第18話 驚愕
「ほれ、挨拶をしてみろ」
ノアがそう言って促すと、もじもじとした様子でナナは言う。
「わ、わたしは、ナナ、です! よろしく、おねがい……し、ます!」
一語一語区切るような、舌足らずなしゃべり方だったが、その意味するところは十分に伝わる。
ノアはマリーとメリザンドの教育の成果をここに見た気がして、嬉しくなり、ナナの頭を撫でて言った。
「おぉ! いいじゃないか。完璧だ! いい子だな、ナナ。干し肉をやろう!」
そう言って腰につけた皮袋の中から一口サイズに小分けされた干し肉を取り出し、ナナに手渡す。
ナナは、
「ほしにくっ! ほしにくぅ!」
とぴょんぴょんとジャンプしてノアの手から干し肉をもらって、即座に口に運ぶ。
「もぎゅ……もぎゅもぎゅ……」
と、味わうようにかみ続けるナナ。
そんなノアとナナの様子を見て、絶句しているフィガール侯爵とセーラ。
「お兄さま、まさかすでにそのお年で……人の親に……!?」
とあらぬ疑いのこもった台詞を言うセーラである。
しかしさすがにフィガール侯爵の方はわかったもので、
「まさか……そんな訳ないじゃないか。ノアがどんなに早熟って言っても、そう言う方向でそこまで進んでいるということは……ない、よね?」
途中まではハハハ、と軽い微笑みを浮かべていたフィガール侯爵であったが、最後の方は消え入りそうな、どうかそうであってほしいと懇願するような口調だったのはご愛敬だろう。
ノアは二人の言葉にあきれて言う。
「そんな訳ないじゃないですか。セーラもおかしなこと言うなよな……」
すでに二人のメイドに疑われた後である。
特に動転せず笑い飛ばすことが出来たが、それがなければここでもおかしな慌て方をしてしまったかもしれない。
そのことを考えると、マリーたちのからかいも無駄になっておらず、何となく腹立たしいような、納得しがたいような気持ちが湧いてくる。
しかしまぁ、それはいいだろう。
ノアは続けた。
「この娘はナナ=ザハーク。俺の娘……じゃなくて、俺の、そう……侍女みたいなものですよ。王都に来る道中、いろいろありまして、拾ったのです」
「拾ったって、ノア……犬や猫じゃないんだからさ。そもそもその子の保護者は?」
フィガール侯爵があきれたように言う。
「完全な孤児のようですね。会った当初、着ていたものからして、数年間は街にも寄らずにさまよっていただろうと予想されます。本人もそういう意味合いの発言をしていますから、信じていいでしょう」
その言葉に驚いたのはセーラである。
「数年間さまよって……? 街にも寄らずに? その年の子が、ですか? 見ればまだ七歳にもなっていないような幼子ではありませんか。そんなことが出来るとは思えないのですが……」
この言葉は、別にノアのことを疑ったというわけではなく、単純に言葉通り信じられないのだろう。
実際、普通であればそんなことは不可能だ。
しかし、ナナにはナナの事情がある。
「セーラの言うこともわかるが……マリー。ちょっと見せてやってくれ。ナナも」
ノアがそう言うと、静かなメイドとして部屋の隅に佇んでいたマリーが一歩前に出る。
それから、ノアはナナの耳元で何かをつぶやいた。
その雰囲気に首を傾げるフィガール侯爵とセーラだったが、
「では、お二人とも、少し下がってください」
と言われて部屋の隅の方に下がる。
代わりに部屋の真ん中の方へと進み出たナナとマリーが向かい合った。
そして、マリーが腰につけた皮袋から、やはり干し肉を取り出し、すちゃり、と構えた。
「では……はじめ!」
とノアが叫ぶと同時に、ナナがマリーに飛びかかる。
そのスピードは恐るべきもので、ぱっと見、ただナナの体がぶれたようにしか見えなかった。
しかし、次の瞬間にはナナはもうマリーの目の前にいた。
ナナの口はマリーの手に握られた干し肉に向かって大きく開かれていて、そのままがきり、と噛んだが、マリーも負けてはいない。
