儚き女神に捧ぐは恋歌 5
目が覚めた時には全てが元通りだった。
「……夢?」
少年は負傷したはずの体が傷一つ無いのを見て怪訝に思う。散乱した資料にも崩れた気配は無い。と、視線をさまよわせるうちに絡繰の残骸の前で震える少女が目に入った。
「……サクヤ?」
「……ごめん、なさい」
彼女は泣いていた。
「生きている貴方達を、ちゃんとした形で作ってあげられなくて、ごめんなさいっ……」
少年は耳を疑った。生きている。今、彼女はそう言わなかったか?
「……どういうこと?」
「……かつて私と彼は人造生命を作っていたの。生体に強い私と機械に強い彼。相性ばっちりの私達でも、それはやっぱり困難だった。ここにあるのはその失敗作。私達は出来損ない共を容赦なく捨てた。でも作りものだとしても魂は確かにあったのよ。彼が作った歌に反応したんだから」
もしそれが事実ならどれだけ残酷な話だろうか。
遠い昔から時に置き去りにされ、ただそこにあるだけ。それに確固たる自我があったらアイデンティティの崩壊に繋がる可能性もある。そして彼女自身もまた、自分とその相棒が手塩かけて作りだした思い出のものに襲われたというのもどれほどの精神的苦痛だろうか。
少年は拳を固く握りしめる。爪が皮膚に食い込んだが、少年は一切の痛みを感じなかった。まるで、かつて生きていた時のように。
「……ユーヤ、この研究室は今後封鎖するわ」
少女は俯く。その後ろ姿を少年は優しく見守った。
「そうだね……今までありがとう」
あの声を間近に感じた以上、最早少年に焦る気持ちは無かった。運命に気付いたからだ。だから、今はただただ彼女への感謝と同情で胸がいっぱいだった。
研究室を封鎖してからもユーヤは少女の元へ通った。だが少女はあれからずっと沈んだ様子だった。
「サクヤ?」
「一人だけ憑き物が落ちた顔して妬ましい。今の貴方は弟に甘い普通の兄よ」
いつもの恨み言にユーヤは思わず苦笑する。
「だってネルは可愛いからね」
義務感ではなく、単に心の余裕ができたせいか、弟の可愛さに気付けた彼の溺愛ぶりは下手したら親馬鹿よりもひどいかもしれない。拗ねたように頬を膨らませていた少女だがやがて意地悪そうに唇を尖らせる。元が美少女のせいかそんな表情でもかわいく見えるのは得だな、とかユーヤは思った。
「あ、でも痛覚がほぼ無いのだから普通の人ではないわね。ざまぁみなさい」
ユーヤはそれに対して首を傾げる。どこが異常なのかせ理解していないように。
「何が?僕にとって当たり前の世界に変わっただけだよ」
ユーヤにとってそれは彼との一番分かりやすい繋がりである。それに痛覚が無かった時期の方が長いし、これからもそうだろう。だから支障はない。ただ親に知られると面倒なことになるので他の人には知らせていないが。
「そういえば王女様やオランスの御子息に逢ってきたんだろう?どうだったんだい?」
「いい子達だったわ……私もあんな風に前世なんて気にせず笑いたいものよ」
無意識にあの研究室がある場所を視線が彷徨う。彼女の罪は相変わらずそこにある。きっと正義感の強い彼女は永遠にそれを赦せないのだろう。とはいえ捨て去ることもできず。
いっそ彼女が何もかもを忘れてしまったら。一瞬脳裏をよぎった考えは不穏で、そしてユーヤ自身にとっても意外だった。嫌な予感を振り払うようにユーヤは会話に戻った。
その事件が起きたのは半月後だった。物音を聞きつけたユーヤは同じく騒ぎを聞きつけたことによって出来た人混みを掻き分けてコノハナ家があった場所に辿り着く。そしてユーヤは絶句する。
黒い。インクをぶちまけたかのように屋敷があった場所は黒く染まっていた。同時に瓦礫の間に転がった人型の何かとそれらに囲まれた虚ろな表情の少女。その傷だらけの右手は金属の何かを握っていた。
「何をやったらこんなことに……」
「召喚事故じゃないか?」
彼女をよく知りもしないくせに勝手なことを言う有象無象。ユーヤは座り込んだままの少女に駆け寄った。彼もまた黒い粘性のある液体に汚れるがそんなことはどうでもいい。彼女の方が心配だった。
「サクヤ!いったい何があ」
「それが、私の、名前……?」
その問いの意味に気付いたユーヤは思わず少女に手を伸ばそうとしたまま固まってしまった。訳が分からず怯えている姿は神性を失った女神のそれではなく。まさに彼女が憧れた《普通の少女》だった。
「…そうだよ。君はサクヤ、コノハナ家のサクヤ。サクヤ・コノハナだよ」
だからユーヤはいつものように人畜無害そうな顔立ちを引き立てる柔和な笑みを浮かべた。心の中では志を共にした同朋の事実上の死に涙しながら。自分を偽ることには慣れている。
少なくとも自分ではそのはずだった。