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#1 日曜日

日曜日


6月初旬の海岸線。

海水浴シーズンにはまだ早く人影はない。

優子は帰省先の祖母の家からほど近い海岸へ散歩に来た。


空は青く、雲はひと足早く夏のものとなっていた。

子供の頃、家族で海水浴に来た思い出がよみがえる。

思い出の中の自分は笑顔で輝いている。


でも今はその思い出も心を晴らすことはない。

あの人のことが世の中のすべてのように思えた。

そのすべてが自分の前から消えていった。

追いかけても戻ってこない。


歩を進める少し先に大きくて黒っぽい何かが打ち上げられているのが目に入った。

『大きな袋か流木か』その何かを何となく見つめながらゆっくりと歩いていた。


『あの人のこと』『思い出』頭の中の世界にあった自分の意識が、いつしかその先に近づいてくる『何か』に向いていた。


『人のように見える』

『でもまさか』

『水死体』

『そんなのニュースの中の世界』

『・・・』


明らかに人であるとわかる距離になった。

東洋人の男性であることも見て取れる。

後頭部をこちらに向けた形で下半身までは押し寄せる波に洗われている。

『死んでいる?』

『気を失っているだけ?』

『怖い人?』

『良い人?』


勇気を出して近づいてみる。


『めちゃくちゃ怖い』

心臓の鼓動はかなり早くなっている。

『辺りに人はいない』

『見捨てるわけにはいかない』

『助けを呼んでいる間に死んでしまうかも』


手の届く距離まで来た。

ここまで後頭部しか見えていなかった。

顔が見える側に回り込む。

20代後半くらいだろうか。

邦画全盛の頃のムービースターを彷彿させる端正な顔。

時代のトレンドから言うと少し濃い顔かもしれない。


死んだ人の顔を見るのはお葬式の最後のお別れとして棺桶の中の顔を見ることくらいであった。

でも顔に生気があることはなんとなく見て取れた。

怖いながらも気づいたときには声をかけていた。

「あの、大丈夫ですか?」


反応がない。

思い切って肩を揺すってみた。

「大丈夫ですか?」


かすかに眉間にシワが寄った。

『間違いなく生きている!』


6月になったとはいえ海の水はまだまだ冷たい。

『このままでは死んでしまう』

怖さを忘れて声を掛け続けていた。

「あの、大丈夫ですか?大丈夫ですか?」


男の目が少しずつ開いた。

そして視線が合った。


男はまだ事情が飲み込めない様子。

優子が先に口を開いた。

「よかった。でも大丈夫ですか?起き上がれますか?」


・・・

数秒の沈黙の後、男が口を開いた。

「ここは?なんでここに?」


「ここは湯山海岸ですよ。海で遭難されたんですか?」


「湯山海岸?海で遭難?はて?」

「記憶がつながりませんのですわ。ここで目を覚ます前の記憶は・・・いつものように晩ご飯の後、風呂に入って少しテレビを見ながら涼んでました。見ていたテレビがずいぶん面白くて大笑いしました。そして10時ごろ床についた。そして目が覚めたらこの状態ですわ」


