第5話 生徒会のテスト
翌朝、階段は山になっていた。
体育祭の代償は、ふくらはぎと太ももに住みついた正直者の痛みだ。上るたびに「おはよう」と筋肉が挨拶してくる。返事はいらない。黙って一段ずつ仲良くするしかない。
教室に入ると、空気が昨日と少し違った。
視線は相変わらずある。けれど、刺さるというより、触れるに近い。
「昨日、かっこよかったぞ」
「やる時はやるじゃん」
言い方は照れ隠し、顔は少しむずがゆい。冷たい目もゼロじゃない。落書きできそうな机の空きスペースは、まだある。
それでも、完全な笑い者ではなくなった。教室の温度が一度上がるだけで、胸の重さは半分くらい軽くなる。世界はたぶん、そうやって回る。
ホームルームのあと、蓮が教室のドアに立った。
「春斗。生徒会室に来い。君のためだ」
「その言い方、だいたい悪役が使うやつだぞ」
「悪役はもっと長く喋る。僕は短く済ます」
短いのは正しい。疑いながらも、春斗は立ち上がる。芽衣が肩に飛びついてきて、「取材取材」と言いながら一緒に来る気満々だ。雪乃は筆箱をそっと閉め、当たり前のように並んで歩いた。
四人で廊下を行く。窓の向こうの運動場には、昨日の旗の金具がまだ一つ残っていて、風に小さく鳴っていた。
生徒会室は広かった。長い机、壁際の本棚には過去の記録がどっさり。窓は大きく、校庭と時計塔がよく見える。磨かれた床が、少しだけ緊張を呼ぶ。
蓮は白い紙を広げ、黒いペンを指に転がしながら言った。
「安全のためのテストだ。危ないことはしない。昨日の件で、先生たちも気にしている。形式は簡単。僕が記録する。先生の立ち会いもあとで入る予定だ」
「テストって言われるだけで、膝に住んでる正直者が暴れだすんだが」
「正直者には座っていてもらえ。立つのは君だ」
芽衣が机に身を乗り出す。
「ねえ、これ、取材して壁新聞にしていい? タイトルは『ゼロくんのゼロじゃないとこ特集』」
「語彙のセンスを鍛えような」
雪乃は黙って水筒を差し出した。蓮は一礼して、白い紙に最初の欄を書き込む。
最初は体力測定。握力、反復横跳び、短いダッシュ。
結果は、だいたい平均より少し下。数字はたいしたことない。
「記録、普通。跳躍、控えめ。走力、向上余地大」
「その控えめ、ってやつ、褒め言葉に聞こえる方法ない?」
「控えめは美徳だ」
「体育で?」
「人間として」
蓮は淡々と記録を進める。淡々としているのに、見落としがない。淡々の中に熱がある。だから彼は頼れる。
次は反応を見るテスト。
柔らかいボールをさまざまな角度から投げてもらい、キャッチする。
春斗は、不器用ながらも全部取った。やればできる。やらないとできない。
芽衣が柵を叩いて応援する。
「集中すればできるよ! あと、最後に見せ場を作ると漫画っぽい!」
「最後に落としたくなるだろそれ」
雪乃は静かに見守っている。目で「大丈夫」と言い、口では何も言わない。その無言が、余分な力を抜いてくれる。
そして本題。
蓮は紙を伏せ、少しだけ真顔の温度を下げた。
「先生の許可を取ってある。弱い、影のような刺激を三回、順に当てる。危なくはない。ただの確認だ」
「ただの確認って言葉、魔法のシールだよな。何にでも貼れる」
「貼る。貼って進める」
蓮が指を鳴らす。空気の端に、薄い影が生まれ、春斗の胸元を軽く叩いた。
ほんのわずかよろける。痛くはない。でも、胸の奥がざわつく。またあの「何もできない」が出てきそうになる。二回目は横から。よけられず、肩に触れて消えた。三回目、わずかに避けたが、完全ではない。
