生きていく中で
「生きることに、意味は、あるのだろうか?」
そんなことをいきなり問われても、僕には答えられなかった。
それを尋ねた人物が誰だったのかも、しばらくは分からなかった。
そしてようやく、誰が尋ねたのか気づいた。 僕だ。
僕が、僕に、そう尋ねたのだ。
目覚まし時計の音が聞こえる。それはどこか遠くの世界で鳴っている。
いや違う、僕が遠ざかろうとしているだけだ。
夢から覚めてしまえば現実がそこにあるから。何も僕には与えてくれず、ただただ進み続けていく現実がそこにあるから。
だから僕は現実に行きたくないのだ。
別に僕は何か悩みを抱えているわけではない。仕事で失敗をするわけではなく、誰かに嫌がらせを受けているわけでもない。食べ物にも困らないし、むしろ少しくらいの贅沢ができる余裕すらある。
何も悩みなんてない。
唯一あるとすれば、「悩みがない」のが悩みだ。
幼稚な言葉遊びのようではあるが、今の僕の心境どおりに言うのならば、この言い方が一番ぴったりだと思う。
昔は違った。友達との関係に悩み、好きな子への告白の仕方で悩み、進路のことで悩み、就職のことで悩んだ。そして、それらの答えを自ら導き、また時間の経過とともに眼前に突きつけられたりして、悩みの一つ一つが終わっていった。とても多くの失敗をした。でもそれに劣らない成功もした。
多くのことを経験した。
でも、今は何も経験しない。ただ決まった時間に行動して、決められた行動をし、決められたスケジュールを終える。それの繰り返し。
新しいものなんてない。すべて知っているものだ。
だから悩みなんかない。悩むべきものなんて、何もない。
ただ、そんな日々に少し嫌気がさしただけだ。
しかし、このまま自分の世界に引きこもるわけにはいかない。
僕を起こし続ける目覚ましをとめ、僕は身を起こした。
とても体が重い。
また、今日が始まるのか。
とりあえず歯を磨くとしよう。
朝の支度を終え、僕は仕事に出かけることにした。
いつもと同じ時間に家を出る。変わらない時間に家を出る。
・・・変えてみようか?
ふと、そう思った。
別に電車を一本乗り遅れたところで余裕はある。二本遅れてもなんとか間に合うだろう。
いや、いっそのこと思いっ切り遅刻をしてやろうか?
そこまでくればもう休んだっていいな。
・・・・やはり僕は疲れているな。
そんなことをしたぐらいで何かが劇的に変わるとでも?
そんなちっぽけなことをしたぐらいで、この億劫な日々が終わるとでも?
ばかばかしい。何も変わりはしない。変えられなんて、しないんだ。
どうせ変わらないんだ。今日は少し遅れて家を出てやろう。
少し投げやり気味に、そんなことを考えた。
あるいは、この選択は、あきらめちゃいない僕の、あきらめている僕に対する、ちっぽけな抵抗だったのかもしれない。
僕はいつもより13分遅れて家を出た。15分遅れようとしていたが、なんだか落ち着かなくなり少し早めに家を出た結果の時間である。
駅までの道を歩いていく。景色はいつもとほんの少しだけ違って見えた。
ほんの少し、だけだ。
周りを見渡す。特別に変わっているものなんてない。当然だ。10分少しで何かが変わりはしない。
少しだけ気分が重くなった。なるほど、いつもとは違う気分になれたな。
あまりにぎわってはいない商店街を歩いていた。
そのとき、いつもと違う匂いに気がついた。甘い、いい香りだ。
どこからしているのだろう、とあたりを見ると、今まさに開店した果物屋を見つけた。
こんなところにこんな店があったのか。
僕はその店へ行ってみた。りんごでも食べれば、気分も少しは晴れるだろうと思ったのだ。
なかなか新しい店なのだろうか、聞いたことのないような果物が置いてあった。
ふむ、どれを買おうか?
そう考えていると、
「あれ、お客さんずいぶん早いですね」
と、声をかけられた。若い女性の声である。
振り返ってみると、20代の半ばくらいの女性がいた。
「あ、すいません」
怪訝そうな顔をしていたのかもしれない。むこうは謝ってきた。
「まさか開店直後にお客さんが来るなんて思ってなかったもので・・・。いつもなら後15分は待つものですから。お客さん、ここにくるのは初めてですよね?」
ずいぶんと話しかけてくる人だな。そう思いながら答えた。
「えぇ、そうですよ。」
「このあたりに引っ越してきたんですか?」
「いえ、今日はいつもとは違う時間に家を出て・・・」
「あ、そうなんですか。どうりでいつもは見ない人だと思いましたよ。」
この人はここを通る人を覚えているのだろうか?まぁ確かにあまり人通りは多くはないけれども。
そんなことをしてなにかあるのだろうか?
「ここを通る人を覚えているんですか?」思わず聞いてしまった。
「え?」
どうしてそんなことを、という顔をしてから
「え、ええ大体は。まぁ服装とか、寝癖とかを観察して、一人で楽しんでいるだけですけど。」
と答えた。
楽しんでいる?
「楽しいですか、それは?」
声に出してから、あぁ止められないな、これは、と思った。自分が思ったことを口にだすのを止められないのだ。
「人が変わるのなんてほんの少しですよ?そんなものを見てもおもしろいのですか?」
しかも詰問口調になってしまっている。初対面の人に僕は何をしているんだ。
女性は、少し戸惑っていた。だが、少しの間考えてから、ふっと微笑んでこう答えた。
「むしろ、ほんの少しだからおもしろいんですよ。大きなところは変わらずに、小さなところだけが変わっているのが面白いんです。」
それは、当然のことなのかもしれない。でも僕には理解が出来なかった。
それは価値観が著しく違うからなのか、それともどちらかが間違っているからなのか。
「お客さんは大きな変化が好きなんですか?」
そんなの当たり前だ。そんな気持ちで、
「はい、そうですね」と答えた。
「じゃあ、一体どっちが正しいんでしょうね?」
女性はそう言った。
そのとき、僕は時計を見た。まずい遅刻するかもしれない。
「すいません、時間がないので今日はそろそろ。とりあえずそこのりんごをもらえますか。」
僕は切られているりんごの一切れをたのんだ。
「あ、はい。ありがとうございます」
僕と女性はレジまで行った。
「お客さん、毎朝ここを通るんですよね?」
ピッ、という音とともに、そう聞かれた。
「でしたら、明日、話し合いましょうよ。どっちが正しいのか」
女性はいたずらっぽく笑ってそう言ってきた。
「・・・えぇ、そうですね。そうしましょう」
僕は少し間を空けてから、そう答えた。
りんごをかじりながら歩く。さっぱりして、おいしい。
明日も今日の時間に出なくては。あの人を言い負かす理由を考えなくては。
仕事が終わったらゆっくり悩むとしよう。
・・・あ、しまった、名前を聞き忘れていたな。
こんなことを考えながら、僕はもうあの人に負けていたのかもしれない。
だって、朝の時間を13分ずらしただけで、僕の心にはこんなにも大きな変化があったのだから。
お読みいただいてありがとうございます。
誰もが抱える悩みを自分なりの答えで誰かに伝えたくて、この物語を書きました。
一人でも心に響いてくだされば幸いです。