ナナの口が閉じる直前に手につかんだ干し肉の位置をずらすと、自分も動いてナナから距離をとった。
それを見たナナは、今度は下から、と考えたのか、四つん這いになって低い位置からマリーを攻める。
ほんの数瞬で自分の足下にまでやってきたナナが、そのまま垂直に飛び上がってくるのをマリーは驚きを持って見つめるも、これくらいの身体能力があることはすでにマリーは知っていたから、対処することが出来た。
干し肉を持ったままバック転をしたマリーは、メイド服を乱さずにしっかりと着地し、またナナと対峙する……。
一連の動きを見て、目を見開いているのはフィガール侯爵とセーラだ。
唖然とした顔で見つめ、それから、
「……ノア。彼女は一体……」
「あれは獣の動きですわ……」
とつぶやく。
ノアはそれに頷いて、
「あの娘は《黒闇の森》の畔で拾ったんです。彼女……ナナの話によると、生まれたときからずっと、黒闇の森で育ってきたらしく、あの動きは森の中で身につけたと言うことでした」
「あの森か……あんなところで人が何年も生きられるのか、と聞きたいところだけど、あの動きを見た後だと……」
フィガール侯爵が顎をさすりながら唸った。
「しかし……また、どんな経緯でお兄さまと来ることになったのですか? あまり言葉も覚束ない様子ですし……」
セーラがそう言ったので、ノアは正直に言う。
「あぁ、最初はな、馬車に襲いかかってきたんだ。食い物が欲しかったらしくてな……」
「えぇっ!? だ、大丈夫でしたの?」
セーラは口をあんぐりとあけて言った。
この驚きは、仕方がない。
何せ、ノアはセーラにもフィガール侯爵にも自分の戦闘能力を直接見せたことはなかったからだ。
フィガール侯爵は家令であるジョゼフからの報告である程度は予測をたてているのだろうが、セーラはノアが戦えることなど全く知らない。
だからこそ、目の前であれほどの動きを見せる者に、自分の兄が対抗できるとはとてもではないが思えないのだろう。
貴族の教養に武術があるとは言え、特別な場合でない限り限界がある。
ナナの動きはその限界を超越していた。
「まぁ、最終的には大丈夫だったからここにいるのさ。会話もエルト王国語やほかの共通語は通じなかったが、古王国語は通じたぞ。交渉もそれで、な。しかしまさか学問がこんなところで役に立つとは思わなかったな」
と何でもないことのように語る兄に、セーラはふらふらと崩れ落ちる。
ノアはその体を支えると、そろそろ心臓に悪いかもしれないと二人を止めることにした。
「ナナ、マリー。もういいぞ」
そう言うと、マリーは動きを止めてナナに向かって干し肉を投げた。
するとナナはその干し肉を空中でキャッチして、またもぎゅもぎゅと食べ始める。
「おいしいっ!」
と嬉しそうにほほえむその姿には邪気がいっさい感じられないが、それを見ているフィガール侯爵の顔は難しい。
「……危険はないのだろうね?」
そう言ったフィガール侯爵の目は笑っていない。
当たり前だ。
あれほど危険なものを扱いきれもしないのに懐においておくことなど出来はしないからだ。
裏切られればおしまいだからだ。
ノアもそれはわかっているが、フィガール侯爵の心配が現実になることはない。
一度戦った経験から、いざというときは、手段を選ばなければどうにか出来るとノアは感じている。
それに……。
「……あの娘は常識がかなり欠けているところもありますが、基本的には善良ですよ。あとで父上も話してみてください。それがわかりますから。あぁ、会話するときは、エルト王国語はまだそれほどはなせないので、古王国語でお願いします。確か、父上も古王国語は話せましたよね?」
ノアの言葉にフィガール侯爵は眉をしかめて、
「古王国語は学院で学んだけど……記憶の彼方だからなぁ。まぁ、なんとかがんばってみるよ。無理だったら通訳よろしく」
とノアに微笑みかけた。
どうやら、ノアのことを信じてみることにしたようだった。