『この人、記憶喪失ってやつ?でもとにかく体の無事を確保してあげなければ』

そう思って次の言葉を掛けようとした優子の後方から、かすかに声が届いた。

「優子ちゃん。優子ちゃん」

海岸際に沿って走る国道におばあちゃんのキミが立っていた。


おばあちゃんが早足でこちらに駆け寄ってきた。

「優子ちゃん、どうしたの?その方」


優子より先に男が口を開いた。

「ここに倒れていた私を助けてくれはったんですわ」

「ほんまにありがとうございます」

男は向き直って優子に頭を下げた。


「それは大変。立てますか?早く体を暖めないと」

そう言っておばあちゃんは男に手を差し伸べた。

得体のしれない男に躊躇していた優子も、

『大の男をおばあちゃんでは潰れてしまう』

そう思い、手を貸そうとした。


その時、男がゆっくりと立ち上がった。

そして少し自分の体が動くことを確認したあと、両手を軽く上げて笑顔でおどけてみせた。

「このとおり大丈夫。自分で歩けます」

しかし男は立ち上がるときに少し不可解そうな顔をした。

『何か体に変調があったのだろうか』


優子が考える暇も無く、おばあちゃんが男に声をかける。

「歩けますか?こちらへいらっしゃい。まずは体を暖めましょう」


「えらいすんません」

男は少し申し訳なさそうにおばあちゃんに続いた。

優子もその後ろに続いた。


おばあちゃんの家は海岸から遠くない。

海岸の防波堤を上がって国道に出れば5分とない距離だ。


優子は男の体を心配しながらも、どこの誰とも知らない男であることも心配した。

その心配をよそにおばあちゃんは見ず知らずの男に話しかけながら家に向かっている。


男は海岸で倒れていて記憶喪失らしきこと、そして手荷物もなく家着のようなグレーのスエットを着ていること以外は、至極まともに見えた。

背は180cmくらいだろうか、そしてスラリとした体型、浅黒く健康的な肌色、顔も少し濃いが端正である。

話す言葉も声質のせいか、話し方のせいかどことなく安心感があった。


優子はこれまで必死で気がつかなかったが、目の前でおばあちゃんと話す男の言葉はコテコテの大阪弁である。

優子は生まれも育ちも大阪で違和感なく聞いていたが、少し落ち着いて聞いてみるとコテコテ大阪弁というやつである。


しかもそのイントネーションや言葉遣いは優子やその友達が話す大阪弁とも少し違う。

時々立ち寄る本屋のおじいさんや、テレビでたまにでてくる落語の大師匠と言われる人のそれに似ている。

『きっとこの人はおじいちゃんやおばあちゃんに育てられたとか、お年寄りのいる環境で育ったのだろう』

優子はそう考えながら前を歩く男の背中を見つめた。


年を取ってはいるがしっかりもののおばあちゃん、どことなく好感が持てるみずしらずの男、笑顔を交えて話をしながら自分の前を歩く2人を見ていると、なぜだか優子の中から不信感が消えていく。

おばあちゃんも明るい性格だが、この男もかなり明るい正確のようだ。

どんどんと会話のラリーが続いていく。


おばあちゃんに「警察に連絡したほうが良くない?」と何度も言おうと思ったがその必要がないように思えてくる。

それでもポケットの中に携帯電話があることを確認して『いざという時は110番』と心の中で唱えていた言葉もいつの間にか消えていく。


そうこうしている間におばあちゃんの家に着いた。

「こっちの裏口から入ったところにお風呂がありますから暖かいシャワーでも浴びてきなさい」

おばあちゃんはそう男に勧めた。


男は深々と頭を下げ、

「ほんまに恩にきます」

そう言って風呂場へ向かった。


「優子ちゃん、佐藤さんのバスタオルや着替えを用意するから一緒に来て頂戴」

いつの間にか自己紹介も終わっていたようだ。


おばあちゃんについていく途中、風呂場から佐藤の大きな声がした。

「うわっ!」


『シャワーのコックを間違えて冷水を被ったのかな。意外とそそっかしい人やな』

そう思いながらおばあちゃんについて行った。


そして歩きながらそれまで胸の中で溜まっていたものが少し男と距離を置いたこともあり、ついに出てしまった。

「おばあちゃん!知らない人を家に入れちゃ危ないじゃない」


「あの人は大丈夫。それに困ってる人は助けてあげないと」

そう言ってにっこり笑った。

「それよりこの押入れの上にある収納ケースをとってちょうだいな」


「うん」

優子は椅子を踏み台にして収納ケースをとっておばあちゃんに渡した。


「この中に公雄きみおが帰ってきたときに着る服を置いてあるのよ」

そう言っておばあちゃんは公雄叔父さんの服が入った収納ケースから服を取り出しながら佐藤さんの着替えの用意を始めた。

「記憶は曖昧みたいだけど、受け答えはしっかりしているから佐藤さん自分でどうするかちゃんと考えるでしょう。それより優子ちゃん熱いお茶を入れといて」

そう言っておばあちゃんは風呂場へ男の着替えを持っていった。


確かに自分も大丈夫な感覚はあった。でもホントのところなんてわからない!

