第26話 英雄(ヒーロー)の定義
翌日。
街は、嘘みたいに静かだった。ガラスを拭く音、パン屋から洩れる甘い匂い、横断歩道で手をつなぐ親子の笑い声。昨日まで世界を覆っていた黒い雲は割れ、空は薄い水色を広げている。なのに、誰もがときどき空の奥を見上げた。そこに、墨のしみのような影が浮かんでいるからだ。——“ノア”の母艦。何もしていないのに、存在だけで心拍を一つずらす巨大な異物。
蓮が無線機に耳を当て、短く言った。
「偵察が確認。明日には再突入する。今夜のうちに街の電源と避難経路を切り替えるらしい」
「戦えるの、俺たちしかいねぇんだな」春斗は笑ってみせる。ひびの入った笑い。
雪乃は、空を射抜くように細めた瞳を、春斗へ戻した。「でも、もう怖くない。……春斗くんがいるから」
「頼もしいな」照れ隠しで視線をそらすと、芽衣がにやにやして肘でつついてくる。
「はいはい、そういうのは勝ってから堂々とやれ。縁起ってもんがある」
夜。学園の屋上。
手すりに並ぶ四つの影。街の灯りは控えめで、風がページをめくるように髪を揺らした。
芽衣が持ち込んだ簡易ホログラムが、空中に白い図面を浮かべる。「これが母艦の概略。エネルギー炉心は中心球体。防御層は三重、外皮・循環層・中枢隔壁。外周に干渉してる間に、誰かが中枢へ」
「俺と芽衣が外周で時間を稼ぐ」蓮が即答する。「春斗と雪乃は中枢。昨日の“空気の形”を最大まで引き延ばして入れ。——怖がるな、じゃない。怖がったまま踏み込め」
雪乃は頷いた。「最後まで、一緒に」
春斗は拳を握る。胸の奥で、あの声がまだ温かい。
「もう誰も犠牲にしない」
翌朝。
黒雲が裂け、母艦が降りてきた。雲の裏地を剥いだみたいな体躯。腹に走る筋が光り、風が地表を走る。信号が黄色で固まり、カラスがいっせいに飛ぶ。街は息を呑み、四人は走った。
降下波が道路標識をしならせ、バス停の屋根を鳴らす。芽衣のドローンが砂利を巻き上げ、風の筋を切り裂いて隙を作る。春斗と雪乃はその裂け目を滑り込み、蓮は風の縁を踏んで跳ぶ。母艦の白い腹面に、口のような通路。警報が鳴り、白い通路が赤を吸う。
「侵入確認。隔壁閉鎖まで二十秒」芽衣の声が耳元で跳ねた。
「二十もいらねぇ」蓮が前に出る。
敵の兵器が通路の脇からせり出す。銃口が咲き、音と光が突く。春斗は壁——いや、幕を張る。薄いのに強い、空気の形。弾丸が音を残してはじけ、床に転がる。雪乃の氷が敵の足元をつかみ、蓮の剣が影を斬る。
「炉心ルート、あと二百!」芽衣。
「行くぞ!」春斗の声に、三人の呼吸が重なる。
最深部。
白銀のドームの中心に、青く脈打つ球体が浮かんでいた。水と電気をいっしょに丸めて光にしたみたいな心臓。近づくだけで皮膚がざわつく。
「これが……“方舟の心臓”」雪乃の囁きが、広い空間で小さく響く。
「触れたら終わる、のは向こうの理屈だ。触れるために来たんだ、俺たちは」蓮が剣を下段に構えた。
その時、影が一つ、光の縁から切り出された。フードの男——“ノア”の指揮官。声は昨日と同じ、落ち着いたやさしさ。
「人は弱い。だから神が必要だ。恐怖を調律し、怒りを燃料にし、迷いを切り離す。そうすれば世界は軽くなる」
春斗は首を振る。「違う。弱いから、つながるんだ。迷いごと手を取るから、重くても折れない」
指揮官は掌を返し、黒い光を広げた。床が爆ぜ、空気が引き抜かれ、四人は散り散りに弾かれる。雪乃が転がり、肩を打つ。蓮が片膝で止まり、芽衣は計器を庇って身を丸めた。
「雪乃!」春斗は駆け寄る。
「平気」雪乃は苦笑し、指先で春斗の胸に触れた。震えが、触れたところから少し整う。「信じてるから」
たったそれだけの重みが、心の底のスイッチを押した。
視界が高鳴りの白に染まる。
春斗の背中から、幕がひろがった。圧に合わせて形を変え、衝突の角度をずらし、衝撃を床へ流す。守るために、前へ出る。前へ出るために、守る。
「これは俺一人の壁じゃない。——“みんなの盾”だ!」
ドーム全体を包むほどの結界に、黒い光がぶつかる。衝撃が波になって走る。蓮がその波の谷間に身体を滑らせ、芯へ踏み込む。芽衣の声が弾む。「街のエネルギーライン、安定! 春斗の幕が逆流を食い止めてる!」
雪乃が両手を胸の前で組み、ペンダントの紋を薄く光らせた。「冷たくしない守り方、やっと形になった。——止まりなさい」
氷じゃない、透明の“静止”が、敵の攻撃の輪郭を一瞬止める。そこへ蓮の刃が落ちる。
「終わりだあああああッ!」
刃が黒と青の境目を割り、ドームの光が砕けた。
静寂。
青い球体は霧になって消え、機械の心臓が空回りを止める。警報が遅れて鳴り出し、すぐに死んだ。床の振動が落ち着く。
春斗はゆっくり膝をついた。幕をたたむと、肩が自分の重さを思い出す。
雪乃が抱きとめる。「ねぇ、春斗くん……もう、ヒーローだよ」
「俺は……たぶん、まだ半分。——でも」春斗は空を見上げて笑った。「俺たち全員が、だ」
