第3話 雪乃のひみつ
噂はたいてい、授業の合間に生まれて、帰りの会にはもう育ちきっている。
数日経った頃、聖リアナ学園の空気に、ひやりとした色が混ざった。教科書の紙がめくれる音に紛れて、ひそひそと聞こえる。
雪乃は昔、魔法事件の被害者だったらしい。
家が燃えた、とか。
町を出た理由は、それ、とか。
言葉の最後の「とか」は便利だ。責任を持たないまま、刺さるだけ刺さる。春斗はその「とか」を何度も耳にし、そのたびに胸の表面がざわざわと泡立って、落ち着かなくなった。噂は、彼女の隣で笑っている自分の心にも、薄い煤を付けていく。
当の雪乃は、いつも通りだ。授業で指されたらきれいに答え、笑うときは柔らかく笑う。ただ、その笑顔の端に、ほんのわずかな癖が生まれた。口角が上がるより、少しだけ先に視線が逃げる。笑いが、心の奥まで届く前に止まるようになった。
昼休み、芽衣が机をぐいと寄せてきた。背が小さくて声がよく通る、クラスのエンジンみたいな子だ。何でも友達で、何でも敵のような調子で、嘘はつかないし盛るのは得意。
「ねえ春斗。雪乃ちゃんの周りに変なのいるよ。黒いコートの人。毎日見てる。こわ」
「黒いコートって、具体的にどう黒いんだ。濃い目の紺とかじゃなくて、ほんとに黒?」
「夜みたいな黒。素材はわからない。高そう。いや、安いかも。遠すぎてわかんない」
「遠くから見てる時点で怪しいけど、素材の推理は今じゃないな」
「とにかく、いる。校門の外とか、時計塔の影とか。ひょいって消えるの。忍者かな」
「忍者はこの国の文化じゃない」
「じゃあ忍者みたいな人。とにかく、雪乃ちゃんを見てる」
芽衣は、パンを二つに割って一つを春斗に押しつけた。いらないと言う前に手が受け取ってしまうやつ。甘いクリームがはみ出している。
「春斗。気をつけなよ。君、最近よく一緒にいるじゃん。恋の噂が流れるよ」
「それは黒いコートより怖い噂だ」
冗談を返して笑ったけれど、内心は引っかかった。芽衣の「いる」は、意外と当たることが多い。たぶん背が低いぶん、目線が違って、小さな気配に気づくのだろう。夕方、春斗は半分信じて、半分笑っていた。
そして、その夜、見てしまった。
自習室での補習を終えて、寮へ戻るため校門を出たとき、石造りの門柱の影に、人影が立っていた。黒いコート。フードは深く、顔は見えない。身長は自分より少し高いくらい。肩幅は広くない。風でコートの裾が鳴った。こちらを、見ている。雪乃の帰る方向を、じっと。
振り返ると、雪乃は寮への道を歩いていた。相変わらず背筋が伸びて、風に髪だけが揺れる。彼女の足音と、黒い影の静けさ。その間に春斗が挟まれている。位置関係の妙な真ん中。
声をかけようか迷った一拍の後、影は門柱に吸い込まれるみたいに消えた。いや、あれはただ角を曲がっただけだ。けれど角の先は壁だ。吸い込まれるみたい、という表現を選ぶしかなかった。
つまり、芽衣は忍者と言っていたけど、ちょっとだけ正しかった。
翌朝。教室がざわつく前に、春斗は雪乃に声をかけた。
「最近、誰かにつけられてる?」
雪乃の長い睫が、一度だけ大きく瞬いた。驚いて、すぐ戻す感じ。
「気にしないで。大丈夫」
彼女の「大丈夫」は、いつだって丁寧だ。角がない。心配を跳ね返すためじゃなく、包むための言い方。でも、その声が朝の空気より少し震えていたのを、春斗は聞き逃さなかった。
授業が始まり、終わり、次のチャイムが鳴った。春斗は自分の机に戻る途中、廊下ですれ違った雪乃の足元で、白いものがひらりと落ちるのを見た。
下駄箱から滑り出た、封筒。
差出人はなし。封は雑に貼ってある。開けていいですと言ってるみたいに、隙間がある。雪乃は拾って、ほんのわずか迷った顔をした後、封を切った。中には紙が一枚だけ。四文字。
鍵を渡せ。
たったそれだけ。でも、脳の奥の冷たい部分を、ひゅっと撫でていく。
「これ、どういう意味?」
春斗の声は、思ったより低く出た。雪乃は春斗を見ないで、紙を折りたたんだ。何度も何度も折って、小さな四角にしてしまう。
「ごめん。ちょっと、風に当たってくる」
