第12話 洗濯
「待ちなさいっ!」
王都の王城にほど近い位置にあるフィガール侯爵家のための館、フィガール館。
その大きさは、他の貴族の館とは一線を画するもので、庭も尋常ではないほど広く、生け垣で作られた迷路や噴水など、それだけで楽しめるようなほどに凝った作りになっているくらいである。
もちろん、館の内部もすばらしく豪奢であり、館に一歩入れば、そこはホールになっていて、足下には一枚作るだけで数年の歳月を要するような絨毯が惜しげもなくしかれ、そこここの台に飾られた花瓶は一つ一つが高名な作家の作品であり、壁を見れば美術館に飾られていてもおかしくないような有名画家たちの描いた歴代フィガール侯爵家当主達の厳粛な似顔絵が大きくカーブした大階段に沿って飾られている。
いくつもある部屋に入れば、そのどこにおいても品がよく、また質のいい家具がさりげなく設えられており、よく手入れの行き届いていることを示すように飴色の輝きを放っている。
そんな部屋に続くであろう扉のうちの一つ、大浴場へと続く扉ががちゃりと開き、そこから一人の少女が飛び出してきた。
「……! ……!」
泡だらけの様子で、現代の言葉とは異なる言葉で叫びながらいやいやをしつつ出てきた彼女であったが、その直後、にゅっと扉から飛び出してきた細い指を持った手に、がしり、と肩を掴まれて部屋の中に再度、引きずり込まれていった。
扉ががちゃり、と鍵の閉まるような大きな音を立てた。
部屋の中……つまり、大浴場の中で待っていたのはフィガール侯爵家のメイドであるマリーである。
逃げようとする少女の手を掴み、懇々と彼女は語った。
「……気持ちは分かりますが、逃げるのはやめなさい。あの森に住んでいた頃であれば確かにぼさぼさの髪でも薄汚れた服でも何の問題もなかったのかも知れませんが、これから貴女はフィガール侯爵家の人間となるのですから、もっとこざっぱりとした格好を心がけねばなりません」
王都につき、フィガール館についてから少女の世話を言いつけられたマリーであるが、まず第一に、マリーは少女を洗う必要性を強く感じた。
思いのほか、臭ったりはしなかったし、よく見ればそれなりに洗ったような形跡が感じられないでもなかった少女である。
ノアに尋ねてもらえば、森にいるときは獲物の血や土などで汚れたときは森に湧き出ている泉で体を洗ったりしていたということであるから、汚れているのはイヤだ、という一般的な感覚はないではないらしい。
ただ、それでも取り切れてない汚れ、石鹸などを全く使わなかった影響や、それに本人の美に対する意識が薄く髪を梳いたことすらないらししことから、髪はぼさぼさであり、肌も何となくざらっとしていて、爪がぎざぎざになっているなど、女性目線で見ると目も当てられないような状態だったのは間違いなかった。
これが、全くの醜女であったとか、そう言う場合なら多少小綺麗にすればそれでいいか、となったかもしれないが、こと今回とっつかまえたこの少女の場合、そんな状態でもはっきりとわかる美しさを持っていたため、人形遊びをするような気持ちになってしまい、マリーはこの美しさを磨かなければならないと使命感のようなものを感じ始めてしまった。
その結果としての徹底的な洗浄と、そしてお手入れである。
今はその第一段階としてのお風呂の時間な訳だが、いかんせんこの少女は石鹸など見たことも使ったこともないらしい。
髪を泡立てて洗ってやり始めたところで、目にしみたらしく暴れ出したのだ。
ただ、ノアが事前によく言い含めてくれたらしく、その暴れ方はあの初対面のときの恐ろしい身体能力を活用したようなものではなく、いやいやをするような、その辺の少女のするような穏やかなものだったり、ただひたすら逃げ回ったりするようなもので、少女なりに気を遣っているらしいとわかるようなものだった。
