効率主義の婚約者に「私は全てにおいて足りないそうです
---
クレアの婚約者は、いつも正しいことを言う。
贈り物は家格に相応しいものを。公の場では婚約者として相応しく振る舞え。感情的になるな、貴族の令嬢として恥ずかしい。
全て正しい。だから何も言えなかった。
「クレア嬢、少しよろしいですか」
王宮の廊下で声をかけてきたのは、見知らぬ青年だった。
栗色の柔らかな髪に、落ち着いた緑の瞳。穏やかな顔立ちの、爽やかな印象の男性だ。
「……私、ですか?」
思わず辺りを見回してしまった。自分に気さくに声をかけてくる人間に、最近慣れていなかった。
「ええ、クレア・モンテーユ子爵令嬢でいらっしゃいますよね。先ほど廊下でお会いしたモンテーユ子爵にご紹介いただきました。私はフィリップ・ラングレーと申します」
「ラングレー……伯爵家の」
「次男です。兄がいますので、気楽なものですよ」
そう言って笑うフィリップ様の表情は、本当に気楽そうで、思わず見入ってしまった。
婚約者であるアルノー・デュボワ様が笑う時、それはたいてい社交的な微笑みだった。場を取り繕うための、計算された表情。
この方の笑顔は、そういうものとは違う気がした。
「実は父が以前モンテーユ子爵にお世話になっていたそうで、ご挨拶がしたかったのですが、なかなか機会がなくて。今日ようやくお話しできたと思ったら、もうお時間だとおっしゃって」
「父がご迷惑を」
「いいえ、そんな。それで、令嬢によろしくとおっしゃっていました。近々またご挨拶に伺いたいとも」
穏やかな声で話すフィリップ様に、クレアは小さく頷いた。
「ありがとうございます。父も喜ぶと思います」
「……少し、顔色が優れないようですが、大丈夫ですか」
不意に心配そうな声で言われて、クレアは目を瞬かせた。
「え、あ……大丈夫です。少し疲れていただけで」
「そうですか。今日は随分と長い式典でしたから。無理せず、どうぞお大事に」
それだけ言うと、フィリップ様は丁寧に頭を下げて立ち去った。
クレアはその背を見送りながら、胸の中に小さな何かが引っかかるのを感じた。
顔色が優れない。
アルノー様は一度も、そんなことを言ってくださったことがない。
アルノー・デュボワ。
デュボワ伯爵家の嫡男である彼は、王宮の財務官として働く有能な方だ。
五つ年上の彼からクレアの父に婚約の申し入れがあったのは、クレアが十六の時だった。
理由はシンプルだった。モンテーユ子爵家は小さいながらも各国の珍しい薬草や香料を扱う商会を持っており、特に西方諸国との交易の窓口として一定の評価を得ていた。アルノー様はその繋がりと、クレアが幼い頃から母に叩き込まれた西方語の能力を必要としていた。
西方語を自国語のように話せること。商会を通じた各国の人脈があること。それがクレアの価値だった。
婚約が決まった時、父は「良い縁談だ」と喜んでいた。アルノー様は確かに有能で、家格も申し分なく、礼儀正しかった。父の目にはそう映っていたのだろう。
クレアもそう思っていた。最初の頃は。
婚約してから気づいたことがある。
アルノー様はクレアのことを何も知らない。
いや、正確には、知ろうとしたことが一度もない。
好きな色は何か。好きな花は何か。どんな本を読むのか。何をしている時が一番楽しいのか。体調は良いか。疲れていないか。
二年間の婚約期間の中で、そういったことを聞かれたことが一度もなかった。
贈り物は定期的にいただく。しかしそれは全て、デュボワ伯爵家の婚約者として相応しい品々だ。家格に合った宝石、格式ある刺繍の入ったハンカチ、社交の場で使うための扇。どれも美しく、どれも高価で、どれもクレアの好みではなかった。
クレアが好きなのは、淡い水色や柔らかな草色だ。宝石よりも、野花を束ねたものの方が嬉しい。本は旅行記や植物図鑑が好きで、薬草の本などは何度でも読み返してしまう。甘いものよりも、少し酸味のある果物が好き。朝よりも夕方の光が好き。
