目的地へ
夜半過ぎ、血流の滞った目をごしごしと擦りながら俺は運転をしていた。
慢性的な眼精疲労。頻発する欠伸。それでも俺は眠るわけにはいかない。
俺がアクセルを踏んでいるおかげで缶詰や雑貨を積んだ一〇トントラックは目的地へ進んでいられる。そうやって暮らしの糧を得ている以上、運送会社所属の長距離ドライバーは進み続けるしかないのだ。
「ふぁぁぁ」と長い欠伸が出た。
布団は運転席のつい後ろ、たった十数センチの位置に敷いてあるというのに、俺自身はノンレム睡眠からすごぶる遠い場所にいる。この仕事は家に帰る時間がほとんどない。そこで睡眠を取るのは基本的に車内でという事になる。意識が落ちるような眠りはものすごく気持ちがいい。だから俺がもっとも幸せを感じる瞬間は入眠時だった。
だが皮肉な事に長距離ドライバーにとって一番の敵は睡魔なのである。その理由は簡単で、寝てしまうと運転ができないからだ。寝たまま運転をするという離れ業は法律で禁止されているので、結局目を血走らせて運転するしかないという寸法だ。
そのためドライバーはあらゆる手段を巡らして睡眠欲を撃退しなければならない。俺の方法は黒ずくめになる事だ。ブラックメタルを聞きながらブラックミントガムを噛み、ブラックコーヒーをすすりながら、ブラックな夜を走り抜けるのである。ついでに言うと所属している運送会社もブラックだ。
スピーカーから流れるデスボイスや金切り声が俺の神経を揺さぶる。悪魔的な内容の歌詞を英語でまくし立てているもの、俺には一語もわからない。まあ歌詞なんてどうでもいい。肝心なのは音、格好つけて言うとサウンドである。しかしそのサウンドに対して、脳はだんだんとしなくていい順応を始める。するとデスボイスも、激しいドラムやベースの音も、単なる夜のしじまに変わってしまう。
「ふー」
目的地である愛媛県まではまだ遠い。だが今回はものを考えない荷主が突き付けてくるみたいな無茶な時間指定があるわけでもないので、スピード違反は犯さずに済みそうだ。
山陽自動車道をしばらく行くと淡河パーキングエリアが見えてきた。そろそろ休憩しよう。もう三時間近く運転しっぱなしだ。
長距離ドライバーの休憩時間は短い。なのでいつもなら十数分の間にトイレと買い物、さらには仮眠まで取るという超ハードスケジュールだが、今日は少しばかり余裕がある。二〇分いよう。そう考えて、自分は髄までこの仕事に染まっているのだなと可笑しく思った。
駐車場に車を止め、俺は外に出た。外気は冷たく、おかげで目が覚めた。この時間帯、店などは当然閉まっていて、俺に何かを売ってくれるのは自動販売機だけだった。他に車は数台しかなく、他人の姿は見えない。俺は昔読んだSF小説の短編を思い出した。今では本を読むことはほぼなくなったが、家に古いSFの雑誌が転がっていた事もあって昔はSF好きの読書少年だったのだ。元々SFは死んだ父親の趣味だったらしく、母は俺を懐かしげな目で見ていた事を思いだす。
ちなみにその小説のストーリーはたしかこうだ。
運転手業をしている主人公が夜中に休憩のため、バーガーショップに立ち寄るも人がいない。明りも点いていてたしかに営業中であるにもかかわらず店員の姿が見当たらないのである。仕方なくそこを出て燃料補給にガソリンスタンドに寄るがそこにも人がいない。不安になって色んな場所に電話をかけるが誰も出ない。まるで世界に自分一人しかいなくなってしまったように。
この小説、結末も面白かったが、何より惹かれたのがアメリカの夜のハイウェイをトラックで孤独に走る情景だ。一人ぼっちでさまよう不安がただ雑誌を読んでいるだけの俺にも感じられた。
まあ現実の方では、道路から走行音が一定間隔で聞こえるので、今のところ俺は世界に一人ではないらしい。
そんなことを考えている内にトイレに到着した。
幸いな事に誰もいない。心おきなく排泄できるというわけだ。
「……ふぅ」
黄金のアーチの芸術。一種の至福の時。
そうして膀胱の中身をすっかり放出した俺は、手洗い場でちゃんと手を洗う。ソープを泡だてながら何気なく鏡を見ると、そこには目に隈を作り、やつれて、無精ひげを生やしたおっさんが映っていた。これが他人であれば怖いけれども、ある意味嬉しいかもしれない。にもかかわらずそれは俺だった。
ホットの缶コーヒーを買い、車に戻る。暖かい車内は、明らかに俺を誘惑していた。それでも俺は寝なかった。今仮眠を取ると、三時間くらいの仮眠になってしまう事は間違いない。