通路の向こうから人の声が近づく。避難していた船内の技術者たちが、顔を出してこちらを見た。薄い白衣の人、油の染みた手袋の人、おそるおそる手を振る若い男の子。誰もが怯えと安堵のちょうど真ん中に立っている。その目に、春斗の幕の名残が映る。
蓮と芽衣が駆け寄る。芽衣は満面の笑みで親指を立て、すぐ泣き笑いに変わった。
「“盾男”卒業だな。こりゃ“英雄”だ」蓮が肩で笑う。
「ダサくないか、それ?」
「俺が言うとダサい。お前らが言うと、案外悪くない」
三人で笑った。笑い声は、広い空間でも意外と遠くまで届いた。
——その時、視界の端で黒い羽がひらりと落ちた。
ゆっくり、まるで誰かの手紙みたいに、春斗の足元に。拾い上げると、軽いのに、冷たい。背筋を小さく撫でていく気配。
耳の奥で、聞き覚えのある静かな声がした。
「終わりは、始まりのかたちをしている」
黒薔薇のボスの残響か、それとも——。春斗は羽を見つめ、胸の奥で一度だけ息を固めた。
雪乃が春斗の横顔をのぞきこむ。「どうしたの?」
「いや。……帰ったら、話す」
蓮が周囲を見渡す。「母艦の自爆はない。外殻の推進だけ切り離されて、空は晴れる」
芽衣が端末を打ち、「街の電気、順次復帰。避難の人、帰宅開始。……やった。ほんとうに、やったよ」
外へ出ると、空は嘘みたいに澄んでいた。
雲の向こうから太陽が覗き、瓦屋根を一枚ずつ撫でる。昨日まで濁っていた風が、洗い立ての布みたいに軽い。遠くの広場から、かすかに拍手が波のように届く。
母艦の残骸は風に乗って散り、黒い影は小舟になって空の端で沈んだ。
春斗は肩に手を置かれる感触に振り向いた。
屋上で見かけた白髪の男——古い鞄の、あの人が、そこにいた。いつの間にか。
「きれいに守ったな」男は言った。声は低く、よく通る。「空気の形。いい名はないが、いい仕事だ」
「あなたは——」
「昔、似たような子どもを見た。前へ出るための盾を覚えて、そして、ちゃんと笑って降りてきた」男は目尻だけで笑い、春斗の後ろの三人へ視線を滑らせる。「君たちが彼の“定義”を支えた。忘れるな。ヒーローは単体で成立しない」
蓮が一歩前に出る。「あんた、何者だ」
「街の古い教師、で十分さ」男は鞄を肩に掛け直した。「礼を言うのはこっちだ。——帰んな。今日の英雄には、帰る場所が必要だ」
それだけ言って、男は風に紛れた。足音は軽く、影は薄い。けれどあの二本指の合図が、春斗の肩の筋肉に、ちゃんと残っている。
階段を降りながら、芽衣がくるりと一回転した。「打ち上げ、どうする? シェイク二種に、ポテト山盛りと、あと——」
「甘い匂いの未来を並べるな」蓮が呆れながらも笑っている。
雪乃が春斗の袖をそっとつまむ。「ねぇ、帰り道、手、つないでいい?」
「いつでも」
握った手は、重くないのに、背中を支える。足取りが自然とそろう。
人混みの隙間から、昨日の避難所で会った少女がこちらを見て、小さく手を振った。春斗も振り返す。ああこういうのを、守りたいと言うのだ。強い言葉じゃなく、生活の匂いのする光。
広場に出ると、拍手の輪がほどけていった。誰かが写真を撮ろうとして、でもやめて、頭を下げた。「ありがとう」の口の形だけが、何度も空にあがる。
春斗は胸の中で、そっと言葉を探した。
——英雄って、なんだ。
怪力じゃない。選ばれもしない。才能は、いまだにゼロのままかもしれない。
でも、昨日の自分より半歩前に出る力。転んだら、誰かの手を取って立つ勇気。誰かが泣くのを、今日は一回減らすぞっていう意地。
その全部を、かっこつけずに積み上げること。
それを、ここでは“英雄”って呼ぶのかもしれない。
蓮が肩を組んでくる。「定義できた顔だな」
「うるせぇ」
「言ってみろよ」
「……じゃあ、一言だけ」春斗は空を見上げた。昨日の黒は消えて、ただの青が広がっている。「英雄は、“一人で立つやつ”じゃない。“みんなで立たせるやつ”。今日の俺も、そうだった」
蓮は満足げに頷き、芽衣は拍手した。「満点の答案。花丸つけたる」
雪乃は微笑み、春斗の手をぎゅっと握った。「その定義、好き」
風が吹く。四人の影が、夏の始まりをまたいで長く伸びた。
「さあ、帰ろう。俺たちの街へ」
春斗が言うと、三人の笑顔がそろって頷いた。足音が同じリズムを刻む。街角でパンの袋を抱えるおばあさんが、道を空けてくれた。「ありがとう」と言う。こちらこそ、と春斗は心の中で返す。
迷わない。
守る理由は、もう、ここにある。
空の高みに、黒い羽が一枚、気まぐれに揺れて、陽に透けた。
終わりは、いつだって始まりのかたちをしている。
だから歩く。
今日の英雄は、明日の“ただの生徒”でいい。部活に遅れないように走り、テスト範囲に泣き、屋上でくだらないことで笑う。その全部を守るために、もう一度だけ、前へ出る準備をしておく。
——《才能ゼロと言われた俺が、学校一の美少女を守るまで》
完。