でもそれをアルノー様は知らない。知ろうとしたことがないから。
公の場に連れ出される時、アルノー様は必ずクレアに言う。
「今日は西方諸国の使節が来る。通訳を頼む」
「デュボワ家の取引先の夜会だ。婚約者として相応しく振る舞ってくれ」
「例の商人からの手紙を翻訳してほしい。夕方までに」
クレアはその都度、笑顔を張り付けて従った。
西方語の通訳は完璧にこなした。夜会では誰にも失礼のないよう立ち振る舞った。手紙の翻訳は期日より早く仕上げた。
でもアルノー様がクレアに「ありがとう」と言ったことは一度もない。
それは当然のことだったから。クレアはそういう役割のために婚約者になったのだから。
そう思い込もうとしていた。
一度だけ、クレアは勇気を出してアルノー様に聞いたことがある。
「あの……先日の通訳の件ですが、何か不備はございましたか」
笑顔で確認したクレアに、アルノー様は「問題はなかった」とだけ言った。
「そうですか、良かった。お役に立てて」
「うん」
それだけだった。
もし「助かったよ」の一言があれば、どれほど違っただろうと思った。でもそれは望みすぎなのだとクレアは自分に言い聞かせた。婚約者として当然のことをしているのだから、感謝されるようなことではない、と。
ただ少しだけ、心の奥の方が、冷えていくような感覚がすることがあった。
ある日、アルノー様がクレアを呼んだ。
「来週、デュボワ家の夜会がある。新しいドレスを用意したから受け取りなさい」
差し出されたのは、濃い紫のドレスだった。落ち着いた色合いの、確かに美しいドレスだ。
「ありがとうございます……」
「デュボワ家の婚約者として恥ずかしくない装いをしてくれれば良い。それだけだ」
それだけだ、という言葉に、クレアは小さく頷いた。
部屋に戻ってから、しばらくそのドレスを見つめた。
紫はクレアの好きな色ではない。どちらかというと苦手な色だ。でもそれをアルノー様に言えるはずがないし、言うつもりもなかった。
ただ一つだけ思ったのは、先日の夜会でクレアが水色のドレスを着ていたことを、アルノー様はきっと覚えていないだろう、ということだった。
覚えていたとしても、それがクレアの好きな色だということは知らないのだから、関係ないのかもしれないけれど。
フィリップ様と二度目に会ったのは、王都の市場だった。
侍女と二人で母へのお見舞いの品を探していたクレアに、人混みの中から声がかかった。
「クレア嬢、こんにちは」
振り返ると、あの穏やかな緑の瞳があった。
「フィリップ様……こんにちは」
「お一人ですか?」
「侍女と一緒です。母が少し体調を崩していて、好きなものを探しているのですが……なかなか見つからなくて」
「お母様の好きなものは何ですか」
その一言に、クレアは少し面食らった。
「え……乾燥させたカモミールの花と、西方の蜂蜜を混ぜたお茶が好きで。でもなかなか良い品が」
「ああ、それなら心当たりがあります。この近くに西方の食材を専門に扱う店があって、そこならあるかもしれない。ご案内しましょうか」
「よろしいのですか」
「ええ、私も祖母への手土産を探しているところでしたから」
そう言って歩き出したフィリップ様は、自然にクレアの歩幅に合わせて歩いた。
速すぎず、遅すぎず。クレアが立ち止まって店先を見ると、一緒に立ち止まってくれる。話しかけてくる時は、クレアの顔を見てから話す。
それだけのことが、ひどく新鮮だった。
アルノー様は歩く時、常にクレアより半歩先を行く。立ち止まることはない。クレアが何かを見ていても、気づかずに進んでいく。追いかけるのはいつもクレアの方だった。
「クレア嬢は薬草がお好きなのですか」
