第1話 プロローグ
辺りには鬱蒼と茂る樹木と、羽音を立てては飛び去っていく小さな昆虫達。
そして、そんな昆虫を餌とする鳥獣に、緑の中を食料を求めて徘徊する獣たち。
それが、その場所に存在するものの全てだった。
東西南北どの方向を見つめても、視界を遮る木々とその樹木から流れる甘露を探しては草木の間を飛ぶ極彩色の虫の姿、それにのっそのっそと木々の間を通り抜けていく巨大な獣の歩く様しか見えない。
それも当然の話で、ここは人の手の殆ど入ったことのない魔境と呼ばれる地域の一つ、≪黒闇の森≫と言われるエルト王国辺境における最大級の危険地帯。
魔獣が跋扈し、樹木でさえ場合によっては人を襲ってくる可能性のある危険な場所であった。
けれど――
「……おぎゃあ……おぎゃあ……!!」
そんな恐ろしげな場所に今、なぜか、耳を澄ませば聞こえてくる、赤子のものと思しき泣き声が響いていた。
旅人がこんな事態に出くわせば、おそらく自分の空耳であろうと無視するような、そんな状況である。
世は戦乱の時代だ。
そうなれば当然のこと、乳飲み子など貧しい農民が簡単に抱えられるはずもなく、またいずれ成長していくに連れ増えていくだろう食い扶持を考えれば、何も分からない赤子のうちにどこかへ置いていってしまおうと考える親がいないわけではない。
だから、どこか道端に人の子が捨てられていることなど、さして珍しいことではなかった。
けれど、たとえそれが正しい事実であるとしてもこの場所に捨てるのは明らかにおかしな話だった。
なぜといって、ここは魔境であるからだ。
他のどんな場所よりも危険な――場合によっては、戦場よりも遥かに安全の確保しがたい地域であるからだ。
そんな場所に、いったいどんな親がわざわざ自らの子供を捨てに来るだろうか。
いくら後ろめたくて、できるだけ見つからない場所を探したいと考えていても、ここを選ぶことなどあり得ない。
自分の命を守るための子捨てなのに、その守るべき命を危険に晒すなど愚の骨頂ではないか。
他に見つかりにくく、簡単に辿り着ける場所が山ほどあるのにわざわざこの≪黒闇の森≫を選ぶことなど、ありえるはずがない。
それなのに、不思議なことに、森の奥から、確かに赤子の泣き声が聞こえてくるのだ――。
木々や草木をかき分けて辿り着く、その場所。
柔らかな優しい光の落ちる、その場所。
そこには、樹木たちがぽっかりと、誰かのためにゆりかごを作るかのようにその枝や根を避けて、まるで広場のようになっているところがあった。
その中央に、泣き声をあげる赤子が確かに、いる。
どうやら、大声で泣いているようだ。
おそらく、親を求めているのだろう。
響きわたる声はそのうち、魔獣を呼び、そして彼らの腹の中へとその赤子を運ぶのかもしれない。
実際、辺りには、弱きもの、死にかけの獣や、獣のうちでもまだ上手く自分で体を動かすことの出来ない幼体を好んで襲う鳥獣や魔獣の声が響いている。
そして、それだけならまだしも、赤子の声に混じり、次第に大きな音が聞こえてくた。
どしん、どしんと。
まるで巨大な生き物が、その赤子のもとへとやってくるかのような音が聞こえてくる。
ほら。
来た。
恐るべきことに、今やその生き物は、赤子を睥睨するような位置に屹立していた。
魔獣。
魔力持つ獣。
その中でも最も危険性の高いとされる生き物。
それは、竜だ。
赤い鱗に、ぎらぎらとした目、それに鋭く尖った刃のような歯をいくつも携え、その赤竜は赤子を見下ろしていた。
あぁ、赤子の命は、もうここで終わってしまう。
もし、赤子の運命を声を潜めて見守る存在がいれば、きっとそんなことを思っただろう。
けれど。
「……ぺろ」
意外なことに、その赤い竜は、赤子を自らの腹に収めることはせずに、優しくその頬を舐めた。
赤子は突然のことに、一瞬泣き声を大きなものにするが、何度も繰り返されるうち、それが危険なものではないと気づいたらしい。
「きゃっきゃ……!」
笑顔で赤い竜の舌と戯れはじめ、ぺしぺしと赤竜の鼻先を叩き始めた。
我が子がこのような状況にあれば、どんな親でも息が止まる。
竜の鼻先に触れられるものなど、それこそ勇気ある英雄か、竜の恐ろしさなど何一つ知らない愚者のみだからだ。
けれど、不躾に鼻先に触れられたはずの赤竜は、赤子にその鋭い歯を立てようとせず、またその喉元から放つことが可能なはずの火炎で目の前の小さな生き物焼き尽くそうともせずに、むしろおとなしく叩かれたままにしている。
