豚小間キャタリシス
豚小間……豚肉を商品用に整形した時に出る肉片のこと。安いときは100 g 90円以下で買える。
キャタリシス……触媒作用
触媒……化学反応の前後で変化せず、反応速度を劇的に増加させるもの
注)日常ラブコメです
「佐藤さん帰って」
「いや」
佐藤さんは畳に寝転がりながら、かたくなに首を振る。
そんな佐藤さんを見て、僕は大きくため息をついた。
佐藤さんがひょんなことから僕の部屋に上がり込むようになって一か月と少し。
『年頃の女の子が男の部屋に上がり込むなんて……。近所で嫌な噂が流れたら大変だ』と思い、あの手この手で説得しているが、佐藤さんは耳を貸してくれない。
こっちは佐藤さんのために言っているのに、佐藤さんはこちらの気遣いなど胡麻一粒程度も気づいてくれないんだ。
その証拠に、今日も彼女はバイト終わりに僕の部屋へ直行し、こうしてごろごろしている。
もう一度、大きくため息をついた。
「なんで僕の部屋に来るの? 僕の部屋の一つ上だよね?」
「階段、外、暑い、だるい」
文章にはなってないけど、言いたいことは分かる。要するに、暑い中、階段を昇るのがめんどくさいみたいだ。
その気持ちは激しく同意するし、二階じゃなくてよかったと思うことも多々あるけど……頑張ろうよ。
彼女は実に気だるそうに畳に突っ伏していた。そして徐に顔を上げて、
「この部屋……落ち着く」
大層幸せそうな笑顔を浮かべる。
人様の部屋に勝手に居つかないでほしい。
「まったく……」
立ち上がり、窓を開ける。
突然動き始めた僕を、畳に寝転がっている彼女は怪訝そうな目で睨みつけてきた。
何をする気かって目が語っている。
何度言っても居座る邪魔者を窓から放り投げる……なんてこと、するつもりはない。
佐藤さんが僕の説得を無視するのなら、僕はもうできることはないし、居てもらうことに対して僕自身は別に不満はない。
ただ、今、僕が立ち上がったのは、日も暮れはじめた午後五時半、そろそろ夕飯の支度をしようと思っただけだ。そう睨まれられてしまうと、こちらが悲しくなる。
やがて彼女はニュース番組が流れるテレビに目をやり、右上に表示されている時間を目にした。途端さっきまでの不機嫌そうな顔はどこへやら、向日葵の様に満面の笑みを浮かべる。
「私、肉がいい」
「肉か、いいな」
この辺りの肉はどれも高くて、僕らのような貧乏人には高級品。……だけど、今日は金曜日。たまの贅沢くらい許されてもいいはずだ。
古くて嫌な音を立てながら軋む板張りの台所に立ち、冷蔵庫を開く。
「……」
続けて冷凍庫を開く。
「……!!」
中に何も入っていないことに気が付いて驚愕した。いまや僕の冷凍庫はクーラーと役目が変わらないのか。あるいは冷凍庫の淵に霜を作るだけの霜製造機か。どっちにしても冷凍庫の本来の役割は果たせてあげられそうにない。
『御免、冷凍庫』と心の中で謝り、諦めてふたを閉めようとした時だった。
「おっ?」
冷凍庫の奥から勢いよく転がり出てきたのは、ラップに包まれた豚小間肉だ。よかった、無事に、腹の虫を、収めることができそうだ。
それにしても、豚小間肉なんていつ買ったんだろう。冷凍庫に入れてたから随分前か? でも肉なんて買った記憶は……まあいいか。今は腹の虫を収めるのが最重要課題。
意気揚々と豚小間を取り出して冷凍庫を閉め、豚小間は電子レンジの中へ……入れようとして踏みとどまった。見間違いじゃない、よしんば見間違いだったとしても、腕にかかる重さが現実を突きつけてくる。そう……この豚小間……
「一人分しかない……」
絶望に脳内がフリーズ。背後で「肉ぅ~肉ぅ~」と肉屋のCMのように歌っている彼女の声だけが悲しげに聞こえてくる。
――肉が……食べたい。
もう二か月近く肉を食べていない。思い出すあの豚小間肉の味……。溢れ出す肉汁、絡む白いご飯、口の中に広がる旨味。この快楽を、一週間激務に耐えたこの体で味わえないなんて……来週の月曜日からの激務に支障を来すに違いない。
「やっぱり……僕が食べても……いいよね……」
そうですね! と背後でテレビのリポーターが奇跡のコラボレーションを起こす。
心の中に満ちる甘い……いや旨い誘惑に心が折れそうになる。
――だが……!