『もう知らんからね!』

そう思いながら優子は台所へ向かった。


おばあちゃんの名前はキミ。

おばあちゃんの家は古い平屋一戸建てで、広くはないがどこかしら居心地のいい家だった。


優子の母親の絵里とその弟の公雄がここで生まれ育ったが姉弟共に都会に就職して行き、そこに定着してしまった。

おじいちゃんは去年の暮れに亡くなって、おばあちゃんは1人になってしまった。

優子の母も公雄叔父さんも今の場所を離れる訳にはいかず、おばあちゃんに同居を求めているのだが、『もう少しここに居たい』とおばあちゃんは拒んでいた。


「おばあちゃん、お客さん用のお湯飲みどこぉ?」

おばあちゃんに「お茶のいれ方が下手だ」「絵里は何を教えているんだ」などと小言を言われながらお茶の用意をしていたところに佐藤がやってきた。

「いやあ、生き返りました。よお温もりましたぁ。ありがとうございます」


「なんだったらお湯も張ってあげるのに遠慮なさって」

そう言うおばあちゃんの言葉が終わらないうちに佐藤は、

「いやいやいやいや、そんなもったいない。もう充分ですわ。よお温もりました」

そう言って遮った。


「まあ汚いところですけど、ゆっくりしてください。今お茶が入りますから。着ていた服もじきに乾くでしょう」

そう言っておばあちゃんは居間のちゃぶ台の前に置かれた座布団に佐藤を座らせた。


「こないに何から何まで」

佐藤は更に申し訳なさそうにしていた。


お茶を飲みながらおばあちゃんが佐藤に問いかけた。

「これからどうなさるおつもりで?」


『警察か?病院か?この近くに記憶喪失なんて看れる病院あったかな』

優子はそんなことを考えていた。


「うーん・・・。こんなことが起きるのか、それとも私の記憶が曖昧なのか。警察や病院に行っても多分、頭がおかしくなってしもうたと思われるだけやと思いますのや。いや、実際そうなのかとも思いました。そやけど去年の大地震もニュースで見ましたし、戦時中のことも記憶にあるんですわ」


『佐藤さんはやっぱり脳に何らかの支障をきたしている。せめてどこかいい病院に連れて行ってあげなきゃ。ううん、家族が居るなら早く家族に知らせてあげなきゃ』

家族のことを聞こうとした優子よりも先におばあちゃんが佐藤さんに聞いた。


「先ほど歩いてここまで来る途中に冗談交じりにいろいろお聞きになっておられたのはそういうことだったのですね。佐藤さんが小学生の頃にいたずらをして先生に殴られた話は自分の頃の先生を思い出しました。もう少しお話を聞かせて頂いてよろしいですか?」


『おいおい、おばあちゃんまで何を言っているの???』

心の中でそうつぶやいた優子は危うく佐藤さんの前で「おばあちゃんまで頭がおかしくなっちゃったの?」と言いそうになった。


佐藤さんは大真面目な顔で話し始めた。

「お聞きした今日の日付からすると、私の記憶はちょうど一週間前までです。一週間前に寝て次に起きたらあの海岸でした。それより何よりも風呂場の鏡を見てびっくりしたんは、私えらい若返ってしもてるんですわ」


『もう訳が分からない』

優子はそう思いながら、その思いに反して妙に真実味のある佐藤の話をただ呆然と聞いていた


「一週間前まで私は85才でした。海岸で起き上がる時、歩いてこちらのお宅に来るまで、その間にお話する自分の発声、耳の聞こえ方、全部がとても鮮明に感じておりました。それが鏡を見てわかりました。今の私の姿はそう20代の頃の私です。そやけども頭の中の記憶ははっきりと85才の時までありますねんわ」