それは、まるでその赤竜がその赤子を我が子のように扱っているかのような、不思議な光景であった。
それから、赤子が遊び疲れてすやすやと寝息を立て始めると、赤竜は、赤子の回りをうろうろと周りはじめ、そこら一帯の樹木にその巨体をこすりつけていった。
竜は、この世に存在する生命体の中でもほぼ最上位に位置する最強の生き物である。
そんな存在の濃い匂いの漂う空間に足を踏み入れようとするものなど、それこそ野生の生物であれば存在しないと言っていい。
そのことを竜はよく知っており、だからこそ赤子の回りに自分の匂いを充満させようとしているのだった。
実際、さきほどまでうるさく鳴き声をあげていた屍肉漁りの鳥獣や、魔獣の声が、徐々に遠ざかっているのが分かる。
竜の明らかな赤子を守る意思を感じ取り、諦めたのだろう。
そのことに安心したように、赤子は先ほどよりもさらに明るい笑い声をあげたのだった。
赤子と赤い竜の共同生活はそんな風にして幕を開けた――
◆◇◆◇◆
竜はともかく、赤子に固形物など食べられない。
そのことを竜は知っていたらしく、どこからか液体を運んできては赤子の口元に運んだ。
「……これを飲め」
驚くべきことに、竜は言葉を話せた。
通常の、低位の竜族であれば言葉など理解しないのが常識なのだが、一部の上位竜は人より遥かに賢く、言語をすら操ると言われる。
この竜は、そう言った竜の一匹であった。
そしてこの竜は、赤子にその液体を呑ませるべく口を開かせる。
もちろん、竜であるから、手足にコップを持つわけにもいかず、かといってその口の中に液体を含んで赤子に与えようとすればそれは洪水となって赤子に降りかかるだろう。
そうはならなかったのは、竜が赤子に液体を運ぶとき、その体に宿る魔力を利用して液体を適切な大きさの球体にし、空中に浮かべていたためだ。
赤子に与えるときは、大きな球体から少量ずつ分けて赤子の口元に運び、しかも赤子を窒息させないように細心の注意を払ってゆっくりとその行為を行った。
不思議なのは、赤子はこの液体しか飲まずにしばらく生活したにも関わらず、命を長らえ、しかもすくすくと成長していったことである。
水しか飲まない赤子が息を長らえることなどできるはずもない。
早々に命を散らすのが当然の理の筈である。
そのことを考えれば、これは実に奇妙なことであった。
竜の与えたその液体は、もしかしたら竜しか知らない多大なる栄養のあるものなのかもしれなかった。
しかしそんなことなど赤子は知らない。
だが、その液体が自分にとって有用なものであること、そして非常に美味であるという認識はあるらしく、竜がその液体を赤子の口元に運ぶ度、赤子はきゃっきゃと喜びながらその液体をこくこくと飲んでいたのだった。
そうして、赤子は成長していき、はいはいができるようになり、つかまり立ちができるようになり、そして、とうとう一人で歩行ができるようにまでなった。
赤子の成長を見つめる竜の縦長の瞳孔は優しさに満ちているように思われ、赤子もそれを感じているように竜によく懐いていた。
それからしばらくして、赤子の歩みが赤子のものではなく、幼児のものになり、固形物を口にできるようになりはじめたころ、竜は幼児に自らの食い扶持を自分の力で確保できるように、狩りを教え始めた。
竜の狩りは非常に洗練されていて、知恵と魔術を十分に使ったものであることで知られる。
人類社会において、それは竜を強大な魔物として位置させる根拠になるものだが、幼児にとってそれは非常に優秀な狩人を師匠として得られるということに他ならなかった。
竜はまず、狩りの為に必要不可欠な技術として、幼児に魔術を教えた。
とは言っても、それは人類の魔術師が見たら、人類のそれとは明確に異なると叫ぶようなものだった。
竜は、幼児を森の外の平原へと連れて行き、そしてそこで自らの持つ最も基本的な魔術であるところの"吐息"を見せた。
竜の巨大な顎から放たれる真っ赤に燃えさかる火炎は圧巻であり、また同時に美しかった。
幼児はそれを身ながら目を輝かせて竜を見つめた。
「なぁ、なぁ! それ、俺にも出来るようになるのか!?」
このとき、すでに幼児はある程度の言葉を覚えていて、こうやって会話も出来る様になっていた。
竜としては、いささか、言葉遣いに問題があるような気もしないでもなかったが、巨大かつ偉大なその竜にとって、そんなことは些末なことだったので特に注意をしようとはしなかった。
竜の赤炎を見つめる幼児の目に、怯えはない。