マイセンスーパーにライターで火を付けて、ニコチンを補給する。肺の中までブラックにしているのだ。
俺はテレビを付ける。通販番組がやっていた。そこでは外人の男女が腹筋をムキムキにする器具を宣伝している。俺も三十の峠を越し、最近ぽっこりお腹と幼少期以来の再開を果たした。仕事が終わると一分も無駄にせずに飯を食い、それから三十秒で倒れ、起き上らなくなる。食べるのは総菜屋や食堂の料理ばかり。それほど量を食べるわけではないが、代謝も下がっているだろうし当然の帰結と言えた。それに確かに板チョコレートみたいにくっきり割れた腹筋は格好いいが、その手の物に憧れる時期はとっくに通り過ぎていた。なのでケイティの必死の売り込みは断って、テレビから目を離したが、まったくの無音というのもよくないので、当面の間は商品の宣伝をやりたいだけやらせておくことにした。
「スチーム掃除機もいらないなあ」俺は呟く。俺は独り言がやたらと多い。「はぁ、そろそろ出発するか」
車を発進させ、俺は再び長い旅に出た。
それにしても今日は風が強い。びゅううと車体が風を切る音が聞こえる。
山並みと森とフェンスと青白い雲にところどころ隠れた月を見ながら俺は鼻歌を歌う。ブラックメタルではない。Jhon Denverの「Take Me Home, Country Rords」である。日本ではジブリの「カントリーロード」としての方が有名かもしれない。まあ鼻歌なのでどっちそんなに変わらない。それでも「Take Me Home, Country Roads」の方を意識するのは、サビの「Take me home」の部分が切実な問題として共感できるからだ。
「いい歌だ」と自分の歌声に自分で感じ入る。俺は目を擦った。
この歌を歌っているとなんだか少し泣けてくる。全国のカントリーを延々通り過ぎていると、夜の人を感傷的にさせる効果も相まって、妙な気持ちになるのである。
俺には普通の風景でしかない町も道も、誰かが住んでいて、誰かの故郷なんだな、と二十歳くらいの青年のように感じ入ってしまうのだ。俺がまだ青年だったら青春18切符を買いに行くところだ。しかし実際には結構いい年なのでトラックを走らせ続けるだけに留まっている。
時々クッションに乗せたお尻を軽くずらす。
「腰いてー」感傷的な気分は腰の不快感で吹き飛んだ。
長距離ドライバーは多かれ少なかれ腰痛に付きまとわれる運命にある。
ほとんど一日中運転席に座っているし、荷物の積み込みを手作業でする事も多い。さらには先方の倉庫でも――賃金が出ないにも関わらず――降ろしを手伝わされることもある。座り仕事+肉体労働。これで腰を痛めない方がおかしい。
運び屋の仕事は過酷だ。眠れないし家に帰れないし腰も痛い。さらにこれだけたくさんの商品を背中に抱えているにも関わらず、それは自分の物ではない。
だが天職ではある。俺は絶対に運び屋向きだ。自分の妻と子供を他の男にみすみす運んでしまった男が運び屋をやっているなんてこれ以上ない組み合わせだと思う。
俺は道路の線をしつこく目で追う。断続的な白線はトラックの移動によって一本の白い筋をなしている。
考える時間がたっぷりあるというのは、挫折感を拾い上げてしまった人間にとっては害悪でしかない。結局思考は螺旋を描いて深海の底へ沈んでいくだけなのだから。長距離運転は極端な話、期限内に無事に荷物さえ届ければ後は何をしていてもいいのだ。だからいつでも考えてしまう。
勿論長時間誰かに縛られずにいられるという部分はこの仕事の大きな魅力ではある。少なくともかつてはそうだった。しかし俺にはいつからか色々な余計な事を考える癖が出来てしまっていた。長距離ドライバーの業務は仕事中毒を量産する構造になっている。仕事中毒というのは本来、忙しさによる思考のストップという恩恵が備わっているものだが、この仕事といえばほとんどの時間は運転だ。基本的に運転は何も考えずにいられるほど忙しい作業ではない。
――と、これだけ悪し様に言っているが、俺はこの仕事が好きだし誇りを持っている。
日本の物流を支える仕事だ。給料も高い(時給換算すると涙が出そうになるが)。
妻と生活していた時期を除いて、俺の職歴の大部分はこの仕事なのである。
