第6話 校外学習の罠
歴史館は、昼と夕方で顔が変わる建物だった。
校外学習で来たときは、明るい窓から子どもたちの声があふれて、木の床がほこりをはじくようにきらめいていた。今日は違う。閉館が近い時間、石の床は冷たく、天井のランプは揺れるたびに影の形を細く変える。展示のガラスは薄く澄んでいて、そこに眠る古い剣や盾は目を閉じたまま夢を見ているようだった。
受付の人が帰り支度で鍵束をじゃらりと鳴らし、こちらに気づいて笑った。
「見学なら、閉まる前に二階まで行っておいで。奥の部屋は早めに消灯するからね」
封筒に指定のあった場所は、二階のいちばん奥──古い地図の部屋。
ゆるやかな階段を上がると、壁じゅうに昔の街並みが描かれた紙が並び、真ん中には木の机がひとつ。空気は紙の匂いとインクの匂いで満ちていて、鼻の奥が少しむずむずする。窓の外の夕焼けが、ガラス越しに紙の端を薄く温めていた。
雪乃が足を止めた。
地図の前に立ち、指先でうすい茶色の線をそっとなぞる。
「小さい頃、ここに連れて来られたことがある。家族と。あの日も、こんな光だった」
春斗はうなずいた。思っていることはひとつだけだ。
「帰ったら、また来よう。今度は、ゆっくり」
雪乃が振り向いて、少し笑う。そこで、音が切れた。
部屋の入口の扉が、静かに閉まる音。続いて、小さく鍵の回る音。
春斗の体が先に動いて、雪乃の前に半歩、出た。
壁の影から、黒いコートが三つ、音もなく浮かび上がる。
顔は布で隠されて、目だけが光っていた。柔らかいのに冷たい、冬の日の川の光に似ている。
「君が雪乃さんだね。『渡すものがある』と言った。約束は守る」
男の声は低く、やさしさの形を借りていた。借り物のやさしさは、だいたい背中が寒くなる。
「近づくな」
春斗は短く言った。短く言えるときは、迷っていないときだ。
男たちは、笑った。目だけで。口元は布の奥で動かない。
「無駄だ。君には攻める力がない。こちらは数がいる」
言われなくてもわかっている。
攻められない。それでも、守れる。
一人目が手を伸ばした。春斗は雪乃の肩を押して半歩さがらせ、自分が一歩、前へ。胸の前に意識を置く。
空気が固くなり、見えない板が二人の前にすっと生まれた。
男の手はそこで止まり、押すほどに滑るだけで進まない。つるり、と空振りした手が布の袖に引っかかり、男は首をかしげた。
「面白い。では、横から」
二人目が脇へ流れて、展示棚の方へ踏み込む。ガラスを割って気をそらす気だ。靴の先でぐっと蹴りを入れる。
春斗はそちらへ体を向けた。板が音もなく移動し、ガラスの前にぴたりと立つ。振動が伝わり、ガラスは高い声で鳴ったが、ひびは入らない。
部屋の空気が少しずつ重くなる。紙の匂いに金属の匂いが混ざる。
三人目は扉の方へ回り、鍵に手をかけた。内側からかかった鍵は動かない。男は何かをつぶやき、腰から細い針金を取り出そうとした──その瞬間、反対側から、鍵が外から回された。
「春斗、さがれ。援護する」
扉の隙間から、蓮の声がした。落ち着いた声。焦りは隠し、慎重は隠さない声。
扉が少しずつ開き、蓮の肩が見えた瞬間、三人目が突進した。雪乃が叫ぶ。
「危ない!」
春斗は体をひねって間に入り、見えない板を広げた。
男の肩がその板に当たって、跳ねる。蓮はすぐにその腕を取って、床に倒した。動きは小さく、確実。
蓮は息を乱さずに言った。
「遅れてすまない。先生たちが来るまで、持たせるぞ」
「わかった」
春斗はうなずいた。額の汗が目に入って、しみる。手のひらは熱く、板の輪郭だけが妙に涼しい。
雪乃は壁を背に、震えを押さえている。けれど目は逃げない。まっすぐ前を見ている。
黒いコートたちは、作戦を変えた。言葉で崩す方に。
「雪乃、君はわかっているはずだ。君の“鍵”は、君だけのものではない。昔、家族が守ったもの。私たちは、それを正しく使う」