雪乃は下駄箱に上履きを押し込む勢いで閉めて、そのまま階段を上りはじめた。向かう先は、屋上だ。春斗は、とっさに後を追う。踊り場で芽衣に「どうしたの」と肩を掴まれ、「後で」と言い残す。芽衣は目を丸くしたが、何も聞かず手を離してくれた。
屋上は、風が強かった。フェンスが高く空が近い。雲が薄く伸びて、街を上から撫でている。雪乃はフェンスに手を掛け、空を見上げていた。制服のリボンが風に鳴って、彼女の横顔に影が揺れた。
「ねえ春斗くん」
名前を呼ばれると、胸の中に何かが素直に立つ感じがする。自分の背骨が確認できるような、変な気持ち。
「人って、守られるだけじゃ、ダメなのかな」
春斗は少し考えて、それから、考えるのをやめた。こういうときに正しい言葉を探すと、たいてい遅くなる。遅い言葉には力がない。
「そんなことないと思う。誰かを守りたいって思うのも、同じくらい強いことだと思う。守られる側がいるから、守る側が意味を持つし」
「意味」
「うん。俺、昨日、蓮に言ったんだ。勝てなくてもいい。守れれば、それでいいって。笑われたけど」
「笑ってなかった。蓮は、ああ見えて、心の内側で笑うのが下手」
「褒めてる?」
「半分だけ」
雪乃の口元が少しゆるんだ。風で髪が頬に流れ、春斗の頬にふれる。びっくりするほど冷たい。彼女は、目を伏せて言う。
「もし、私が、守られるばかりの人間だったら、君はがっかりする?」
「しない。がっかりするのは、勝手に決めつけられたとき。君が自分で決めるなら、俺はそれを手伝う。それでいい?」
しばらく沈黙。風と遠くのチャイムの音だけが会話を続けてくれる。雪乃のまつげが震え、やがて小さくうなずいた。
「……ありがとう」
その言い方は、まるで謝っているみたいにも聞こえた。春斗は、屋上の床の汚れをつま先でこすりながら、もう一歩だけ踏み込む。
「さっきの手紙。鍵って、何のこと?」
雪乃は、手の中の小さな四角を見た。折って固くなった紙。彼女はそれをポケットにしまい、代わりに胸元のリボンの下へ指を入れた。薄い金属の音がして、小さなペンダントが姿を見せる。円い。古い銀色。蓋に、見たことのない紋が彫られている。
「鍵じゃないけど、鍵に見えるもの。昔から持っている。家の火事のとき、これだけは私の首に残ってた。どこかの鍵だと、みんな言う。でも私には、ただの形」
「開けたことは?」
「ない。開け方がわからないから」
「鍵穴がないのに鍵って、名乗り得じゃない?」
「そうだね。名乗り得」
雪乃は、ペンダントを指の腹でそっと撫でた。触れるたび、金属が風の音に混ざって小さく鳴る。春斗はそれを見ながら、昨日の夜の黒い影を思い出していた。門柱の影で立っていた人。雪乃の帰る方向を見ていた目。
「誰かが、これを欲しがっている。たぶん、その人が手紙を入れた」
「先生に言おう」
「言ってもいい。でも、証拠がない。先生は動けない。動いてくれるとしても、動ききれない」
「じゃあ蓮に。生徒会、こういうの好きそう」
「好きなの?」
「正義の味方ごっこ」
「それ、蓮に直接言ってみて」
「やめておく」
二人で笑った。屋上の笑いは、空に吸い込まれて軽くなる。笑いは軽いほうが移動距離が伸びるのかもしれない。春斗は息を吸い、まじめに言った。
「渡しちゃダメだ。知らない相手に。何の鍵かもわからないものを、渡しちゃダメだ」
「渡さない」
即答だった。その強さに、春斗は少し安心する。けれど雪乃は続けた。
「でも、来る。渡しなさいって、きっとまた来る。そのとき、どう断ればいいのかわからない。私、うまく断るのが苦手」
「断るのが苦手なら、断る係を用意する」
「断る係」
「俺」
即答した自分に、こちらが驚いた。口が先に走る癖は、たぶん治らない。けれど、走ってよかったと思った。雪乃は目を丸くして、すぐにふっと笑った。
「頼もしい。守られるだけじゃなくて、守ってもいい?」
「いいに決まってる。持ちつ持たれつってやつ。片方だけだと腕が疲れる」
「じゃあ、持つ腕と持たれる腕を、交代で」
「交代制。シフト組もう」
「シフト表は君が作って」
「そこは蓮に」