「ご家族は?」

おばあちゃんが聞いた。おばあちゃんは大真面目な顔で聞いている。


「ひとりです。仲良うしてもろとった友達たちも先に逝ってしまいました。それでも町会の人とは老人会でようしてもろてます。ご近所の人とは挨拶をするくらいのもんです」


「では親族の方はお一人もいないのですか?」

おばあちゃんは少し寂しそうに聞いた。


「ええ。いろいろありまして」

佐藤さんは苦笑いをしながら言った。優子には少し寂しそうな表情にも見えた。


「ところでご自宅はどちらなんですか?」

おばあちゃんが聞いた。


「大阪です」


「あら、優子ちゃんと同じじゃない。そうだ、ご自宅に電話してみられたらいかが?」

それには優子も大賛成だった。

もし佐藤さんがボケているのなら、きっと他所の人か、もしかしたら家族の人が出てくるかもしれない。


「そうさせてもらいますわ。でも自宅に電話して年寄りの私が出てきたらなんて話をしたらいいか困りますなあ」

そう言って佐藤は冗談なのか本当なのか困っていた。


「優子ちゃん、その携帯電話貸してあげなさい」

おばあちゃんはそう言って机の上に置いていた優子の携帯電話を指さした。


優子は携帯電話を開けて佐藤に渡した。


「これはこのまま番号を押したらいいんですかな?携帯電話は使こたことがあらしまへんねん」


「あっはい。番号を押して最後にこの通話ボタンを押したらつながります」


「すんません」

そう言って佐藤さんは携帯電話のダイヤルボタンを押し始めた。


「通話ボタンを押すと」

佐藤さんはひとりごとのようにつぶやいて通話ボタンを押した。


周りが静かなせいもあり、携帯電話からの音声がかすかに漏れ聞こえていた。

「この電話番号は現在使われておりません。この電話番号は・・・」

事務的なアナウンスが繰り返されていた


「電話番号が使われてないと言うたはりますなあ。これどうやって切ったらいいんでっか?」

電話の切り方がわからない佐藤さんがアナウンスのなったままの携帯電話を持って聞いてきたので、大丈夫ですと言って受け取った。


ほんの一瞬の沈黙の後、おばあちゃんが聞いた

「あとはどこかお知り合いの方で電話番号がわかる方はいらっしゃらないの?」


「豆腐屋のとこの町会長やったらいくらか付き合いもあるんで話を聞いてもらえると思うんですが、電話番号は覚えてませんわ」


「それ、ネットでならわかるかも」

優子は携帯電話を操作し始めた。


おおよその住所と豆腐屋の名前を聞いて入力する。

便利な時代である電話番号がHITした。


「では、ここの住所に電話つなぎますね」

そう言った優子を遮るように佐藤が言った。

「すいませんがその電話、優子さんがかけてもらえんでしょうか?」


「えっ私?」

思わぬ展開に驚いている優子に佐藤が言った。

「図々しくもお願いするんですが、恐らく若返った私が町会長に電話で話をしたところで声も若返っとるんで不審に思うばかりやと思います。本人が信じられん話なんですから。大変申し訳ありませんのですが、町会長に佐藤建造という男が町会におることと、年寄りの私の近況がわかったら聞いてみてほしいんですわ。暦からゆうて私が一週間前に眠りについた翌日、つまり記憶にない一週間の一日目は町会の集会がある日でしたから何か知ってると思います。えらい迷惑ばっかりすいません」