佐藤さんもここ最近肉を食べていないはずだ。十六歳だし、成長期だから、僕よりも余計に肉が欲しいはず。僕同様に、貧乏人でバイト戦士である彼女が望むのなら、年長者として素直にこの肉を差し出してあげなくてはならない気がする。
うん、そうだ。それがいい。
――僕は、決めた。
「佐藤さん」
「なに?」
きょとんとした彼女の顔に背を向けて、玄関の扉を開ける。僕は片膝を着き、恭しく一礼して、言い放った。
「お帰り下さい」
彼女の顔はきょとんからぽかんに変わりやがて眼を大きく見開いた。ついでに口も……。やがて彼女は現実を理解しさらに大きく口を開けて騒ぐ。
「なんでええええええええええええええええええええ!!??(ぐぅ~)」
「うるさあああああああああああああああああああい!!!!(ぐぅ~)」
負けじと声を張り上げるが、二人の腹の虫を助長させるだけだった。
***
佐藤さん。たぶん苗字が佐藤、下の名前は知らない。
御年十六歳にして、おんぼろアパート『あわい荘 二〇一号室』にて一人暮らし。二つに結った長い栗色の髪。スレンダーな身体つきで、本日のお召し物である白地のカットソーと紺色のロングスカートもよく似合っている。
年よりも大人びて見えることが多く、スーツでも来ていれば仕事のできるキャリアウーマンにでも見えるだろう。だから僕も、年下の女の子だけど佐藤『さん』とさん付けで呼んでしまう。でも実際は料理ができないことや、部屋に戻るのをめんどくさいという理由で、人の晩飯をたかる身勝手な人だ。
「豚小間が一人分しかない? それで私を追い出そうとしたんだ! 酷い!」
「違う違う。ただ穏便にお帰り頂こうかと」
「追い出してるじゃん!!」
細長の瞳は、今は怒気を孕んでさらに細められ、僕はその迫力に思わずたじろぐ。
なまじ顔が整っている分余計に怖い。美人が怒ると怖いというのを、彼女で身を持って実感した。身長は僕よりも小さい分見上げるような形になるのだが、それが余計に背筋を凍りつかせる。
「なんで!? そこは私に譲ってくれるところでしょ!? 男として!」
「い……いや、こればっかりは譲れない。今日の肉は僕のもんだ! いつもいつも飯たかりにきやがって! 今日ばっかりはぜぇぇぇったいに譲らない!」
「優太のバカ! 根性なし! 甲斐性なし! 名前負け!」
佐藤さんはぐぬぬぬと眉間に皺を寄せて、奥歯を噛みしめた。いつもならこれぐらいで折れるのにと思っているに違いない。だが今日の僕の譲らなさぐあいは尋常じゃない。
「何と言おうと、今日ばかりは僕が食べます」
「なんで!?」
「大人の世界には、年功序列という制度があるのですよ佐藤さん」
「いやいやいや、優太と私って大体同い年ぐらいでしょ?」
「僕の方が四つ上です……」
『呆れております』と全力でアピールするように大きくため息をついた。ついでに両手も上げて、首も傾げる。その様子が、彼女には少々癇に障ったようだ。唇を尖らしてこちらを見上げてくる。やがてぼそっと一言……。
「大人ぶっちゃって……童貞の癖に」
「なっ……!」
なんてことを……。僕は彼女を咎めようとするが、口を金魚の様にパクパクとさせるだけで、言葉が出せない。
その様子を見てにしししと彼女は笑う。スカートの端を掴むと、挑発するように見せ付けてきた。
「ほれほれ……大人ならこういうのに反応しないよ~」
「年頃の女性がそんなことするもんじゃないですよ……佐藤さんはしたない」
それに直線で色気が全然ない佐藤さんの色落としなんて誰が引っかかるか。世の中にはそういうのが好きな人がいるらしいけど、僕はうん、全く持って魅力を感じない。僕は決してそういうのではないし、そういうのでもないからそういうのには全然全くこれっぽちも反応しないし、ましてはそういうのをそういう人がやってきたルートもしっかり通っているから佐藤さんのことなんか全然反応しない自信あるしましてやそういうのがそういうのでそういう……
「優太、顔真っ赤だよ」
「……うるさい」
無理だ無理無理。反応しないなんて絶対に無理。女の子がスカートひらひらさせていたら、男なら確実に目で追ってしまうだろ。そういうもんだろ。
「そうだ。 優太、勝負しよう?」
「……また?」
高鳴る心臓を押さえつつ、短く返事を返す。
佐藤さんは、何かあると、すぐに勝負を仕掛けてくる。
前回はテレビのチャンネル争奪戦で『ババ抜き対決』、前々回はそうめんの極まれに入っているピンク争奪戦で『指相撲対決』だった。今回は一体何を……。
