第25話 光の盾、覚醒
夏が近づく空は、どこまでも高かった。
けれど街は、まだ完全には平和を取り戻していない。地下鉄の照明が一瞬で落ちたり、通信が途切れたり、夜更けの公園に黒い影が立っていたり。静かに、でも確かに、ざわざわが広がっている。
放課後の屋上で、春斗は空を見上げて拳を握った。風が制服の裾を持ち上げる。心の中の火は、消えていない。むしろ、前よりもはっきり、赤い。
「お前、また徹夜で見回りか?」
背後で蓮の声がした。
「まぁな。どうも街の空気が変なんだ」
蓮は手すりにもたれて、真剣な目で言った。
「黒薔薇の残党だけじゃねぇ。新しい組織が動いてる。名前は“ノア”」
「ノア……?」
「方舟を気取ってるらしい。“選ばれた者だけ連れていく”って。やってることは、ただのテロだ」
その時、階段の方から駆け足の音。
雪乃と芽衣が、息を切らせて屋上へ飛び込んできた。
「駅前に黒い柱が出現した!」芽衣の声が高く跳ねる。「空に光の線が伸びてる!」
雪乃は顔色を変えた。「あのエネルギー……前のボスより、ずっと強い」
春斗は迷わなかった。階段を降りながら、いつもより速く、足が勝手に前へ出る。
駅前のロータリーは、ざわめきに満ちていた。夕暮れの光の中、見たことのない塔が立っている。金属のようで、石のようで、どこにも属さない色。塔の先端から空へ向かって細い光が伸び、雲を刺している。音はほとんどないのに、耳鳴りがする。嫌な、静かな圧。
「信号が止まってる!」
「電波が入らない!」
人々の声が波のように揺れる。子どもが泣き、誰かが空を指さす。
芽衣が持ち出しの端末を覗き込んで顔をしかめた。「周波数が全部、塔に吸われてる……このままだと避難の誘導ができない」
蓮は短く言う。「中心へ行く。いいか、焦るな。見て、考えて、動け」
雪乃がうなずく。「春斗くん、前はお願い」
「任せろ」
塔の基部は、黒い板で囲われていた。その前に、フードの男がひとり。顔は見えない。声だけが、妙にやさしい。
「ようやく来たか、光の盾」
「黒薔薇の残りか?」春斗は構える。
「違う。我々は“ノア”。弱さを切り離し、強さだけを積み込む。君たちのような“守る者”が、この世界を弱くしている」
「……だったら、俺は何度でも弱くなる。守るためなら、いくらでも」
男は小さく笑った。「なら、その弱さごと消してやろう」
地面が低く震え、塔の光が太った。空が一段暗くなる。
次の瞬間、透明な衝撃が弾け、風景がたわむ。ビルの窓が一斉に悲鳴をあげ、信号機がひしゃげた。
春斗は雪乃の前に立ち、壁を張る。見えない板が空気を固め、押し寄せる圧を受け止める。けれど、重い。腕がきしむ。板に蜘蛛の巣みたいなひび。
「まずい……!」
雪乃が両手を重ね、足元へ薄氷の線を走らせる。震える地面を冷やし、揺れをやわらげる。それでも、圧は薄れない。
「芽衣、避難ルートを書き換えろ!」
「やってる! けど通信が……!」
蓮が塔の周囲を走りながら構造を見て叫ぶ。「上と下に二重の心臓がある! 同時に止めないと復活する!」
「なら、分担する!」春斗が言った。「俺が前で受ける。蓮は上、芽衣は下、雪乃は俺の後ろを固めてくれ」
「了解」蓮が飛び出す。
「任せて!」芽衣は階段へ消える。
雪乃が小さく息を吸った。「怖いけど、怖くない。行ける」
フードの男は、春斗だけを見ていた。「守るだけで、どこまで行ける?」
「進むために守る。俺の壁は、前へ出る」
春斗は一歩踏み出した。
その瞬間だった。胸の奥が、赤く光った気がした。心臓が内側から合図を送ってくる。懐かしい、でも一度も聞いたことのない声。
——恐れるな。守りたいと思った数だけ、お前は形を持てる。
「……誰だ?」