蓮はメモにさらさらと書く。
「ふむ。普通だな」
「普通って、こうも複雑な気持ちにさせる言葉だったか」
「普通は高い山だ。登り切れば、向こうに別の山が見える」
「詩人が喋り始めた」
蓮は顔を上げ、紙をめくる。
「次。同じ刺激を、雪乃さんに“向けるふり”をする。絶対に当てない。あくまで向きだけだ。先生、目視で確認を」
扉の向こうから、小さくノックがあり、教務の先生が入ってきた。腕を組んで、眉を上げる。
「危ないことはなしだ。記録は後で見せろ」
「了解です」
蓮が視線だけで合図を送る。
雪乃のほうに、影が向いた瞬間——
春斗の体が、勝手に前へ出た。
頭より先に、胸が。胸より先に、手が。
腕が上がる。空気がすっと冷え、見えない薄い板が目と目の間にできる。
影はそこで止まり、すぐに消えた。
教務の先生が思わず口笛を飲み込む音がした。
蓮の目が、少しだけ大きくなる。
「やはり……“守る時だけ”だ」
もう一度。今度は芽衣に向けるふり。
春斗の体は、さっきより半拍遅れた。薄い板は生まれかけで消える。刺激は当たらない。ふりだから。けれど、反応の速さの違いは、紙よりはっきりしていた。
蓮が首をかしげる。
「雪乃さんの時のほうが、反応が速い」
「ズルい!」
芽衣が即座に抗議して、すぐ笑う。雪乃は頬を赤らめ、目を伏せた。春斗は何を言えばいいのかわからず、耳だけが熱くなる。
教務の先生が咳払いひとつ。
「記録、続けなさい。私は廊下で見てる」
音もなく扉が閉まった。
テストの最後に、蓮は結果を短くまとめた。
「結論。春斗は、誰かを守るときにだけ力が働く。しかも、強く守りたい相手ほど反応が速い。攻める力は今のところゼロ。動きは遅い。体の使い方も未熟」
ずばずばと切られる。肩が自然とすくむ。けれど続いた言葉は、予想の線の外にあった。
「だからこそ、伸びしろがある。基礎をやれば、守る範囲を広げられる。反応を“待つ”のではなく、“決めて”から動く練習をする」
「決めてから、動く」
「そう。対象を、先に置け。具体的に、細かく」
蓮のペンが紙に四角を描き、その四角が少しずれて重なる。
「自分、仲間、物、場所、時間。守る対象はいくつもある。君は今、目の前の“誰か”しか見えていない。視野を増やせ」
芽衣が手を挙げる。
「はい先生! 守る対象に『おやつ』は含まれますか」
「含まれない」
「じゃあ『おやつの時間』は」
「時間は、場合によっては」
「やった」
ふざけ半分、でも少し本気。笑いが緊張の余白をつくる。
雪乃が、静かに手を上げた。
「春斗くんへの攻撃を止める練習も、させてください。私にもできることがあるはず」
蓮は即答でうなずく。
「放課後、訓練場でやろう。芽衣、先生にも連絡して」
「任せて! ついでにおやつも用意する?」
「しない」
「じゃあ飲み物」
「水だけ」
「水、最高!」
そのときだった。
生徒会室の扉の下から、するりと黒い封筒が差し込まれた。
床に落ちるまでの時間がやけに長く感じるのは、心が先に落ちるからだ。
蓮が拾い上げ、手袋なんて持ってないくせに手袋のない指で器用に開く。
中の紙には、短い文。
雪乃を外に出せ。渡すものがある。
インクは濃く、筆圧は浅い。あの黒いコートの目が、文字の端にまでひそんでいる気がした。
蓮は目を細めた。
「これは、挑発だ。罠に決まっている」
春斗は封筒を握る手に力を入れ、即答した。
「俺が一緒に行く」
「危ない」
雪乃が思わず言う。その声は、薄い氷の音をしていた。