また笑う。笑いの中に緊張の糸が少し混ざっているのを、お互いわかっていながら見ないふりをした。屋上から見下ろす学園の敷地。そのさらに外、石畳の通りと露店の布屋根。その上の屋根。時計塔のバルコニー。その影。
黒い影が、そこにいた。小さな点。だけど、目だけは妙に大きく感じられた。こちらを見ている。雪乃を見ている。遠さのせいで顔は見えないのに、目だけが届く。届いて、こちらの胸に静かな怒りの跡を残す。
春斗は、フェンスから手を離した。
「行こう。下に」
「うん」
二人で階段を降りる。踊り場の窓から見えるバルコニーには、もう誰もいなかった。忍者は影を選ぶのが早い。
それからの午後は、疲れるほど普通だった。小テストにため息をつき、体育の時間にボールを顔で受けそうになり、音楽で歌えない音をみんなで外して笑った。芽衣は休み時間に駆け寄ってきて、小声で「屋上どうだった」と聞き、春斗は「風、けっこう強い」とだけ答えた。芽衣はにやっとして、「強風は髪に悪い。雪乃ちゃんにヘアゴムを三つ渡すべき」と真顔で言った。
「三つの根拠は」
「かわいいから」
根拠が根拠になっていないのに、納得させる強さが芽衣にはある。春斗は笑って、ヘアゴムを買うのを頭の片隅にメモした。こういう片隅のメモは、のちのち役に立つ。たぶん。
放課後、下駄箱の前に人だかりができていた。何かあったのかと近づくと、また白い封筒。今度は雪乃のではない。別の生徒の下駄箱に、同じ手の字で「鍵を渡せ」。ざわめきが広がる。ちょっとした遊びに見せかけた悪意。誰にでも届く可能性のある脅し方。広く、浅く、怖い。
蓮が人だかりをかき分けて出てきた。封筒を見て、目だけが少し細くなる。
「先生に回す」
「いや、俺、さっき先生のところ行ったけど、いなくて」
「いる場所はだいたい知っている」
言い方はいつもどおりの淡白。けれど、袖口は少しだけ揺れていた。蓮の揺れは珍しい。春斗は迷って、やめたかったけれど、やめずに言った。
「蓮。正義の味方ごっこ、頼む」
「ごっこではない」
「じゃあ本気で」
「本気なら、頼むと言い直せ」
春斗はうなずいた。
「頼む」
蓮の目が、すっと晴れた。こんなふうに晴れるのかと驚くほど素直に。
「任せろ」
その一言は、妙に頼もしく響いた。生徒会の腕章は伊達ではない。蓮は封筒を持って教員棟へ消えていった。通りすがりに、何かが春斗の肩に落ちる。芽衣だ。いつの間にか背後にいて、ぽんと肩を叩いた。
「よしよし。君は、よくやった」
「何を」
「頼った。えらい」
芽衣は、小さな拳を春斗の胸の前で握って見せる。気合の拳。小さすぎて、逆に効く。春斗は苦笑して、雪乃のほうを見る。雪乃は少し離れたところで、ペンダントをリボンの下に隠し直していた。視線が合う。彼女は、小さく頷いた。大丈夫、の頷き。今度の大丈夫は、昨日より少しだけ芯が通っている。
寮へ戻る道。夕暮れが街の上でほどけ、灯りが一つずつ点いた。露店のおじさんが布をしまう音、猫が塀を歩く音、人々の話し声。普通の音たち。春斗は、その普通の中に、異物の音が混じらないか耳を澄ませながら歩いた。
寮の玄関前で、また黒い影を見た。門の外。こちらを見ている。今度は、はっきりと目が合った気がした。距離のせいじゃない。視線というのは、不思議と距離を越える。
「おい」
春斗は自分でも驚くくらい大きな声を出した。影は動かない。雪乃の肩が、ほんの少しだけ揺れる。春斗は一歩、外へ出る。寮の管理人の視線が背中に刺さるのを感じる。外の人に関わるな、という暗黙のルール。だが今の自分には、守る対象がある。ルールより先に、体が動く。
「雪乃を、何だと思ってる」
影は、首を少し傾げた。それから、低い声が落ちた。
「鍵を持つもの」
「鍵を渡せば、どうする」
「開ける」
「何を」
影は答えない。代わりに、足元の石畳がわずかに鳴った。近づく気配。春斗は背後に手を伸ばして、雪乃の肩を見ずに探り、そこに触れないぎりぎりのところで止めた。触れないのは、彼女が望まないかもしれないから。でも、近くに手があるだけで、体は動きやすくなる。
「渡さない」
雪乃が言った。春斗と影の間に、静かな声が落ちる。
「そうか」