高校を卒業して小さな会社の事務につくも続かず、そこの世話焼きの先輩にこの仕事を紹介された。最初は四トントラックで地場運送をしていたが、途中で長距離をやるようになり、その後大型免許を取ってからはずっと長距離運転手を続けていた。出会いのないこの仕事だから、ある時同僚に女性を紹介されてからは早かった。同じ片親で境遇の似ていた俺と元妻はすぐに意気投合し、付き合って半年弱で籍を入れた。その際、会社の事務の方へ転向した。給料はだいぶ下がったが、家庭が欲しかったし、蓄えもあった。俺たちは子供を儲けた。
「あーやめよやめよ」俺は首を振った。自分の半生なんて振り返ってもロクな事がない。そういう事はカウンセラーにでも考えてもらえばいいのだ。居酒屋で酔った同僚相手に酔った舌で愚痴るのもいい。そのためにお互い頭を麻痺させるのだから。
俺は首の骨をボキボキと鳴らす。それからステアリングをギュッと握った。
アクセルを踏む力は振動となって身体の中を行き渡る。
その響きはいつまでも単調であった。
「暇だな……」
元々暇だから、色んな事を考えるわけで、考えるのをやめたらまた暇が戻る。
薄らした倦怠感がTVから流れ出す雑な情報と一緒に車内を満たすだけだ。
風の吹きすさぶ音にやたらと注意が向く。雨でも降ってきそうだと思った。風雨のもたらす音楽を聴くのは案外悪くないが、そう思った時に限って雨は出渋るようだった。
しかしそろそろジャンクションが見えてくるはずだが、先にはまだ緩やかなカーブが続いているだけ。平坦な高速道路の景色の中では、制限速度ぎりぎりまで出しても劇的に進んでいるようには感じられないものである。という事は、もしゆっくり走っていたとしたら、高速道路はどこまでも続く途方もない道のりのように思えてくるのかもしれない。もっとも正真正銘のそれを走行している俺からすれば(事によると死ぬまで日本中を往復し続けなければならないかもしれないのだから)物の数ではないと思うが。
そういえばさっきから他の車の姿を見ない。さっきまではそうでもなかったのに、気が付けば前にも横にも後ろにも車が一台もいなくなっている。道路を占有しているようで少し気分がいいが、こんな夜中では寂しくも感じられた。さっきのSF小説の話ではないが、まるで自分一人がこんなきりのない運転をさせられているみたいな気持ちになってくる。同業者のクラクション挨拶はこんな時に励みになるのだ。自分の他にも長運転をしている人間がいるんだ、と思うと孤独が緩和される。
まあ気長に行こう。夜の間はしょっちゅう出くわすのだから。俺は板ガムを取り出して口に放りこんだ。ブラックミントの涙が出るほどの爽快感は世界を口の中だけに変えさせる。ことさら下品な音を立てて噛んだ。俺の部屋なのだから誰も気にしはしない。
適当な歌を掠れた声で歌い始める。歌詞もメロディも即興だったが意外と楽しくなってくる。陽気さは全く感じられず、ただ愚痴を言い続けるだけとなってしまったが、歌ったそばから消えていく音楽は心を軽くした。
そしてガムの味が完全になくなり、それでも辛抱強く噛み続け、やっと吐きだした頃、俺は異変に気が付いた。
「おかしいな……」
いつまで経ってもジャンクションやって来ない。いくら長時間運転で時間間隔がにぶるといってもこれはおかしかった。この道は今までに何度も通っているのだからわかる。こんなはずはない。それにもう二〇分は他の車を見ていなかった。
俺はTVを消してカーナビを起動させる。しかし画面は真っ暗になったまま変わる様子もない。壊れたのだろうか。こんな事は初めてだった。
ガサゴソと周辺に手をやる。こんな時に限ってなかなか見つからず、イライラが募る。
やっとの事でドリンクホルダーに立てかけてあった携帯電話を拾い上げる。だがあろうことか画面は圏外を示していた。山の中だから? いやそんな事はない。トンネルの中でもあるまいし。念の為電話帳に登録してある番号に片っぱしから電話をかけるがすべて繋がらない。
俺は何でもいいから情報が欲しくて、画面をTVに切り替える。TVではカーナビと違ってちゃんと映像は流れた。だがそれを目にした瞬間俺は小さな悲鳴を上げた。
さっきと同じ通販番組が再びさっきと同じ商品を宣伝していた。ケイティが陽気に腹筋について喋っているのである。
考えを進めるにつれ汗が一気に噴きだした。同じ放送をもう一度繰り返しているにしても、TV番組の受信はできているのだ。それなのに携帯は圏外。カーナビはつかない。こんな偶然が起こり得るだろうか。
俺は思った。
これじゃあまるっきり、あのSF小説じゃないか!
