とりのしま
カモメの鳴き声は、人の赤ん坊の声に似ている。
小さな手漕ぎの舟に揺られながら、あたしは青い空を舞う白い鳥たちの影を見上げた。
空は、水平線に浮かぶ緑の島を中心に、透き通った海と混ざり合っている。
遠くから続く凪いだ海面を、あたしを乗せた、ちっぽけな舟が進んでいく。青い水面に、船が立てた波が線のように少し残って、あっという間に消えていった。
「嬢ちゃん、酔ってないか? もうすぐ島に着くからな」
舟を出してくれた漁師のおじさんが、魯を漕ぎながら声をかけてくれる。
持ち物全てを詰め込んだカバンを抱えていたあたしは、所々穴の空いた麦わら帽子を被った頭だけで振り向いて、笑ってみせた。
「だいじょうぶ。舟は慣れてるの。もっと大きい波が来たって酔わないわ」
波もない、ぎゅうぎゅう詰めでもない。行く場所もあって、もう不安じゃない。酔うわけがなかった。
「そうかい、そいつは頼もしい」
漁師さんのにこにこの笑顔は、港であった時から変わらない。島に渡りたいとお願いした時、まっすぐにあたしの目を見つめた時だけは笑顔ではなかったけれど。
「じょうちゃんは知ってるかい?」
なにを、とあたしは首を傾げた。
「あの島は、舟で渡れる時と渡れん時があるんだよ」
漁師さんは、水平線に浮かぶ緑の島に目を向けた。
「今日は渡れる日だったのね?」
ああ、と深い皺を刻んだ日に焼けた顔が頷く。
「または、渡らにゃならん者が来る日でもある」
あたしは、泥とか色んなものの染みがついたカバンを抱きしめた。カバンを抱きしめる、半袖から出た腕は細くてかさかさしていて、あたしを幼く見せる。
「そういう日は風が止む。その日に島に行きたいと声をかけられたら、ワシらは舟を出さんといかんのよ」
やっぱり、あたしはあの島に行くんだ。
喉がぎゅっと締まり言葉が出なくなって、あたしは俯いた。
島の誰もいない船着場。
海藻や貝が張りついた、灰色のコンクリートに降り立つ。波はなかったのだけれど、まだ小さな舟のゆらゆらした感じが残っていた。薄い靴底に力を入れて、灰色の固い地面を掴んだ途端、ふわりと春のような暖かい空気が体を包んだ。
船着場から緩やかに島の丘に続く道は、鮮やかな緑に覆われている。のびのびと枝葉を広げた色んな種類の樹々には、色鮮やかな花が咲き誇っていた。艶やかな実を付けた木もある。葉の隙間から白いきれいな鳥たちの尾羽がちらちらと見えて、我慢できずにあたしは駆け寄りたくなった。
「じょうちゃん」
漁師のおじさんがの声で、あたしは我に返る。
「ワシは戻るよ」
笑顔の中の目が、またまっすぐにあたしに向けられている。
「あ……」
慌てて、あたしは帽子を取った。少し悩んで、カバンと一緒におじさんに差し出す。
「あのっ。乗せてもらったから」
おじさんが目を瞬かせた。
「お礼に……」
麦わら帽子は、穴もそうだけど歪んでいる。カバンも汚いけれど、あたしのこれまでの全部が詰まっているから、もしかしたら少しだけ価値ある物が入っているかもしれない。
舟で逃げる時に、励まし合ったともだちのヘアピン。ともだちは途中で力尽きて、ヘアピンは錆びてしまったけれど。遠くの国で偶然会えた男の子からもらった、擦り切れて半分になったこの国の本。
母さんが隠しポケットに忍ばせてくれた家族の写真は、服ごととられてしまったから、もうない。
「じょうちゃん」
おじさんが優しく首を振った。
「それはあんたの大事な物だ」
持っていきなさい、と言われて、あたしは思わず、止めていた息を大きく吐いた。
もう要らない、いらないのだけれど。カバンの中身は、あたしの生きてきた証だったから。
「ああ、だけど」
おじさんが静かに手を差し伸べる。
「帽子だけ、もらおうか。じょうちゃんを送り届けたことを、覚えていられるように」
突然、あたしの目から一粒だけ涙がこぼれて、まだ涙が出ることに驚いた。
「ありがとう、おじさん」
少し風の出てきた海を、舟が戻っていく。気をつけて帰ってと、その影が水平線に消えるまで、あたしは手を振った。おじさんが頭に乗せた、ぼろぼろの麦わら帽子にも手を振った。
島の穏やかな昼間の光の中、あたしは丘の上を目指して、緩い坂道を登っていく。