店の中で棚を見ていたクレアに、フィリップ様が問いかけた。
「あ……はい、子どもの頃から。母が薬草に詳しくて、よく一緒に図鑑を見ていたので」
「それは素敵ですね。この店の主人も薬草に詳しくて、珍しい品もよく仕入れるそうですよ」
「まあ……!」
思わず目を輝かせてしまって、クレアは慌てて表情を引き締めた。こんな顔をしては、はしたないとアルノー様に言われる。感情を表に出すのは品がないと、何度か言われたことがあった。
しかしフィリップ様は笑って言った。
「良かったら、ゆっくり見ていってください。私は急ぎませんから」
急がなくていい。
その言葉がじわりと胸に沁みた。
アルノー様と出かける時は、いつも時間が決まっていた。この場所に何分、次の場所に何分。クレアの見たいものを見る時間は、最初からスケジュールに入っていなかった。
お目当てのカモミールと蜂蜜を見つけて、クレアがほっとしていると、フィリップ様が店主と楽しそうに話しているのが見えた。
「この子は薬草に詳しいご令嬢でね。珍しいものがあれば教えてあげてくれないか」
店主は目を輝かせて、棚の奥から見たことのない乾燥した草を持ってきた。
「これは西方の山地でしか採れない薬草でしてな……」
クレアは気がつけば夢中になって話を聞いていた。店主の話は面白く、知らない薬草のことをいくつも教えてもらった。
「随分詳しいですね、お嬢さん」
「母が薬草好きで。子どもの頃から教えてもらっていたので」
「良いお母様でしたな。またいらっしゃい」
店を出る時、クレアは久しぶりに心から楽しいと感じていた。
「楽しそうでしたね」
フィリップ様が穏やかに言った。
「……はい。こんなに夢中になって話したのは、久しぶりで」
「好きなものの話をしている時の顔は良いですよ、クレア嬢」
さらりと言われて、クレアは顔が熱くなるのを感じた。
その日の帰り道、フィリップ様はクレアが「好きだ」と言った野花の小さな束を、さりげなく手渡してくれた。
「道端で売っていましたから。大したものではありませんが」
照れたように言うフィリップ様に、クレアは胸が詰まるような感覚を覚えた。
アルノー様からいただく贈り物の何倍も高価なものを、クレアは数えきれないほどもらってきた。
でも、こんなに嬉しいと思ったのは初めてだった。
好きだと言ったものを、覚えていてくれた。ただそれだけのことが、これほど胸に響くとは思っていなかった。
その夜、クレアはいただいた野花を小さな花瓶に飾って、ずっと眺めていた。
それからしばらく経って、フィリップ様から手紙が届いた。
市場でお会いした際のお礼と、先日フィリップ様が旅先で見つけたという小さな薬草の本が同封されていた。
手紙にはこう書いてあった。
『先日お話しいただいた山岳地帯の薬草のことがずっと気になっていて、旅先の古書店でこの本を見つけた時に真っ先にクレア嬢のことを思いました。お役に立てれば幸いです。それと、先日の店主が、またぜひいらしてくださいと言っていましたよ。』
クレアはその手紙を何度も読み返した。
薬草の話を覚えていてくれていた。旅先でクレアのことを思ってくれていた。
ただそれだけのことが、胸の奥でじわりと温かく広がった。
同封されていた薬草の本は、見たことのない珍しい植物の図版が丁寧に描かれていて、クレアは夢中になってページをめくった。
こんなに素直に本を楽しめたのは、久しぶりのことだった。
それから数回、王宮の行事や父の主催する集まりの場で、フィリップ様と顔を合わせた。
いつも彼はクレアの話をよく聞いてくれた。薬草の話も、旅行記の話も、商会で仕入れた珍しい品の話も。笑って相槌を打って、時々面白そうに質問してくれる。
「その旅行記、どのあたりの話ですか」
「西方の山岳地帯の話で、山の薬草のことも詳しく書いてあって……」