影は一歩、下がった。風がコートの裾を大きくふくらませ、次の瞬間、門柱の影の中に溶けた。やはり、吸い込まれる。彼が去ったあと、夜の空気が少し軽くなった。春斗は、そこでようやく息を吐いた。肺がびっくりして咳がひとつ出た。
「ごめん。勝手に出てきた」
「ありがとう。勝手で、助かった」
二人は、寮の中に入った。管理人に軽く頭を下げ、階段を上る。廊下の電灯は少しちらつく。誰かが廊下の端で小さなトランプを並べていて、集中しすぎて気づかない。その普通の光景が、やけに愛おしかった。
部屋に戻ると、先輩がいた。相変わらず机に肘をついて、古い本を読んでいる。顔を上げずに言う。
「廊下、声が響いたな。青春だ」
「聞こえてました?」
「耳がいい。恋バナは糖分。夕飯前にはちょうどいい」
「恋バナじゃないです」
「じゃあ何バナだ」
「鍵バナ」
「それは塩分強めだな」
先輩は笑って、本を閉じた。しばらく黙って、春斗の手の包帯を見つける。
「練習、無理すんなよ。守る相手がいないと動かないなら、守る相手をいつでも用意しとけ。例えば、明日の自分とか」
「明日の自分は、無茶振りに弱いです」
「じゃあ、俺の分も守れ」
「先輩は自分で守れそうですけど」
「守ってもらうときもある」
先輩は窓を開けた。夜風が入り、カーテンが少し踊る。遠くで鐘が鳴った。時計塔のやつだ。音が四つ。窓の外、塔のバルコニーに人影はない。けれど、音の余韻の中に、見えない視線の尾を感じた。
ベッドに倒れ、天井を見つめる。今日一日の映像が、頭の中で早送りと巻き戻しを繰り返す。屋上の風、封筒の白、雪乃の髪の冷たさ、芽衣の拳、蓮の任せろ、黒い影の答えない目。胸の中では、小さな火がまだ消えずにいる。燃えるほどではない。けれど、指先を温めるくらいの、ちょうどいい強さ。
眠りにつく前、春斗は思った。守られることと、守ること。どちらか一方じゃ、きっと足りない。交代制で、シフトを組んで、上手にやる。そういうのが、自分たちらしい気がした。
夢を見た。崩れた塔の下で、雪乃が立っている。背中の影は、昨日よりさらに薄い。春斗は近づく。足場が悪いのに、さっきよりもまっすぐに歩ける。彼女が胸元のペンダントに触れた。銀色の蓋に、ひと筋の光が走る。鍵穴じゃない。けれど、光はそこに引っかかって、音もしない音で、何かを告げた。
目が覚めると、窓の外は青かった。朝の青。鳥の鳴き声が遠くから届く。包帯を締め直し、手を握る。今日も守る対象がある。今日の自分。隣の誰か。半分の梅干し。白い封筒。黒いコート。全部まとめて、守る範囲を自分で決める。
食堂へ向かう途中、芽衣が角から飛び出してきて、勢い余って春斗にぶつかりそうになった。反射で手が伸びる。触れる前に、目の前で柔らかい光がふっとひらいて、芽衣の額の前に落ちてきた掲示板の紙をそらした。紙は床に舞い、芽衣は目をぱちぱちさせる。
「今の、なに。便利」
「便利ボタン」
「それ、私のテストにもつけて」
「それは不正」
二人で笑って歩く。廊下の向こうで雪乃が待っていた。今日のリボンは、いつもより固く結ばれている。彼女は春斗の包帯を見て、目だけで問い、春斗はうなずいた。大丈夫。頼る。任せる。断るときは、二人で。
学園の鐘が鳴る。朝の音は、昨日より少し澄んでいた。黒い影は、今日もどこかにいるだろう。屋根の上か、門の外か。見えない怒りの目を、こちらに向けているかもしれない。
それでも春斗は、席に座り、ノートを開いた。先生の字は、やっぱりきれいだ。黒板の白い線が並ぶ。噂は今日も流れるかもしれない。封筒はまた見つかるかもしれない。けれど、守る範囲は決めた。守るときだけ強い。それなら、守るときだらけにしてやればいい。
授業の最初のページに、小さく書く。
守る係。交代制。まずは俺。
雪乃が斜め前で、少しだけ窓の外を見た。フェンス越しの空は高い。彼女の横顔に、昨日より濃い影が落ちて、すぐに消えた。影が薄れるのは、きっと光が増えたからだ。光は、こっち側にもある。胸の中の、指先を温める火。手のひらの、柔らかい光。
鐘が止み、授業が始まる。春斗は、顔を上げた。続きを、始めよう。