正しい、という言葉は便利だ。相手の考える余地を奪う。
春斗は低く言った。
「だまされるな。正しいは、人を動かすために使われがちだ」
男は肩をすくめ、布の奥で笑った。
「では、力ずくで」
二人が同時に踏みだす。
展示室の真ん中にある大きな地球儀が、ゆっくり回っていた。木の台座が軋む。
一人がそれを強く押し、春斗の目を奪う。もう一人が反対へ回り、雪乃に近づく。
春斗は板を広げ、地球儀を止め、雪乃の前に壁を作る。動きはぎこちないが、意識の置き場ははっきりしている。
守る。何があっても。
板に肩がぶつかるたび、ずしんと重さが腕に入る。肘の内側がじんわりしびれて、膝が笑いたそうにする。それでも足は前に残した。
蓮が倒した男を逃がさない角度で押さえつけ、短く周囲を見回す。展示棚、窓、扉、天井。逃げ道と入り口、両方に目を配る。
遠くの廊下で、かけ足の音が増えた。笛の音。先生たちの声。「そこ、止まって」「手を離しなさい」。
黒いコートは舌打ちをひとつ。
窓際へ下がり、鍵のない留め金を外して、ためらいもなく身を翻す。
二階の高さをものともせず、隣の低い屋根へ降りて走る。残りも続く。黒い影は屋根の影に溶け、細い路地へ吸い込まれていった。
「追うな。危ない」
蓮の手が春斗の肩にかかる。そこに置かれた重さに、張っていた糸がようやくゆるんだ。
春斗はへな、とその場にしゃがみ込んだ。腕の震えが止まらない。胸は上下しているのに、空気が足りない気がする。
雪乃がすぐそばに来た。春斗の手をそっと包む。指は冷たかった。怖さだけの冷たさじゃない。氷の魔法の名残の冷たさ。
彼女は、ためらってから言った。
「ごめんね。私のせいで」
「違う」
春斗は首を振る。言葉を選ぶより先に、言わなきゃいけないことがあった。
「誰かのせいにしたくない。守りたいって思ったから、俺はここにいる」
雪乃の目から、涙がひと粒だけ落ちた。床に落ちる音はしないのに、はっきり聞こえた気がする。
蓮は窓の外を見張りながら、真面目な声に戻した。
「敵は“鍵”を狙っている。詳しい話は、あとで先生も入れて聞かせてくれ。対策を立てる」
雪乃は小さくうなずく。震えは残っているのに、顔の表情はさっきより強い。
先生たちが飛び込んで来て、手短に状況を確認した。展示の破損はなし。怪我、なし。職員が外回りの見回りに散る。
受付の人が走ってきて、「もう閉める時間だよ」と言いかけて、廊下の空気を見て言葉を飲み込んだ。
外に出ると、夕焼けは紫に変わり、街の灯りがぽつぽつと点り始めていた。
風は乾いていて、汗の跡をやさしくなでる。心臓の鼓動はまだ速いけれど、耳の中のうるささはおさまりつつある。
先生が言った。
「帰りはまとまって歩く。寄り道はしない。家に着いたら保護者にも一報を入れる」
芽衣が駆けて来て、春斗の腕を両手でさすった。
「無事? ほんとに無事? 目に見えないところが痛い、とかない?」
「大丈夫。少し、疲れただけ」
「よかった。蓮、かっこよかった。春斗、もっとかっこよかった。雪乃ちゃんは、いつもかっこいい」
「順番に欠けがないのは珍しいな」
「たまにやる」
芽衣の明るさは、緊張の隙間に空気を入れてくれる。
学園へ向かう道、四人は列になって歩いた。先頭は先生。蓮が横へ出て、背後と左右を気にする。春斗と雪乃は少し間を開け、芽衣は周囲を見たり、すれ違う犬に勝手に挨拶したりしている。
途中で、雪乃がそっと歩調を合わせてきた。
声は小さい。けれど、ちゃんと届く。
「ねえ春斗くん。私、弱いって思われるの、ずっと嫌だった。弱いから、鍵を奪われる。弱いから、誰かに決められる。……そう言われるのが、嫌だった」
春斗は相づちを打つ。
「うん」
「でも、今日、怖かったのに逃げたくなかった。守られるだけの自分でいたくなくなった。私も守りたい。君を。芽衣を。蓮を。……だから」