「それは面白そうですね。私も読んでみたい」
アルノー様に本の話をしたことがある。一度だけ。
「読書か。それより役に立つことに時間を使いなさい」
それ以来、本の話はしていなかった。
フィリップ様と話す時だけ、クレアはずっと忘れていた自分の声で話していた。
あるいはこんなことがあった。
王宮の廊下で偶然すれ違った際、クレアはアルノー様と共にいた。
フィリップ様が声をかけてきた時、アルノー様は軽く挨拶を交わした後、すぐに話を本題に戻した。
「クレア、先ほどの話の続きだが」
フィリップ様がまだそこにいるのに、アルノー様はクレアだけに向かって話し始めた。
フィリップ様は小さく頭を下げてその場を離れた。
その時にちらりとクレアを見た目が、気遣うような色をしていたことに、後から気づいた。
そういう小さな積み重ねが、クレアの中でゆっくりと何かを変えていった。
アルノー様の隣に立つ自分と、フィリップ様と話している時の自分が、まるで別人のように感じることが増えていった。
どちらが本当の自分なのかと考えた時、答えはすぐに出た。
でも、それを認めることがひどく怖かった。
そして、あの夜会の夜が来た。
デュボワ伯爵家の知人が主催する秋の夜会。
アルノー様に指定されたドレスは、深紅の、体に沿ったデザインのものだった。
華やかで高価なドレスだ。しかしクレアの柔らかな印象の顔立ちと小柄な体型には、あまり合っていなかった。もう少しふんわりとした形の方が似合うとクレアも知っていたが、アルノー様が選んだものだから黙って着た。
以前、アルノー様に贈られた別のドレスを着て出かけた時、後から「あのドレスは似合っていなかった」と言われたことがある。
「似合わないなら別のものにすれば良いだろう」
「貴方が選んでくださったものだったので……」
「私が選んだものをそのまま着るのか。自分で判断しなさい」
どうすれば正解なのか、その時から少しわからなくなった。
会場に入るとすぐに、アルノー様は言った。
「今日は仕事関係の人間が多い。余計なことは話さなくていいから、隣に立っていてくれ。必要な時に声をかける」
「はい」
「それと、先日の西方からの書簡だが、翻訳に一か所誤りがあった」
「え……申し訳ございません、どこでしょうか」
「後でいい。今は夜会だ」
後でいい、と言うが、後で確認する時間をくださったことはほとんどない。クレアが後から確認しようとすると、「今更言っても仕方ない」と言われるのだ。
何が正解なのかわからないまま、クレアは笑顔を張り付けてアルノー様の隣に立った。
隣に立って、話しかけられた時だけ笑って、それ以外は静かにしている。それがクレアの夜会での役割だった。
婚約してから二年、クレアはずっとそうして立っていた。
夜会の中盤、クレアは一人になる時間ができた。
アルノー様が同僚たちと話し込んでいる間、クレアはそっとバルコニーに出た。
夜風が心地よかった。空には星が出ていた。
少しだけ、息ができる気がした。
「クレア嬢」
振り返ると、フィリップ様がいた。
「……フィリップ様。今日もいらしていたのですね」
「ええ。アルノー殿とは仕事上の付き合いがあるので」
フィリップ様はバルコニーの手すりにもたれて、静かに夜空を見上げた。
「寒くないですか」
「大丈夫です。少し、息が詰まっていただけで」
「……そうですか」
それだけ言って、フィリップ様は何も聞かなかった。ただ隣に立って、同じ夜空を見ていた。
その沈黙が、不思議と楽だった。
何かを言わなくていい。気を使わなくていい。ただ夜風に当たっていればいい。
そういう時間を、クレアはずいぶん長い間持っていなかった気がした。
「……星が、きれいですね」
気づけばそう言っていた。
「そうですね」
フィリップ様は同じように夜空を見上げて、静かに答えた。
それだけだったが、何故かその言葉がひどく温かく感じた。