佐藤は深々と頭を下げた。


それを見てとったおばあちゃんが佐藤さんの肩に手をやり頭を起こすようにしながら言った

「電話をするだけのことです。大したことはありません。頭をお上げになって」


「じゃあ、電話してみますね」

とは言ってもまだまだ半信半疑だったが恐らくこれでこの状況が少しはハッキリしてくることだろうと思った。


『なんだかドキドキするなあ』

そう思いながら発信ボタンを押した。


発信音が5回ほど鳴ったあと男性が電話に出た

「毎度ありがとうございます。雪村豆腐店です」

少ししゃがれたお年寄りっぽい声に恐らくこの人が町会長さんだと思った。

「あの、私、夏川と申します。堀越町の町会長様いらっしゃいますでしょうか?」


「私ですが」

しゃがれた声が落ち着いた調子で返ってきた。


「突然のお電話で失礼します。そちらの町会の佐藤建造さんご存知でしょうか?」


「ああ、佐藤さん。存じ上げとります。佐藤さんのご遺族か、お知り合いの方ですか?」


『!?。ご遺族!』

優子は口に出して言いそうになったが必死で言葉を飲み込んだ。

佐藤さんを横目に見ながら少し話しにくかったが聞いてみた。


「あの佐藤さんはいつ?」


「先週の日曜日なんで、ちょうど一週間前ですな。町会の集会に来はらへんので、ご自宅に電話してみたんですが連絡がつきませんでな。何せ老人の一人暮らしやさかいに気になって、若いもんに見に行かせたんですわ。そしたら鍵が締まってて中からは何の返事もないゆうことやったんでな。町会の皆と巡査さんにもきてもろて玄関扉壊して中へ入ったんですわ。そしたらもう冷たあなってました。布団の中で眠ったまま亡くなってました。喪主は娘さんがされて葬儀も無事終わりました。何せ身寄りがないてゆうたはったから、町会で葬式あげたろかあゆうてましたんやけどな、遺品の中から娘さんの連絡先やらでてきたもんやさかいにそちらへ連絡させてもろた次第ですわ。ご遺骨はそのまま娘さんが持って帰らはったんで、線香上げはるんでしたらそちら訪ねはったらよろしい。何せ身寄りがない言うてたもんやから、うちへ問い合わせがきますねん。まぁわしはかまへんのですがな、娘さんは『いちいち問い合わせの度にご迷惑おかけする』ゆうて電話番号置いていかはった。ご遺族か何かのお知り合いでしたら電話番号教えましょか?」

しゃがれた声だが流暢によくしゃべる。

イントネーションは佐藤さんと同じでお年寄りが話す大阪弁だった。


驚きと状況の整理がつかないままに、何の知り合いとも言いにくく、とりあえずは、


「ありがとうございます。お願いします。」

とだけ言った。声が少し引きつっていたかもしれない。


「では・・・」

と町会長は娘の携帯番号を教えてくれた

メモ用紙とペンがなかったので居間の隅にある固定電話の横にあるメモ用紙のところまで走った

「はい、ありがとうございました。はい。はい。では失礼します」


電話をおいた優子は何から話したらよいものか混乱したまま振り返っておばあちゃんと佐藤を見やった。


2人共、なんとなく話の内容は伺い知れた感じでありながら電話の内容が尋常でないことは自分をみて察していただろう。


優子はどう説明したものか言葉を選んでいた。

『あなたはもう死んでいるようですね。』

なんてデリカシーなく言えるほど図太い神経ではない。

しかし、この沈黙にも耐え難かった。

とにかくは電話の内容を説明しなければ。

「えっと、何から話したらいいのかな・・・」


「私は死んでると言われたんですかな?」

困っている優子に助け船を出すように佐藤が言った。


「はい・・・そうなんです。」


「今、控えたはったんは娘の電話番号ですかな?」


「はい・・・そうです。」


「身寄り、いらしたんですね?」

おばあちゃんが佐藤に優しく聞いた。


「はい。嘘をつくつもりはあらしませんでしたんですが、娘がいてます。でも、いろいろありまして長いこと会うてません。親族と旧友しか知らんことで、町会長さんをはじめ周りの方々には身寄りはおらんと話しとりました。話をややこしいしてしもてえらいすいません」

佐藤は神妙に頭を下げた。


「人生いろいろあったと思います。佐藤さんがよかったらもう少し話を聞かせていただきたいわ。でもその前に優子、こっちへ来て電話の内容を聞かせてちょうだい」


優子は電話で町会長さんに聞いた話を2人に説明した。


「それで、娘さんの連絡先は?」

おばあちゃんが優子に聞いた


「あっ、書いたメモ取ってくるね」

優子は居間の隅にある固定電話の横のメモを取りに行った。


「これがその娘さんの携帯番号だって。あっ!名前聞くの忘れてた」


佐藤は淡々と話し始めた。

「良美。今田良美です。ずいぶん古い話になりますが私には慶子という嫁がおりました。その間に生まれたのが娘の良美です。良美とは良美が10才になるころから会うてません。その頃から私は嫁の慶子と娘の良美を残して他の女性のところに転がり込んで家には帰らんようになったからです。そして収入の一切なくなった慶子は働きながら良美を育てました。その後、良美は22才の時に結婚することになりましたが慶子はその時の無理が祟ったのでしょう。良美が結婚式を挙げるひと月ほど前に急死してしまいました。このことを周り回って旧来の友人から聞いた私は線香を上げられる立場でもなく、しかし居ても立っても居られず良美合いに行きました。しかしインターフォンの向こうで会うことを拒まれました」