道はほとんど花をつけた草に覆われていて、辺りを見回せば瓦屋根の家々が同じように緑の海に沈んでいる。
風が草木を揺らす度、花の甘い香りが辺りに満ちる。
緩いけれど長い坂道を、ずいぶん時間をかけて頂上まで登っても、まだ日は高いままだった。
「わあ……っ」
拓けた丘の上は、こんなに高かったのかと思うほど、遠くまで見通せた。緑の海の向こうに青い海が広がっている。鳥たちが空に舞い、森に止まり、陽の光に白い羽を輝かせていた。
帰ってきた。
記憶の中の島とは似ても似つかなかったけれど、包み込む空気の柔らかさでわかった。
あたしは帰ってきたのだ。
「おかえり」
声をかけられても、もうあたしは驚かなかった。
荷物を足元に置いて振り向くと、いつの間にか人影が一つ。男の人か女の人か、老いているのか若いのか、顔のよくわからない白い着物を着た人が、あたしの後ろに立っていた。
上空を舞っていたかもめたちが、一斉に丘の上に降りてくる。
一羽があたしの右肩に舞い降りて、暖かな白い羽で覆われた胸をあたしの頬に押しつけた。
「ただいま」
十年前、六歳だったあたしは、戦争を始めたこの島から、この国から逃げ出した。その時、国にいる人には全員に番号が付けられていたから、なるべく目立たないよう小さい子だけが船に乗せられて、海を越えた別の国を目指した。
あたしは行きたくなくて、お母さんの腕に縋って泣いた。お母さんも泣いた。けれどもう食べ物もなくて、島に残ったら死んでしまうと、お母さんはあたしを引き剥がすようにして船に乗せたのだ。
「きっと最後には帰ってこられるから」
お母さんはそう言った。
船縁から身を乗り出して、遠く小さなる岸辺で、子どもたちを送り出したたくさんの家族の中の、あたしのお母さんに向かって叫んだ。
「行きたくない。お母さんと一緒にいる」
ずっと叫んでいた。でも、いつしか岸もお母さんも見えなくなった。
船は出発した時よりずっと少ない人数で、遠くの国に着いた。でも結局は、そこはあたしたちの居ていい場所ではなかった。
いろんなことがあって、けれど何故かあたしは生きていて、そしてやっと。やっと、この島に帰ってきた。
「もう、いいんだね?」
白い人が聞く。
肩のカモメが身じろぎしたけど、あたしは迷いなく頷いた。
「はい。鳥にしてください」
遠くの国にいる時に、数の少なくなった逃げ出した子どもたちは、故郷の不思議な話を聞いた。
戦場になって、人ではない兵士が攻め込んできて、空からたくさんの爆弾が落とされた故郷の島国。人の兵士が島に降り立った時、人は一人もいなかったという不思議な話。
茶色く焼け焦げて平らになったはずの島は、色鮮やかな緑の草木に覆われ、恐ろしいほど青く澄んだ空に、白いカモメだけが舞っていたという。
遠くの国の人たちは言っていた。“あの国の人間は、みんな鳥になってしまった”のだと。
「そうだよ」
白い人が答える。
「もう人として生きられないと、みなが思ったから」
周りのカモメたちが赤ん坊に似た声で、一斉に声を上げた。カモメたちが何を言っているのか、あたしにはまだわからない。
「願ったから、鳥に変えたよ」
帰ってくる者だけしか入れないように島も閉じたよ、とその人は言う。
「おかえり」
顔がわからないのに、その人が微笑んだのはわかった。
あたしは、ゆっくり目を閉じる。遮るもののない丘の上、暖かい陽の光が全身を覆って、閉じた目の裏が黄色のような白のような眩しい光で溢れた。
瞬きをしながら瞼を開くと、肩に止まっていたカモメがまっすぐに、あたしを見つめていた。
「おかえり」
ミャアと、お母さんの声で鳴いた。
「ただいま」
あたしも、ミャアと鳴いた。
「いきましょう」
お母さんがお手本を見せるように、翼を広げた。
ぼろぼろのカバンが倒れて、中の荷物が地面に溢れていた。ヘアピンと本と……でも、もう要らない。
あたしは、ぎこちなく手、じゃなくて翼を広げた。驚くほど軽い翼は、簡単に風を掴む。
ふわり、体が浮き上がった。ぐん、と翼を羽ばたかせて風に乗る。
お母さんの後に、続いて、青い空を翔けのぼる。
どこまでも、どこまでも。
「ずっと一緒よ」
お母さんの優しい声が、青い空に響いた。