雪乃は立ち止まらず、ほんの少しだけ息を吸った。
「明日から、私も練習をする。君を守る練習。ふたりで強くなる」
「うん。ふたりで」
その言葉は、不思議と重くなかった。肩に乗って、背筋をまっすぐにした。
街の灯りは並び、道はまっすぐ続く。遠くの空に、一番星。点いて、消えない。
学園の門まで来ると、守衛さんが心配そうにのぞきこみ、「今日は早く休みなさいよ」と声をかけた。寮へ向かう前に、生徒会室へ寄って報告をする。机の上に白紙のメモが置かれ、蓮が簡潔にまとめていく。先生への報告、外の見回りの範囲、今後の共有。無駄がない。
芽衣は廊下で壁新聞用のメモを取りながら、「タイトルはどうしよう」とぶつぶつ言っている。
「暗いのはやめようね。『恐怖の歴史館』とかやめようね」
「じゃあ、『歴史館、夕方に行くと寒い』」
「それ、ただの感想」
「感想はだいたい真実」
「……うん、まあ」
笑いが戻ってくる。
解散の前、蓮が春斗と雪乃を見た。目が真っすぐだった。
「今夜は鍵を外すな。ひとりで動かないこと。明日はまた訓練場で。対象を“決めてから”動く練習を続ける。視野を広げる。守る範囲を、頭の中で地図にしろ」
「地図、か」
「今日の地図の部屋を思い出せ。線は一本だけじゃない。道は何本もある。逃げ道も、守りの線も」
「了解」
雪乃もうなずく。胸元のペンダントを、リボンの下からそっと押さえた。指の間で銀色が小さく鳴る。その音は、今日いちばん小さくて、いちばんはっきりした音だった。
寮に戻ると、先輩が窓の前で腕立て伏せの真似をしていた。筋トレかと思ったら、ただの真似だった。
「帰ったか。今日の歴史館は“寒い”という情報を得た」
「芽衣の新聞から抜いた情報ですね」
「情報は早く回るべきだ。それより顔色が少し薄い。甘い物を食べるべきだ」
「先輩、それいつも言いますよね」
「いつも正しい」
机の引き出しから飴を二つ出して、一つを春斗に投げ、一つを窓辺に置いた。窓辺の飴は誰用かはわからない。たぶん、夜風用だ。
ベッドに座る。手のひらを見つめる。今日は何度も板をつくった。何度も守った。そのたびに、少し速くなった気がする。
蓮が言ったように、対象を決めてから動く。決め方は、言葉にする。
春斗は、声に出さない声でつぶやいた。
「雪乃の右肩。芽衣の頭。蓮の背中。先輩の……飴」
飴の守りは、いらない。けれど、言葉にしただけで笑えて、少しだけ肩の力が抜けた。
電気を消して、横になる。
まぶたの裏に、地図の部屋が浮かぶ。細い線と太い線が交ざって、交差して、遠くへつながっている。
夢を見た。崩れた塔の前で、雪乃が立っている。背中の影は、昨日よりさらに薄い。彼女の胸元の銀色に、光が触れる。鍵穴はないのに、そこだけが少し、温かい。
遠くのどこかで、また声がする。「鍵を渡せ」
春斗は、首を横に振った。
夢の中でも、はっきりと。
目を開けると、夜はまだ静かで、窓の外の旗の金具が、かすかに鳴った。
明日の音が、小さく、確かにそこにあった。
翌朝。
目覚ましより早く目が覚めた。体のあちこちが、昨日の続きだと教えてくる。けれど、痛みは敵ではない。合図だ。
包帯を巻き直し、深呼吸をひとつ。
廊下に出ると、窓の外で朝の光が薄く笑っていた。
春斗は、胸の中で地図を広げる。
守る対象。守る線。逃げ道。合流点。
今日も決めてから動く。
そして、決めたことを、少しずつ増やしていく。
自分のために。隣のために。半分の梅干しのために。
小さく笑って、教室へ向かった。
扉を開ける直前、背後で足音が重なった。雪乃だ。歩調は揃って、リボンは昨日より固く結ばれている。
視線が合う。
おはよう、と言った声は、思っていたより明るかった。
その明るさが、今日の最初の板になった。
守る時だけ強い。
なら、今日も守る時にする。
そう決めて、春斗は席に着いた。