春斗は首を横に振る。
「危ないから行く。ひとりで怖い思いをさせない。俺の力、守る時しか動かないんだ。だったら、守る時にいさせてくれ」
蓮は短く息を吐く。
「先生に連絡を入れる。大人が近くで見守る体制にしてからだ。勝手に動けば、次から何もさせてもらえない」
「わかった」
「僕も行く。芽衣は連絡と偵察。無理はするな。合言葉は?」
芽衣が勢いよく手を挙げる。
「安全第一!」
「それは先生のやつだ」
「じゃあ、『逃げるが勝ち』」
「いい言葉だ」
蓮が珍しくほほ笑んだ。戦うために、逃げる道を先に作っておくこと。そういうやつは、強い。
放課後。
訓練場で短い練習を挟む。蓮が作った簡易の木柱と、小さな的。
春斗は、的の前に立つ雪乃の背中を意識に置きながら、距離と角度を決めて“板”をつくる。
「守る対象、言葉にして」
蓮の指示に従い、春斗は短く言う。
「雪乃の背中」
薄い板が、言葉のぶんだけ速く出る。
「次」
「芽衣の頭の上」
板が、ふわっと高い位置に生まれる。芽衣が背伸びして、指でつついて笑う。
「自分の足」
板は、遅い。遅いが、出る。
蓮が満足げにうなずく。
「言葉は地図になる」
「名言出ました」
「名言は出すものではなく、たまたま出るものだ」
「出しちゃったな」
息を整え、道具を片づける。
行き先は、封筒に書かれていた場所——学園から歩いて十五分ほどの、古い歴史館。石の壁は夕暮れで赤く染まり、窓の格子が長い影を芝生の上に落としている。屋根の上には古い銅像。鳥が一羽だけ止まって、首だけこちらを向けた。
蓮は先に先生へ連絡を入れ、大人が近くで見守る段取りをつけた。見える場所にはいない。けれど、確かにいる。逃げ道の先に、灯りがある。
歴史館の前に立つ。扉は閉じている。
春斗は深呼吸して、雪乃の横に立った。
「行こう」
雪乃は小さくうなずく。
ふたりの影が、夕日の斜めで長く伸びる。
蓮は少し離れた植え込みの陰に入り、芽衣は外周の道をゆっくり周りながら、目と耳を働かせる。
石段に、足音が三つ。
扉の向こうから、ひと呼吸の間を置いて、鍵のない音がした。
金属が擦れたわけでも、魔法が鳴ったわけでもない。ただ、古い建物が息をするみたいな、低い音。
春斗は胸の前に手を上げ、言った。
「守る対象、決める」
自分に向けて。
「雪乃の右肩。雪乃の左手。自分の心臓。扉の前、一歩」
見えない板が、音もなく、順に生まれた。
雪乃が横で小さく息を吸い、ペンダントをリボンの下から握る。指の間で銀色が冷たく鳴る。
扉が、きしむ。
歴史館の内側から、夕陽より暗い空気が流れ出す。
春斗は一歩、前に出た。
怖さはある。膝の奥が固い。けれど、それより先に、やることがある。
守る時だけ強い。
だったら今を、守る時にする。
入る直前、芽衣の声が風に乗って届いた。
「合言葉は?」
「逃げるが勝ち!」
「よろしい!」
笑いが一つ混ざって、緊張の輪郭をやわらかくする。
春斗は頷き、雪乃と肩を並べ、蓮の視線を背中に感じながら、扉の向こうへ足を踏み入れた。
中は、冷たい。
古い石の匂い。展示室へ続く廊下のガラスに、三人の姿が細く伸びる。
最初の角を曲がった、その先で——
黒いコートが、待っていた。
光の届かない影の中で、目だけが静かに怒っていた。
彼は言った。
「渡すものは、君たちの“返事”だ」
春斗は、静かに首を横に振った。
「返事は、一つじゃない」
胸の前の目に見えない板が、呼吸に合わせてわずかに揺れた。
――テストの続きは、ここからだ。