だからこそ、言葉で言えばなんとなく伝わるかなと色々と話しかけながら洗ってやっているのだが、これも思いのほか効果があった。
マリーが喋っている間は、一応、少女もおとなしくされるがままになっているのである。
言語が異なっていても、何となく喋っていることはわかる、ということだろうか。
だとすれば、意志疎通が可能なレベルでエルト王国語などを少女が修得するのもそれほど遠い日ではないかも知れない、とマリーは考えながら、少女の髪をがしごしと洗った。
「……しかし、洗えば洗うほどわかりますが、本当にすばらしい髪をしていますね……」
「……?」
少女は泡が目にはいるのがこわいのか、目をつぶったまま、マリーに顔を向けて何かを言った。
マリーは通じないのはわかっていても、話を続ける。
「貴女の髪がきれいだ、と言ったのですよ」
「……き、れ……?」
真似しようとしたのか、言いにくそうにそう言った。
マリーは頷いて、もう一度同じ単語を言った。
「き、れ、い、です」
「き、れ、い……」
「そうです。貴女の髪は、きれいです。これほど見事な銀白色の髪を私は今まで一度も見たことがありません。色つやもさることながら、これは乾かせばさらさらになるのでしょうね……全く、うらやましい限りです」
「?」
長い文章はやはり意味が分からないらしい。
しかし、褒められた、ということは何となく雰囲気から理解できるようで、少女は目をつぶったまま笑ったのだった。
そんな少女の頭からざばりとお湯をかけて泡を流す。
それから、ぷるぷると頭を振って、少女は水気を切ったのだった。
◆◇◆◇◆
「……お子さんですか?」
フィガール館の扉を開くと同時にふざけた台詞を放ったのは、王都におけるパラディール商会の実務を取り仕切っているメリザンドである。
ノアの世話についてはマリーに任せ、彼女はこういった実務の方に回ることが多くなった。
そんなメリザンドが今日、フィガール館にやってきたのは、ノアに王都における商会の現状を詳しく説明するためだったのだが、扉を開いた彼女の目に最初に飛び込んできたのは、小さな少女と手をつなぎながら歩いてくる水色の髪を持ったメイドだったというわけだ。
「……寝ぼけたこと言っている暇があったら手伝ってほしいのですが」
マリーが取り合わずにそう言うと、メリザンドは珍しく慌てて、
「えっ、えっ。マリーさんのお子さんじゃないなら、もしかしてノア様の……っ!?」
どう解釈したらそうなるのかはわからないが、至ってまじめな様子でそう言っている。
「そんな訳ないでしょう……あの年齢でこれくらいの子供が、ということになると、仕込んだのは十歳くらいと言うことになってしまいますよ。無理です」
「ですよねっ……あー、よかった。久しぶりにお会いできると思ったら、これですもん。あの方にはまるで安心できません……」
「それについては同感です。この子についてもあの方の気まぐれが作用してここにいるのですから」
「へぇ、なんか色々あったみたいですね? 話を聞かせてくれますか?」
「ええ、もちろん。同僚には聞いておいてもらいたい話ですから。しかし、まずは着替えてきてください。その格好ですと、メイドと言うよりはどこかの貴婦人にしか見えませんので」
メリザンドは言われて自分の格好を眺める。
それはかなり上質な素材で作られたドレスであり、確かにマリーの言うとおりだ。
パラディール商会の会頭はレオンだが、メリザンドも幹部と言っていい位置におり、他の商会などとの交渉には彼女が出て行くことが少なくないため、王都ではこの格好が基本なのである。
髪型もどことなく豪華で、ぱっと見はメイドなどではなく、人を遣うことに慣れた若い貴婦人に見えなくもない。
「……そうですね。では、ちょっと待っててください。ちゃんと、その子のこと、説明してくださいね!」
そうして、メリザンドはそう言って館の奥へと走っていった。




