第9話 夜の侵入者
夜の学園は、昼とは別の顔をしていた。
文化祭の飾りがまだ廊下に残っていて、紙の星が空調の風に合わせてゆっくり揺れている。月明かりはガラス越しに青く薄まり、床のワックスの面に淡い帯を引いた。掲示物の角がめくれ、テープの端がときどき小さな音を立てる。校舎は寝ているみたいで、でも耳だけは起きている——そんな静けさだった。
春斗、雪乃、蓮、芽衣の四人は、足音を殺して進んだ。
昇降口から特別棟へ抜ける廊下。曲がり角の手前で一度止まって、息を合わせる。芽衣が両手をぎゅっと握り、「いざ」と口の中で言って、から回りな気合を押さえ込む。蓮が低い声で状況を短く並べた。
「職員室への連絡は済んでいる。先生たちは校舎の外周を警備中。中を巡回しているのは今のところ僕らだけだ」
芽衣がごくりと唾を飲む。
いつもの明るい顔の奥で、瞳だけが真剣になった。
「ほんとに来るの?」
答えは、言葉の代わりに来た。
窓の外で、影が走った。次の瞬間、ガラスに小さなひびがひとつ生まれて、ひびの中心が白く膨らみ、乾いた音とともに割れた。
夜の空気が廊下へ流れ込み、紙の星がいっせいに振り向いたみたいに揺れた。
黒いコートが飛び込んでくる。ひとり、ふたり、みっつ、よっつ——数えるのをやめた。十分に多い。
先頭の男の目だけが、コートの影から光っていた。
「鍵を渡せ」
低い声。命令の形をしている。人の心を、言葉だけで押し流そうとする声。
雪乃の肩がわずかに震え、春斗は半歩前へ出た。
「渡さない。どんな理由があっても」
言葉にした瞬間、足が床をつかまえてくれた。
男のひとりが踏みこんでくる。肩で押す。
春斗は体をひねり、胸の前に“板”を置いた。板は薄いが、そこにある。肩の圧が板の面で滑り、男の足がもつれて前へ空振りする。
反対側から、別の男の蹴り。板の向きを切り替えるが、遅れた。衝撃が肩に入って、壁に貼られた合唱のポスターがびり、と震える。
「前ばかり見るな」
蓮の声が背中から飛ぶ。次の瞬間、彼の指先から広がった光が、廊下を白く洗った。目くらまし。短い光。角度は低い。
芽衣が非常ベルに手を伸ばす。押し込む。——音が鳴らない。
「システムが止められてる!」
芽衣の顔が真剣のさらに奥に沈む。ふざけようとしても冗談が出てこないとき、彼女は一段締まる。
雪乃が、震える手を上げた。空気が冷たくなる。指の先の温度が落ちて、輪郭が澄む。
廊下の先に、透明な壁が立ち上がった。薄い氷の板。隙間という隙間を埋めるほど厚くはない。けれど、通ろうとする足をすっと遅らせる十分な重さはあった。
「これで、通れない」
雪乃の声は固かったが、折れてはいない。
黒コートのひとりが炎を握って、氷に押しつける。火花が散って、氷の肌に白い亀裂が走る。水が細く糸になって床へ落ちる。
春斗は壁の前に立ち、板を氷の表に重ねた。氷と見えない板は材質が違う。触れた瞬間、空気の手ざわりが変わる。
「俺が前。雪乃は後ろで支えて」
「うん!」
男たちが言葉をいくつか投げてきた。命令も、嘲りも、交渉も、全部少しずつ混ぜた言葉。耳に勝手に入ってくる言葉を、春斗は板で弾くみたいにやり過ごす。
蓮が目で合図を送る。左を捨てろ。右を厚く。前へ半歩。
芽衣は非常ベルが死んでいるのを確認すると、古い放送スピーカーのプラグを引き抜いて持ち替え、中庭方向へ走った。音の代わりに光を。光の代わりに音を。置けるものから置いていく。
短い攻防が積み重なって、廊下に小さな傷が増えた。床のワックスが焼け、ポスターの角がちぎれ、メニュー表の「本日のおすすめ:笑顔」が端から湿って丸まる。
黒いコートの列の奥から、一人、歩き方が違う男が出てきた。背筋がうつくしい。肩の位置が変わらない。
彼が指を鳴らすと、廊下全体に薄い黒い煙が溶けだした。煙は軽いのに、匂いは重い。香水の真似をしているが、正体は違う、みたいな嫌な感じ。
男は、教室の時計をちらりと見てから、短く言った。
「最後の警告だ。鍵を渡せ。渡さなければ——街も巻き込む」
脅しのときだけ、息が長くなる。
春斗は息を切らしながら、言葉を短くした。
「そんなの、許さない」
男の拳が光った。
光、といっても明るさではない。拳の周囲の空気の密度が上がって、見えない重さが拳の前に押し出されてくる。真正面から打ち込まれる。
春斗は両腕を交差した。板を二枚、交差に置く。
衝撃。
板の前で空気がきしんで、音のない音が耳の奥を震わせる。
足元の床にひびが走った。靴の底のラバーが鳴いて、半歩だけ滑る。交差した腕の外側が痺れる。
「春斗くん!」
雪乃の叫びが、煙の中で方向を教えた。
彼女の手が春斗の手首を掴む。骨の細さ、皮膚の冷たさ、その下の血の勢い——全部が、握られた手の平から一度に伝わってくる。
その瞬間、板の手ざわりが変わった。
固さだけだった面に、きめ細かい弾力が宿る。薄い輪が板の縁に巻きつき、二つの材質が一枚の“面”として息をした。
光が走る。
まぶしいのではなく、空気の中の濁りが、一瞬で晴れるような光。煙がすっと引いて、廊下の掲示物の色が戻ってくる。