自分の頬を殴って確認してみる。感触がなければそれはそれで大変な事だが、確かに俺の頬は痛んだ。
俺は車を止める。そして辺りを確認する。どうやらここは山間部であるらしい。民家などは見当たらない。標識の類もなく、ここがどの位置か見当もつかなかった。どこにでもありそうな風景なのである。
トラックを降りて、アスファルトに足を踏み出す。股関節辺りの骨がボキッと鳴って気持ちがよかったが、それぐらいでは不安は収まらなかった。周囲に注意を払いながらガードレールの方へ進んでいく。このガードレールを超えればスギの林があるが、一歩踏み出して民家を求めて彷徨うといった度胸は俺にはない。
これは交通規制か何かのせいだと、穴だらけの説得を自らに施し、またトラックに戻る。計器を確認する。燃料はまだ当分ある。とにかくこの道を進んでいくことにした。さっき休憩してからもう一時間以上は経過している。遅刻も心配だった。
アクセルを強めに踏み、ぐんぐん進んでいく。だが似たような景色を通り過ぎるだけで、新たな展望は姿を見せない。
刻一刻と過ぎていく時間にシャツが汗ばむ。
ありえない。こんな道路はありえない。
ここはどこなのだろう。
俺はもう一度車を降り、早足でガードレールに忍び寄る。
懐中電灯を片手に覚悟を決めてガードレールを乗り越え、坂を下っていく。竹藪の中を突き進み、落ち葉を踏み鳴らし、開けた場所を探す。
躓いたり、頭をぶつけたりしながらも気にせず進んでいく。前方の林が薄くなってきた。
俺は走る。ここを抜ければ町の景色が待っているのだと信じながら。
しかし藪を抜けた先にあったのは道路だった。それもさっき出てきたのと同じ道路。ただし反対車線。つまり上り側だった。この上り車線を横切って進んで、斜面を下り、そのまま正面の斜面を登れば、下り車線に目印のように小さく留まったままの俺のトラックまで戻る事が出来る。
俺はドサッっと芝生の坂に座り込んだ。腰がズキッと痛んだが、それは瑣末な事だった。
藪を通って、地球を一周したように反対側の地点まで来てしまった。そんなことは起こり得ないのに。
俺は全身を震わせた。それは気温のせいだけではなかった。
吹き出るそばから冷えていく汗でくしゃみが出た。このままじゃ風邪まで引いてしまう。俺は小走りでトラックまで戻った。
そして暖かい空気の中で今の状況を分析した。
高速道路はどこまでも続き、前も横も俺をこの場から抜け出させてくれない。
ということは元来た道を戻るべきか。だがこんな道幅では一〇トントラックをUターンさせる事は出来ない。歩いて戻るのも無理だろう。トラックで走っただけの道のりを歩いて引き返すのは無理だし、この季節に一時間も外を歩けば凍えてしまう。
俺は座席を倒してもたれかかった。もはや睡眠意外に逃げ場はない。
だがどうしても眠れない。これだけ疲れが溜まっているのに、神経が昂っているせいか意識はいつまでも暗闇の中に残った。
俺は起き上がって、また運転を再開した。
眠れないのだからこうしていた方がましだ。こうして運転していればいつかは荷物が届けられる。
しかしこんな目に遭ってもまだ荷物を届けようと考えている俺は何なのだろう。
俺は何を運んでいるのだろう。
俺はいつまで運び続けるのだろう。
俺にはなんの所有も許されない。荷台にあるものを持っているとは言わない。それは留まっているだけなのだから。
家も財産も親も妻も子供も、そして自分ですら自分の所有物でない。
誰もが死に向かって運ばれている。だけど俺は……。
「……そうだったな」
俺はやっと、俺が自分を目的地へ届けたのだという事を思いだした。
するとやがて前方に光が見えた。
一応書いておきますが、トラック運転手をディスる意図はまったくありません。
あと、途中で出てくるSF小説は「ひとけのない道路」というタイトルだったと思います。