それどころか尊敬と感動が映し出されており、竜はその様子に安心しながらもう一度、"吐息"を放ち、言った。
「練習次第で、お前にも使えるようになるだろう……たぶんな。さぁ、お前も同じようにやれ」
すると、幼児もまねをするように、ふーっと息を吐いたりしはじめる。
当然ながら、その口から"吐息"が生じるようなことはなかった。
一朝一夕で出来る様になるようなものではないのだ。
それができるのであれば、竜の吐息は人類社会にも一般的な魔術として広まっていることだろう。
しかし、竜は幼児がその挑戦を始めたことに喜び、そして何度も自らの技術を披露した。
竜自身がかつてそうであったように、幼児もまた、何度も練習を繰り返すうちにできるようになるはずだ。
竜はそのことに確信を持っていた。
竜は、その野生の勘でもって、幼児の身に宿る強大な力を感じ取っていたからだ。
だから、竜は何度も繰り返す。
幼児がその小さな口から、炎を吐き出せるその日まで。
◆◇◆◇◆
竜巻を横倒しにしたような火炎が、森の中を走る巨大な猪のような容姿をした魔物を無慈悲に襲った。
不思議なことに、周囲の木々を焦がすことなく巨大猪のみを焼き尽くしているその炎は、見れば確かにあのとき幼児だった者の口から放たれていた。
見れば、髪も背も伸びて、あのころとは少し様子が変わっている。
右手に剣を持ちながら燃える猪を見つめるその瞳にはあのころとは違った怜悧な意思の働きが宿っているように思われた。
もちろん、大人になったのか、といわれると、未だ子供の域を出ていない容姿ではあるのだが、明確に雰囲気が違う。
あの頃は、ただの子供だった。
けれど、今は匂い立つような美しさの片鱗が、その身に宿っているのである。
あのころ、性別も分からぬただの子供だった幼児は、今、確かにいつか絶世の美女へと成長することを期待される輝きを放っている。
夜の星のごとく艶やかな光沢を放ちながら滝のようにさらさらと流れる銀白色の髪、獰猛な野性味を宿したまるで血のように赤い瞳が印象的で、肌は今し方降り積もったばかりの新雪のように白く滑らかだ。
もし神が人という種に美を与えたとするのなら、それは彼女のことだと言っても言い過ぎではなく、だからこそ何故このような者が森に捨てられるようにして置かれ、そして今まで育ってきたのか奇妙さが際だつ。
しかしその理由について説明できる者は今この場には存在しない。
弱肉強食が掟であるこの魔獣跋扈する森に置いて、重要なのはただ一つだ。
それは、彼女が今や森に置いて最上位に位置する捕食者なのだということである。
どのような魔獣が相手であっても、もはや彼女が敗北することはない。
赤竜に伝えられた魔術、それに幾度と無く繰り返した狩りの練習は、彼女をこの森において最強の生物へと変化させたのだ。
彼女の口から放たれる魔術"吐息"により生み出された燃えさかる火炎に飲まれた大猪は苦しみ、そしてその鋼鉄よりも強固な毛皮を焦がしていく。
そうして、彼女はぼろぼろと崩れ去った毛皮の一部分を見抜き、そこに手に持った剣を思い切り差し込んだ。
そう。
剣である。
少女は、あの赤竜とは異なり、自らの爪や牙を持たなかった。
もちろん、素手でも戦えないと言うことはないのだが、今少女の目の前にいるような魔物の皮を剥ぎ、肉を切り裂こうと思えば自ずと鋭い刃を持った武器である剣を使うのが最も適切な手段であるのは言うまでもない。
だから、少女は剣を手に入れた。
森にはほとんど人の姿などない。
しかしそれでも誰もやってくることがなかったというわけではなく、過去、武装した人間が何かをしにやってきたこともあったらしい。
少女はそんな人間の朽ちた姿、白骨死体になったそれを見つけ、そしてその纏っていた武具を自らのものとしてもらい受けたのだった。
だが、少女は、生きた人間には、まだ会ったことはなかった。
そういうものがいる、とはあの赤竜から聞いてはいたが、それだけだ。
非常に恐ろしい生き物だから、注意するように、とは言われていたが、会う機会がなければ注意するも何もない。
ましてや、その屍などは、恐れるに値しない。
だからこそ、何の心の痛痒も感じずに、少女は剣を貰う事が出来た。
もし彼女が、生きている人と出会ったことがあり、そして、そこに何らかの友好的な関係を築いたことがあったら、その屍たちに哀切の情を覚えて、武器をとることは出来なかったかもしれない。
しかし、森にあった屍たちは、彼女にとって、見も知らぬ生き物の骨でしかなかったのである。