先頭の男の拳が止まった。
ほんのわずか。ほんのわずかでも、止まれば崩れる。重さは前へ進みたがっているのに、拳が進まない。バランスの継ぎ目に空白ができる。
蓮がそこへ入り、男の足の置き場を一つ消した。力でねじ伏せるのではない。道の方を一本、静かに無くす。
芽衣が廊下の角からスピーカーを鳴らす。音はメトロノームの連打。三呼吸の幅で刻まれ、煙の残りを揺らす。
男たちは互いに目を合わせ、無言で後ろへ退いた。先頭の男も、舌打ちひとつだけ残して、足音を吸い込むように消えた。
静寂が戻ってくる。
戻ってくるのに、時間は要らなかった。さっきまで鳴っていた音が嘘みたいに、夜の校舎は何事もなかった顔をして、紙の星をまた揺らした。
蓮が駆け寄る。目が問う。
「今の、何をした?」
雪乃は呼吸を整えながら、手を離したくないみたいに、もう片方の手で春斗の袖を軽くつまんだ。
「わからない。でも……春斗くんと手をつないだら、守りが広がった。輪が、板の縁に合うみたいに」
芽衣が泣き笑いの声で言う。
「すごいよ! 本当にヒーローだよ! 二人で一人前じゃなくて、二人で二倍!」
「計算はともかく、効果は本物だ」
蓮は短くうなずく。
春斗は腕の痺れが少し引いたのを確かめて、ゆっくり息を吐いた。
「俺たちは、まだ終わってない」
言葉にして、自分に戻す。決めてから、動く。
外周から警備の靴音が近づいてきた。校門の方角でサイレンの音が遠くに滲む。連絡が届いたのだろう。
夜が明けはじめる頃、先生と警察が駆けつけた。廊下のひび、破れたポスター、ガラスの欠片を見渡して、先生が低く息を吐く。
「まさか、生徒だけでここまで防いだのか……」
春斗はふらつきながらも立ち上がった。足の裏が現実に戻る。
雪乃が肩を貸す。その手はまだ少し冷たく、けれどその冷たさは氷の冷たさではなく、長く持ち歩いた銀の小物の冷たさに近い。落ち着く、という種類の温度だ。
「無理しないで」
「大丈夫。……でも、これで終わりじゃない。奴らは、また来る」
「来させない手も、作る」
蓮が言う。警官と先生への報告を短く、必要だけ渡す。芽衣は壁新聞用のメモ帳を握った手を背中に回し、今は書かないと決めて、代わりに廊下の欠片を拾い集める。
東の空が薄い青に変わり、鳥の声が鳴りはじめた。
窓の外には朝の色。長く伸びた影は短く切り詰められて、校庭の砂は夜の匂いから朝の匂いへ着替える。
春斗はまぶしい光を真正面に見た。まぶしさは敵ではない。起きろ、の合図だ。
「俺は守る。この場所と、みんなを」
言葉にして、空気に置く。
言葉は板を厚くしすぎない。薄いけれど、そこにある。
雪乃が横でうなずいた。胸元のペンダントが小さく鳴る。銀の音。
芽衣が笑う。泣いた目で笑う。蓮が短く目を閉じ、開く。決めた顔。
その日の午前中、臨時の全校集会が開かれた。先生の声は穏やかさを保ちながら、校内で起きたことを「外部者による侵入」とだけ伝えた。生徒の勇敢な行動に礼を言い、これからの安全対策を説明した。
具体的な名は出ない。黒薔薇なんて言葉はどこにもない。けれど、今日の風は昨日より少しだけ固く締められ、昇降口の照明は日が落ちる前から点くようになった。
四人は授業が始まるまでの短い時間、生徒会室に集まった。
蓮が紙を広げる。いつもの丸と線。だが、今日は真ん中にもう一つ、小さな丸が描き足されていた。
「“手”」
蓮は言った。
「二人の手がつながったとき、面が合う。なら、練習する。手をつないだときの“面”の作り方を。輪と板の合わせ方を。三呼吸で」
「手をつなぐ練習って、青春を仕事に変換したみたいな作業だね」
芽衣が肩をすくめる。
雪乃は、照れ隠しにペンダントの銀色を一度だけ指先で弾いた。音が、机の上の図面にコツンと落ちる。
「やろう」
春斗は言った。
腕はまだ重い。重いけれど、重さの質が昨日とは違う。
守る時だけ強い。
なら、守る時を、増やしていけばいい。
時間に置く。場所に置く。手に置く。言葉に置く。
決めてから、動く。
その練習なら、何度でもできる。
チャイムが鳴った。
いつもよりほんの少しだけ、音が明るく聞こえた。
教室に戻る前、雪乃が小さく言う。
「ありがとう。手、また——」
「うん。三呼吸ずつ」
「指二本分の距離で」
芽衣が横からノートを突き出した。
「名言メモ、更新しとくね。『三呼吸と指二本』」
「だいたいその単位でやってける」
蓮が珍しく口角を上げる。
四人はそれぞれの教室へ散り、朝の光にまぶたを細くした。
窓の外の空は高く、昨日の煙の名残はどこにもなかった。
けれど、床のひびの一本が、細い線で確かに残っていた。大げさに隠す必要はない。線は、覚悟の形に見えた。
授業が始まる。
黒板のチョークの音。先生の声。友だちの笑い。
全部、いつも通り。いつも通りの中に、昨晩の三呼吸が薄く混ざっている。
春斗はノートを開き、ペン先を置いた。
書き出しの一行目に、小さく書いた。
——守る。
その一行は、誰にも見えない板になって、今日の自分の前に立った。
見えないのに、確かにそこにある。
それで十分だった。