彼女はにやりと意地の悪い笑みを浮かべる。
「にらめっこしよ、目を逸らしたら……負けね」
「そこは笑ったらじゃないの?」
「佐藤家の特別ルールです。景品は言わなくてもわかるよね」
人差し指を唇に当て、にっこりとほほ笑む。「何を考えているんだ?」と考える暇もなく、床に座らされ、目の前に佐藤さんが現れる。しかも咄嗟に目が合ってしまう。
「え、僕の意見は聞いてくれないの?」
「ききませーん」
なにか佐藤さんに秘策がありそうだけど、今は乗るしかない。ようするに目を逸らさなければいいわけだから、もしかしたら僕でも勝てる可能性はある……かも。
まあ、ちょっと睨みあったら、『あ、あそこに肉の塊が……』とか言って指さしてやれば一発だ。彼女は間違いなく振り返り、視線が外れて僕の勝ち。堂々と肉が食えるという隙のない作戦だ。
「……」
「……」
睨みつけるように眉間に皺を寄せると、彼女は目を薄めて挑発するような目を向けてきた。
上等だ乗ってやろう。僕は気合を入れるように膝をぶっ叩いた。
こうなったら絶対に負けない。今日の晩飯は肉を食うと決めたんだ。
そんな僕の様子を見て彼女はまた笑う。
実はこの時点で、僕は彼女の術中に嵌っていたのだが……、当時の僕は欠片も気が付いていなかった。
「……」
「……」
視線は佐藤さんの目から離れないが、それ以外の情報ばかりが脳に入ってくる。
開け放たれた窓から、子どものじゃれ合うような声や近所の奥さんの笑う声が入ってきて、微かに残響した。
佐藤さんからフローラルな香りがして、やっぱり女の子なんだな、と、どうでもいいことを考えた。
「……」
「……」
こうやって改めて見ると、佐藤さんは少し切れ目だけど、その瞳は丸く力強い。
親の反対を押し切ってまで都会まで飛び出し、夢のために邁進している彼女の、意思の強さを垣間見ることができる目だ。そんな目ができる同い年なんてそうそういないんじゃなかろうか。年齢的にはまだ高校生なんだし。
膝と手が汗ばんでいるのを微かに感じて、思わず手を洋服に擦り付ける。
「……」
「……」
まずい……何も考えられなくなってきた。頭に靄がかかったみたいになって、身体がどこかに浮いている感じさえする。至近距離で長時間目を合わせることが、こんなに大変なことだとは思いもしなかった。
嫌なら目線を外せばいいじゃないと思うかもしれない。いやそれでは肉が食えなくなると反論してくれる人もいるかもしれないが、ぶっちゃけ今の僕はどっちも頭になかった。
彼女の瞳から逃れることができない。少し色素の薄い茶色の双眸、力の抜けた瞼、長い睫毛とアイライン。僕の目が完全に囚われて、絡め取られて、縛り付けられて、とてもじゃないが逸らすことなど、できない。
捕捉されているのは目だけじゃない。全身の筋肉という筋肉が硬直して動かなくなっている。少々汗ばむくらいの陽気なのに、そのことを感じる余裕すらない。唾を飲み込む暇すら、彼女は与えてくれない。
それなのに彼女はどこか余裕であるかのように見えた。僕の目のその奥を見つめられているかのよう。悟られぬようにしているはずの、この動揺さえ見透かされているような気がする。
「ねえ優太。こんな話知ってる?」
「……なにが?」
声が裏返らないようにするので精一杯だ。
「人間ってね……。至近距離で見つめ合うと、十秒もすれば自然とキスする体勢になるんだって」
「そ、そうなんだ……それが?」
僕はなんとか答えを絞り出す。しかしその実、彼女の言葉のほとんどを僕は認識できていなかった。
この後の言葉を除いては……。
彼女の目がさらに細められ、人差し指が唇に触れた。
「ねぇ、気付いている?」
――優太、さっきから近づいて来てるよ。
「――うわぁっ!!」
硬直が解け、彼女から体を離そうと右手に力を入れる。しかし汗で手が滑り、手のひらで畳を強打。勢いを殺しきれずに体勢を崩し、右肘を畳にぶつけて、振動が骨の髄まで響く。
「うわぁ、今の痛そう……。大丈夫? ちょっと見せて?」
近づいてくる、彼女が。
彼女の声が、
香りが、
体温が、
そして………………唇が。
その紅さに、やわらかさに、思わず視線が釘付けになってしまって、『駄目だ』と頭が理解して、引きはがそうとする。でも、すぐに視線が吸い込まれる。
ああ、違う。こんなの嘘だ。
――こんなにも佐藤さんを意識しているなんて……