会場に戻ろうとした時、アルノー様の声が聞こえた。
「クレア」
振り返ると、アルノー様が険しい顔で立っていた。
「バルコニーで何をしていた。必要な時に声をかけると言っただろう」
「少し息抜きを……」
「婚約者が席を外していては、必要な時に困る。もう少し周囲への配慮を持ちなさい」
フィリップ様がそこにいることに、アルノー様は気づいていなかった。
「アルノー殿」
フィリップ様が静かに声をかけた。アルノー様がはっとしたように振り返る。
「ラングレー殿……これは失礼しました」
「クレア嬢は私がお声かけしたので、少しお話ししていました。私が引き留めたのです。申し訳ありませんでした」
フィリップ様が頭を下げると、アルノー様は「そうでしたか」と言って表情を緩めた。
クレアへの言葉はなかった。謝罪も、気遣いも。
フィリップ様がクレアを見て、小さく頷いた。大丈夫ですか、という目だった。
クレアは小さく、頷き返した。
それから一月後。
大きな夜会の会場で、アルノー様はクレアに言った。
「クレア、少し話がある」
会場の端に連れていかれて、向き合った。
「婚約を解消したい」
周囲に人の目はあった。それでも、アルノー様は静かにそう告げた。
「財務官としての仕事が増えて、妻に求めるものがより明確になってきた。君は西方語の能力があるし、商会の繋がりも有用だったが、社交面での動きがまだ足りない。私の求める水準には届いていない」
「……そうですか」
クレアは静かに返した。
驚かなかった。
むしろ、体の奥で何かがゆっくりとほぐれていくような感覚があった。
「至らない婚約者で……申し訳ございませんでした」
頭を下げると、アルノー様は「君が謝ることではない。ただ縁がなかったというだけだ」と言って、さっさと人の輪の中に戻っていった。
残されたクレアが顔を上げると、少し離れた場所にフィリップ様がいた。
「フィリップ様……」
「聞こえていました」
フィリップ様の表情は穏やかだったが、目の奥に静かな怒りのようなものがあった。
「馬車を呼びます。送っていきます」
「でも、アルノー様と一緒に来ていたので……」
「アルノー殿には私から話します」
有無を言わせない穏やかさで、フィリップ様はクレアをエスコートした。
外の空気は冷たくて、少し、呼吸が楽になった気がした。
馬車の中で、クレアは静かに話した。
「……ホッとしているんです。おかしいですよね」
「おかしくない」
迷いなく返ってきた言葉に、クレアは小さく笑った。
「二年間、アルノー様の婚約者として努力してきたつもりでした。でも……何をすれば良いのか、ずっとわからなかった。足りないと言われるたびに、どこが足りないのかを考えて、でも教えてもらえなくて。聞いても、自分で考えなさいと言われて」
「……クレア嬢」
「最初は、私が至らないんだと思っていました。アルノー様は正しくて、私が努力不足なのだと。でも、ある時から少しずつ気づいていったんです」
クレアは窓の外の夜の街を見つめた。
「アルノー様は、私のことを何も知らないんだと。好きな色も、好きな花も、何が嬉しくて何が悲しいかも。二年間一緒にいたのに、一度も聞かれたことがなかった。私は……便利な機能として婚約者の立場にいたんだと、そう思ったら、何に向かって努力すれば良いのかが、ようやくわかった気がしました。アルノー様が求めていたのは私ではなく、私の持っている役割だったんだと」
「……気づいていましたよ、私は。最初に会った日から」
クレアは振り返った。
「アルノー殿が君を連れている場面を何度か見かけた。君はいつも半歩後ろを歩いていた。アルノー殿は振り返らなかった。……腹が立ちました」
真っすぐな目でそう言うフィリップ様に、クレアは喉が詰まった。
「私のことを……怒ってくださっていたのですか」
