめながら言った。
「それで……ラスカ、だっけ。もっと詳しいことを教えてよ」
しかしラスカは首を横に振った。
「だめ。全て話しては、やがて貴方から未来の変動が魔王に漏れてしまう。
そうなれば、こちらの持ち駒は全て覆されてしまうもの」
フォクセルは首をひねった。
やはり、改めて聞いても意味が分からなかった。
しかし全て話してはもらえないということまで理解できた彼は、最後の部分に興味を示して尋ねた。
「世界がねじれるとどうなるの?」
「神が見通せぬ真の暗闇……」
自然に彼女は言いかけ——視線を逸らす。
「ごめんね、私も真の暗闇のことはよく知らない。
でも、私の身体は世界が一回ねじれる度に小さくなっていくの。
奇跡も、どんどん起こしづらくなっていく。
神気が消えていくのよ」
「神気? 神様に願いが届かなくなるってこと?」
まあ、それもあるわ、と彼女はこくこくとうなずいた。
「私が話せるのは、あなたが運命に選ばれた白騎士というおつげと、次にするべき行動。
これだけは、いつも一緒なの」
「それで、怖い魔王は今どこにいるの?」
ラスカはまた、暗い目をして言った。
「……向こうから来てくれるわ」
『サレナタリア』と記された村の門を、黒い馬の影が連なって通り過ぎる。
口から泡を吹きながら走る馬たちが、ガツガツと地面を蹴りつける蹄鉄の音。
三台の箱馬車と騎士の一団が、月光をたよりに村の夜道をひた走っていた。
四頭立ての黒塗りの馬車は、この辺鄙な道では珍しいひどく豪華なものだ。
窓は、目隠しの布がランプの光を透かし赤く流れる。
窓から白い手がそっと布を上げ、柔らかだがどこか苦しげな調子で女が御者に話しかけた。
「御者さん、ここはどこの村かしら……」
「サレナタリア村です。
ここも例の『流行り風邪』が通りましたが、もう落ち着いているんです」
御者は馬に鞭打つ手を止めずに答える。
今度は低く、落ち着いた声で男が返した。
「まさか、南街道が封鎖されているとはな。明後日の披露宴に間に合えばよいが」
「間に合わせますとも!」
御者が大声で答え、またもや馬に鞭をくれた。
馬たちは吼えるようにいななき、足を速めた。
「……先の大きな街で馬を換えてくれ。それでは持たぬ」
そう言って壮年の男は余計激しくなった揺れに耐えようと、手すりを持って向かい側の妻に微笑みかけた。
狭い馬車の中には、四人がぎゅうぎゅうに詰め込まれていて、皆が激しい揺れに四苦八苦しながら手すりにしがみついていた。
その中の一人。黒髪を頭の上にお団子にして、下に垂らした風変わりな髪型に結い、金襴のドレスを身につけている彼女は、彼が微笑みかけていることに気付くと、少し口角を持ち上げた。
が、その端正な顔はろうでできたように青白かった。
思わず、頬に手をかける——馬車に掴まっていないほうの手を。
「大丈夫か、顔が青い」
ええ、と彼女は頷き、意を決したように顔を上げる。
先ほど御者に話しかけた、柔らかな声が彼女の口から発せられた。
「……私、気分が優れませんの……いいえ、貴方は行かなければなりません。
新婦の兄であるあなたが出席されなければ、婿のカラミス公もがっかりなさることでしょう。
がっかりするだけならかまいませんが……これが外交に差し支えては困ります」
男は哀れみの眼差しで、妻の血色の悪い頬を撫でた。
「辺境の領地とはいえ、カラミス公もカサン帝の従兄弟だからな。
機嫌を損ねられては、我らのような小国にとっては大打撃だ。
しかし、本当に顔色が悪いぞ」
「ですから、私だけ……この村で休ませて頂きたいのです。
あなたさえ結婚式に出席すれば、ティルキア王家の顔も立ちますでしょう」
「それはそうだが……」
彼はカーテンをはね除けて村の景色を眺めようとしたが、隣を駆けていく騎士が見える以外、一面の闇が外を覆っていた。
流行が止まったとはいえ、こんな疫病の蔓延した土地に妻を置き去りにしたい夫がいるだろうか。
不安げに妻を気遣う男に、彼女は弱々しく手を振った。
「カラミス公とアルマ姫によろしくお伝え下さいませ……
気分がよくなりましたら、すぐに参りますと」
フォクセルがスープでも作ろうと腰を上げたとき、表で騒ぎ声がした。
けたたましい馬の蹄が幾重にも響いたかと思うと、馬車の車輪がきしみ、一斉に静まる。
荒々しく扉が引き開けられる音がして、野太い声が怒鳴った。
「なんだ、この宿は! 誰もいないのか!」
フォクセルは、思わず天使を手にとってポケットの中に隠すと、台所から燭台を持っておそるおそる酒場に出てきた。
黒い皮鎧を着た騎士が立っていた。背丈は鴨居につくぐらい高い。
出てきたフォクセルを睨むような目つきで眺め、フォクセルは一瞬この男が魔王ではないかと冷や汗が出た。
「おい、小僧! この宿で一番いい部屋を頼む!」
そう告げると、騎士は扉を大きく開く。
ランプの明かりが眩しく輝いた。
それを隠すようにゆったりと広がる裾を翻し、女の人影が立ちはだかる。
毛皮のローブをまとった一人の貴婦人を、二人の召使いが支えていた。
周りに扉を開けた者と同じ装束の騎士たちがその周りをとりまいている。
彼らはうやうやしく一礼をすると、二人を残してまた馬に跨がった。
挨拶も忘れて、フォクセルはその中心にいる女の人を凝視していた。
魔王だというから、もっとおどろおどろしい者だと思っていたが、予想を裏切られた。
ふんわりとした黒髪のお団子頭の下にある、鼻筋のとおった卵形の顔は、全く普通の人間のように見える。
しかし、その顔には血の色がなく、足取りも覚束ないことは少年のフォクセルでも分かった。
貴婦人が、柔らかい声音で囁くように言った。
「お宿を借りてもよろしいかしら」
「ママはいませんが、それでよければ」
青い目の上の弓形の眉が下がった。
「構わないわ……ママは、流行風邪で?」
「そうです」
言った途端に、近付いてきた彼女の白い手が彼の頭につと伸ばされた。
反射的にフォクセルは身を引く。
が、そのとき彼の金髪の頭は、ゆっくりと優しく撫でられていた。
「可哀想に。入ってもいい?」
「……どうぞ、二階の部屋へ」
間をおいて、フォクセルは震えを抑え、声を出した。
一同は奥方を中心に、どやどやと宿に上がり込んだ。