彼女は、人に対する哀惜の情を、まだ、知らない。
それから、少女は差し込んだ剣を大猪から抜き、確かにその体から命の輝きが消滅したのを確認した。
少女の目には、大猪を先ほどまで覆っていた靄のようなものが抜けて空気に溶けていく様子が見えていた。
それは本来"魔力"と呼ばれるものであり、その存在を知り、利用するものこそが魔術師と呼ばれるのだが、少女にそんなことは分からない。
ただ、この森の中で、幾度も生き物を殺し、そして自らの血肉としてきた経験が、その力こそが生き物を動かすために多かれ少なかれ必要不可欠なものだということを少女に理解させていた。
生き物が死すべきとき、その靄は空気に溶け、霧散していくということも。
だから、そんな状況にある目の前の大猪の命はあと少しの時間でなくなるのだ。
大猪の深い漆黒の瞳から、少しずつ意思の光が消えていく。
少女はそれを何とも言えぬ感慨を持って見つめていた。
その感情を何と呼ぶべきか、少女は知らない。
けれど、いつも生き物の命を奪う瞬間に感じるのは胸の奥に大きな穴が開いたような不思議な気分だった。
そして、それと同時に高揚も感じていた。
どことなく矛盾するようにも思えるその感情は、少女にとってはむしろ自然なことだった。
命を奪うことに悲しみを持っていること、そしてそれを成し遂げた自分に達成感を感じているのだと言うことを少女が知るときはいつか来るのだろうか。
少女はまだ、何も知らない。
漆黒の空の下、ぱちぱちと、たき火が燃えていた。
少女が魔術で作り出した炎だ。
枯れ木を集め、それに火をつけて燃やした。
もちろん、常に魔法で火を出し続けることもできないではないが、少女はそうはしなかった。
たき火の周囲に木で作った串に刺した大猪の肉を並べ、膝を抱えながら、少女は肉がじりじりと焼けるのを待った。
魔術の炎で焼いてしまうと、なぜか肉はおいしくはならなかった。
それがどうしてなのか、よくはわからなかったが、昔、赤い竜はいつもこうやってわざわざ枯れ木を集めてたき火をし、そこで獲物の肉を焼いていたのを少女は思い出す。
赤い竜は、去ってしまった。
永遠に、この世から。
おそらくは、寿命だったのだろう。
少女は他の生き物の靄を見るように、赤い竜の靄をもずっと見つめていたからそれが分かる。
ただ日々生活しているだけなのに、赤い竜の靄は日に日に小さく、弱くなっていった。
それはまるで怪我を負った小動物が徐々に弱っていくのと似ていて、少女は赤い竜の命の終わりが近いことを感じていた。
赤い竜は、最後まで、少女に何かを伝えようとしていたような気がする。
だが、それが何だったのかは、少女には今でも分からない。
結局、ほとんど何も言わずに逝ってしまった赤竜。
聞きたいことがたくさんあったのに。
けれど、赤い竜が亡くなる直前、不思議な言葉を言ったのを確かに覚えている。
それは、優しく、重く、そして暖かい声だった。
何か、深いものの籠っているような、そんな声だった。
――いつか旅立つだろう、王の子よ。汝の道行きに幸いがあるように願う……その先々でどのような困難があろうとも、運命がお前を導くことだろう……世界を知り、そして自身について、知るのだ。
あれはなんだったのか。
少女は毎日思い出しながら、考えている。
少女はその言葉の意味を知らない。
赤い竜は、それを説明することなく逝ってしまったからだ。
赤い竜は、細かいことを気にしない性格をしていた。
それは、竜が非常に長い寿命を誇る生き物であり、それがゆえに、物事を学ぶと言うことについて、人間とは少し異なった考え方を持っているが故だったのだが、少女がそんなことを知っているはずもない。
赤い竜も、特にそんなことは説明しなかった。
ただ、それを聞けたことは、少女にとって幸せなことだったのだろう。
彼女にとって、その言葉はこれから先を生きていくために、必要なものだったのだから。
旅立つことが、少女に必要なのだと、その声は教えてくれていたのだから。
何も知らない少女は、世界を知ることが必要なのだと。
少女は焼けた肉にかぶりつきながら空を見つめた。
夜の世界には不思議な光が満ちている。
星のひかり。
それが何故空で輝いているのかも、もちろん、少女は知らない。
ただ、どうしてか、あのどれかが赤い竜なのかもしれないと漠然と考えていた。
消えた命は空に昇るのだと、あの赤い竜はいつも言っていたのだから。
少女が赤い竜が"育ての親"と呼ぶべき存在だったと知るのは、このときからだいぶ後のことになる――