「ええ。市場で会った時も、廊下でお見かけした時も、夜会のバルコニーでも。君はいつも、誰かのために笑っていた。自分のために笑っている顔を、私は一度も見たことがなかった」
それだけで、涙が出そうになった。
誰かが、自分のために怒ってくれていた。自分のことを見ていてくれた。
そのことが、どれほど心に沁みるか、フィリップ様にはわからないだろうと思った。
「フィリップ様は……」
言いかけて、クレアは口をつぐんだ。
「何ですか」
「いいえ……ありがとうございます、とだけ言わせてください」
窓の外に目を戻しながらそう言うと、フィリップ様は静かに「どういたしまして」と返してくれた。
その声が、ひどく穏やかで、クレアはまた泣きそうになった。
父はあっさりと婚約解消を受け入れてくれた。
「……お前が婚約してから、笑顔が減っていた。原因がはっきりしないから言えなかったが、良かった。お前が幸せでいることの方が大事だ」
そう言って父は、静かに抱きしめてくれた。
クレアはその場で初めて泣いた。
二年分の、疲れが溶けていくようだった。
そして二月後、フィリップ様からプロポーズをいただいた。
「クレア嬢のことを、ずっと知りたいと思っていた。薬草が好きなこと、旅行記が好きなこと、水色が好きなこと、野花が好きなこと。好きなものの話をする時の顔が、特別に好きだということも。まだまだ知らないことがたくさんある。一生かけて、全部知りたい。私と結婚してください」
「……はい」
泣かないようにしながら、クレアは頷いた。
泣けなかったのは、嬉しすぎたからだと思う。
それから半年後。
王宮の大夜会の会場で、アルノーは立ち尽くすことになった。
「まあ……あちらのご令嬢、どなたかしら。とてもお綺麗ですこと」
「ラングレー伯爵次男のフィリップ様の婚約者のクレア・モンテーユ様ですわよ」
「まあ、本当に……!以前とは全然違う雰囲気ですこと」
クレアは淡い水色のドレスを纏っていた。ふんわりとした柔らかなデザインのそれは、小柄な彼女によく似合っていた。銀細工に小さな野花を模した飾りのついた髪留めで、緩やかにまとめた髪が揺れている。
隣のフィリップ様と笑い合いながら会場を歩くその姿は、アルノーの知っていたクレアとは別人のようだった。
いや、別人ではない。
ただ、アルノーが知らなかっただけだ。
「デュボワ伯爵子息と婚約されていた頃は、ずっと表情が硬くていらしたけれど……やっぱり相手が変わると違うのね」
「クレア様って、ああいう方だったのですね。明るくて、よく笑われる方で」
「モンテーユ子爵家の商会はラングレー伯爵家とも取引があると聞きましたわ。西方語も堪能でいらっしゃるし、フィリップ様とは本当にお似合いのご夫婦になりそうで」
周囲の囁きが耳に入る。アルノーは動けなかった。
あれがクレアなのか。
あれほど笑える人間だったとは。
あれほど、輝いて見えたとは。
二年間、自分の隣にいた人間が、こんな顔をしていたとはアルノーは知らなかった。ただの一度も、あんな顔をクレアが見せてくれたことはなかった。
いや、違う。
見せてくれなかったのではない。
自分が、見ようとしなかっただけだ。
その時、すっと前に人が立った。
デュボワ財務官局の上司、イザベル・コルネル財務局長だった。
凛とした佇まいの女性で、王宮でも有数の切れ者として知られる人物だ。仕事においては誰よりも厳しく、しかし公正な人物として、アルノーも一目置いていた。
「アルノー殿」
「イザベル局長……」
「クレア嬢のことを見ていたようですね」
アルノーは言葉に詰まった。
イザベル局長は静かに続けた。
「私はずっと疑問でした。あなたは仕事はできる。それは認めています。ただ一点だけ、どうしても理解できなかった」
「……何でしょうか」