「はい、私の勝ち~」
先ほどまでの雰囲気はどこへやら、佐藤さんは急にいつもの調子に戻ると左手でVサインを作った。快活に笑いながら人差し指と、中指をにぎにぎと動かす。
「先に視線を外したほうが負けって言ったでしょ? 優太が体勢崩して、視線外したじゃん。だから私の勝ち」
「あ、ああ」
その勝負の事すら忘れていた。佐藤さんの戦略的な言葉攻めによって僕は敗北したらしい。
でもそんなこと、今はどうでもいい。勝負は終わったのに、視線が離れてくれない。彼女から……。彼女の唇から。
なんてものを残しやがった。佐藤さんは、不思議で、とても恐ろしく、……そしてとても甘い。
「さっきからどうしたの? 顔真っ赤だよ?」
「いやなんでもない。……ちょっと近寄んないで」
「そんな寂しいこと言わないでよ。まさか、にらめっこが効いてるわけではないよね? 冗談なのに」
「そんなことあるもんか、とりあえず近寄るな……ってなんで来るの?」
「なんか面白そう」
僕が膝立ちになって逃げようとすると、彼女も両手を広げながら膝立ちになり、いつでも捕縛できるような態勢を取る。その状態で僕は一歩後退、しかし彼女は一歩前進。一歩後退一歩前進を繰り返し、僕らの間は一定の距離を保ったままだ。
「本当のこと言っちゃいなよ。さっきのが効いてるんでしょ?」
「いや効いてない。断じて」
「強がっちゃって」
「強がってない」
「さっきの私……可愛かった?」
「可愛いもんか、なにやってんだかって呆れてたんだ」
「そんなに顔真っ赤にして呆れてたんだ……へぇ~~」
「そうだけど? ……なに?」
彼女は顎を突き上げ、半眼で僕を見上げてくる。
豚小間はもうあげてもいい。なんなら料理してやってもいい。だけど、佐藤さんを意識してしまったことは絶対に悟られてはならない。そうしないと今後同じ手を使われた時に……僕が、耐えられない。
しかし、そんな僕の想いは届かなかったようだ。
「絶対に『かわいい』言わす!」
「は!? ちょっと待って佐藤さん! 目的が変わって……」
「問答無用!!」
「ちょっ……やめ……!!」
飛びついてくる佐藤さんを間一髪で躱し、意味にならない言葉を叫びながら、ドアを蹴り開けて、外へ逃げ出した。
***
「逃げることないでしょうに……」
一人部屋に取り残された佐藤は、開けっ放しのドアを見ながら呟く。
「こんなに免疫ないんじゃ、いつまでたっても彼女なんて出来そうにないなぁ」
呆れたように呟いて……安堵のため息を漏らした。ドアを閉めて、開け放たれた窓枠に座る。
でもまさか慌てたからって本当にドアを蹴り開けて逃げるとは思わなかった。あんなに焦る優太を佐藤は初めて見たかもしれない。今日のアレは多少なりとも効果があったみたいだ。
「ざまあみろ」
強情で負けず嫌いで女の子に免疫がなくて、でも底なしに優しくて暖かい。
佐藤はそんな優太のことが好きだ。
……でも優太は、佐藤のことなんか、見てくれない。それなら、多少自分の羞恥心を犠牲にしても、佐藤は優太に自分のことを見て欲しかった。そのために今まで色々な勝負を仕掛けていたが……
「今日のは自分でもわかるくらいやりすぎだったような……気がする」
熱が溜まって沸騰しそうな頭を叩き、上気する頬を夕方の風に当てる。
勝負に勝ち、獲得した豚小間は、やっぱり要らないような気がした。
東から微かに藍色が迫り、浮かぶ三日月を見て、呟く。
「お腹よりも胸の方がいっぱいになっちゃったかな……なんて……」
その言葉を発端に、頬から熱が舞踊り、全身を満たしていく。
「うわああああああああああああああああぁぁぁぁ!! 私の馬鹿ああああああああああああぁぁ!!」
耐えきれなくなって大絶叫し、佐藤は窓枠に頭を強く打ちつけた。
仲間梓です。
自分の中でリハビリを兼ねて描きました。読んでくださった方が楽しんでいただければ、これに勝る喜びはありません。
アニメで「貧乏すぎて肉が食べれない!」みたいなキャラがいるのをよく見てきたので、「肉は相当高いものなのかな?」と思っていました。実際はそうでもなく、野菜の方が高いですよね……。
でもそれで、「なんだよ嘘つきじゃん、肉の方が食べれるじゃん」とか思ってはいけません。
だって
『その安物の肉すら食えないくらい貧乏』
なのだと解釈したら、
『シャレにならないレベルで家計がピンチ』
ということが伝わると思います。
さてあなたの一食はおいくら?
それではまた~。