そのような人には見えなかったが、佐藤が話す言葉に優子は憤りを感じていた。

しかしおばあちゃんは穏やかなままに佐藤に訪ねた。

「その後、どうなさったんですか?」


「その後、私はいたたまれない気持ちになり付き合っておった女性とも別れて1人で暮らすことにしました。良美とその家族を遠くで見守ることにしました。幸いにも良美は良い旦那と環境にも恵まれたようで何不自由なく暮らしておるようでした。しかし、また最後にそんな形で迷惑をかけることになるとは・・・なんとも不甲斐ない・・・」

佐藤は本当に悔しそうにうつむいた。


「話しを聞かせてほしいと言ったのですが、そのようなことまで言わせてしまいすいません」

おばあちゃんは佐藤に頭を下げた。


「いえ、本当のことですし、自分がしたことです」

佐藤のその言葉には苦い過去に逃げることなく対峙して、それでいて前向きに進んでいこうとする気概が感じられた。

確かに悪いことは悪い。しかしその悪いことのあとにどのように考えて行動するのか、そのことが具現化された事のように感じられた。

憤りを感じていた優子は憤りが完全に消えることはなかったが、そのことよりも自分に置き換えることで自分の生きる姿勢を正すことを考えさせられた。


「電話、私がしてみようか?」

優子はこれまでこの件に消極的だった自分が積極的になってゆくのが不思議に感じられた。


しばらくの沈黙の間、恐らく3人とも同じことを考えていたと思う。

『何と電話をしたらいいのだろう』


佐藤さんが口を開こうとしたときに、おばあちゃんが一瞬早く言った。

「もうすぐ日も暮れます。夕ご飯にしましょう。佐藤さん今日は泊まっていきなさい。ね!」


佐藤さんは「これ以上ご迷惑をかけれないから」と必死に断ろうとしていたが、おばあちゃんの「もし、私どもに恩を感じておられるのなら、今日は私の言うことを聞いて泊まっていきなさい」その一言で佐藤さんも折れた。


優子とおばあちゃんが夕飯の準備をしている間、佐藤さんは庭の草をむしってくれた。

夕飯の準備が整う頃には随分ときれいになっていた。

おばぁちゃんが「おつかれさまでした」といってお茶を差し出していた。

その冷たいお茶を清々しく飲む姿に愛した伴侶と最愛の娘を捨て去って駆け落ちするような人にはとても見えなかった。


いつしか優子はずいぶん前におばあちゃんが言っていた言葉を思い出していた。

「自分の過去も十分に把握できないのに他人の過去なんてとてもじゃないけど計り知れない。今見えていることはその人のほんの一部分であり、広く見れば世の中のほとんどはそうなのだ」と「だから今、自分に見えていることだけを全てだと思い込むのは間違いであり危険である」と


きっと今、自分の全てだと思っているあの人のこともそうなのだろうか。

でも、そう思わないでどうやって人を愛するのだろうか。


ひとつだけ、わかることがある。物事は全て変わっていく。それぞれの時間でそれぞれの形に。もちろん自分も変わっていく。いや、変わっていかなければならない。良くも悪くも。いや、できる限り良い方に。

分かってはいても実行は難しい。時間がかかることも多い。しかし時間をかけてできる。それを忘れずに毎日を過ごしていこう。そう思ったとき少しだけ気持ちが軽くなった気がした。


夕飯の時に佐藤さんとおばあちゃんは若い時代のいわゆる『あるあるネタ』でずいぶん盛り上がっていた。

そんなおばあちゃんを見るのは初めてかもしれない。

そこにあるのは容姿こそ年老いたおばあちゃんであり、話の内容やリアクションが時代相応のものであること以外は今の若者たちと同じ空気に感じられた。


いつしか、その時代のリアルな会話に興味を惹かれて優子も質問をしたり今の時代の考え方を話したり会話に夢中になっていた。


「とにかく、大阪に行って様子を見てくるのはどうかしら?」

おばあちゃんが提案した。


佐藤1人でと言うわけにもいかないので優子が一緒に行くことになった。

佐藤はまたもや申し訳なさそうな顔になったが選択肢が他になかった。


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