「クレア嬢が通訳をした時、翻訳をした時、夜会で婚約者として立ち振る舞った時。あなたは一度でも、彼女に感謝を伝えたことがありますか」
アルノーは黙った。
「婚約者だから当然、とお思いですか。しかし人が何かをしてくれた時に感謝を伝えるのは、立場に関係なく人として当然のことです。あなたはクレア嬢を、交換可能な機能として扱っていた。彼女が何が好きで、何が嬉しくて、どんな時に疲れるのか。二年間、一度でも考えたことがありましたか」
「しかし私は彼女に必要なものを……」
「あなたが与えたものは、全てデュボワ家の婚約者として相応しい品でしたね。クレア嬢自身が喜ぶものを、あなたは一つでも知っていましたか」
アルノーは再び黙った。
「彼女が水色を好むこと。野花が好きなこと。薬草の本を繰り返し読むほど好きなこと。フィリップ殿は、婚約する前からとうに知っていましたよ。人を大切にするというのは、そういうことです。役に立つかどうかではなく、その人が何者かを知ろうとすることです。あなたは二年間、クレア嬢が何者かを知ろうとしなかった。その結果があれです」
イザベル局長は会場の向こうのクレアへ、一度だけ視線を向けた。
穏やかで、しかし揺るぎない目だった。
「婚約者を失ったことより、あなたが何を失ったか気づいていないことの方が、私には問題に見えます」
言うだけ言うと、イザベル局長は静かにその場を離れた。
なぜ誰も、自分の思う通りに動かないのだ。
仕事は順調なはずだった。財務官として実績を積み上げて、宰相府への道を着実に歩んでいるはずだった。
なのに、なぜこうも上手くいかない。
ふと、イザベル局長の言葉が頭をよぎった。
『婚約者を失ったことより、あなたが何を失ったか気づいていないことの方が、私には問題に見えます』
何を失ったか。
アルノーにはわからなかった。
道具は失われた。それは確かだ。だが道具は別のものを探せばいい。
ただ……。
あの水色のドレスが、なぜかいつまでも頭から離れなかった。
クレアの好きな色が水色だということを、アルノーは知らなかった。
二年間、知ろうとしなかったから。
ではフィリップはなぜ、婚約前から知っていたのか。
それだけが、どうしても理解できなかった。
会場の向こうで、クレアがまた笑っていた。
フィリップ様と何かを話しながら、本当に楽しそうに。
自分のために笑っている顔だ、とアルノーは思った。
二年間、自分の隣で見たことのない顔だった。
それが何を意味するのか、アルノーには今も、よくわからなかった。
ただ一つだけわかったのは、あの笑顔を自分が引き出したことは、二年間で一度もなかったということだ。
それきり、アルノーはクレアのことを考えないようにした。
考えても、何も変わらないのだから。
ただ、その後しばらくの間、夜会に出るたびに水色のドレスを着た令嬢を目で追ってしまう癖が、アルノーにはついてしまっていた。
その後クレアはフィリップ様と結婚し、穏やかで温かな家庭を築いた。
薬草の知識を活かして地域の人々の相談に乗るようになったクレアのもとには、遠くからわざわざ訪ねてくる人も出てきた。フィリップ様はそんなクレアを誇らしそうに見守っていた。
クレアもまた、フィリップ様が仕事から戻ってくるたびに、その日あったことを嬉しそうに話した。フィリップ様はいつも、どんなに疲れていても、クレアの話を楽しそうに聞いてくれた。
二人が並んで歩く姿は、いつも歩幅がぴったりと合っていた。それがクレアにとって、何より大切なことだった。
フィリップ様もまた誠実な人柄で仕事上の評価を高め、二人は生涯仲睦まじい夫婦として知られた。
一方アルノーはその後も婚約者を探したが、なかなか決まらなかった。
仕事はできる。家格も申し分ない。しかし相手が続かなかった。
その理由を、アルノーが知ることは生涯なかったそうだ。