返事はない。けれど、わかった。これはたぶん、昔からここにあった声だ。
春斗は息を整え、腕を上げる。壊れかけの板が、ふっと透明にひろがった。今までより薄いのに、強い。光を透かし、風を逃がし、衝撃だけを受け止める。
板が板じゃなくなる感覚。壁というより、空気の形。春斗の前に、見えない“輪郭”が生まれた。
「これが……俺の力の本当の姿」
塔の光線が直撃した。透明な輪郭がゆるぎ、きしみ、でも砕けない。
春斗は一歩、もう一歩と押し出す。圧に負けないように、肩で息をしながら。
「お前の攻撃、通させない」
言葉が、空に残った。
蓮が塔の側面を駆け上がる。手すりも出っ張りも少ない斜面を、靴の先でかすめるように走る。
上空の足場で待っていた“ノア”の兵は、音のない音で蓮の耳を刺そうとする。
蓮はイヤモニを外し、世界の雑音を切り落とした。自分の鼓動だけが響く。
「強いのは速さじゃない。迷わない一歩だ」
一歩目で懐へ潜り、二歩目で芯をずらす。三歩目で、敵の足を刈る。刃が光をかすめ、塔の上部に火花が散った。
地下へ回った芽衣は、暗い機械室で額の汗を拭った。
「暗号のパターン、違う……システムが自分で組み替わってる……!」
彼女は悔しさに唇をかみ、笑った。「いい度胸。じゃあ、こっちもずるするね」
ケーブルを束ね、小さな電池を直結し、機械の“勘違い”を作る。表示がちらつき、ロックがひとつ外れた。
「あと二重。春斗、時間かせいで!」
「任せろ!」春斗は全身で押し返す。足裏が路面に食い込み、肩から背中へ力の道が通る。
「守るだけで勝てると思うなよ」フードの男が低く笑い、塔の光をねじった。
光が圧から鎖に変わる。束になって、春斗の足を絡め取る。
「っ……!」
膝が折れそうになる瞬間、背中に温かい手。
雪乃がそっと触れていた。
「大丈夫。私が後ろにいる」
それだけで、体の中の何かが持ち上がる。春斗は鎖を踏み、力の方向を変えた。
守る板を斜めにして、流す。強引に受け止めるのでなく、進む角度へ誤魔化す。
「進ませない守りじゃなく、進むための守りだ」
鎖は横にそれ、街路樹に吸い込まれる。葉がざわりと鳴り、風に返る。
塔の下、避難を手伝う白髪の男が目に入った。地味な背広、古い鞄。教師でも警官でもない。けれど人の流れを見て、指で小さく方向を指し示し、渋滞を解いていく。
彼はふと、戦っている春斗たちを見上げ、目が合うと軽く二本の指を立てて見せた。二歩、という合図。
男の口が、音もなく言った。「二歩で入れ」
何者だ、と考える前に体が理解する。
「雪乃、二歩!」
「うん!」
春斗は一歩、壁を前に押し出し、二歩目で塔の直前へ滑り込む。雪乃の薄氷が足下に走り、すべり台みたいな軌道を作る。
守りの板が楔になって、塔の基部の隙間に差し込まれた。
フードの男が眉を動かす。「それが“盾”の加速か」
「名前はあとでいい」春斗は歯を食いしばる。「今は止まれ」
上空。蓮が塔の肩にあるコアへ踵を落とした。
足裏に硬い手応え。コアが悲鳴を上げる。
「芽衣、今!」
「こっちもラスト一本!」
芽衣はペンチを握り、震える手を自ら叱った。「怖いのはわかる。でも、終わらせる」
三、二、一。銀色の線が切れ、低い振動が消えた。
塔の光が一瞬ふらつく。その刹那、フードの男が影のように滑り出して春斗の首筋を狙った。
春斗は反射で腕を上げ、透明な板を小さく、速く立ち上げる。
甲高い音。男の手刀が止まる。
「どうして倒れねぇ」
「倒れたら、守れねぇからだ」
春斗は返す。その言葉は、自分に向けてもあった。
塔の中程で何かが燃え、黒い煙が噴き上がる。光は弱まったが、完全には消えない。
フードの男は、春斗の肩越しに空を見た。「間に合わなかったな」
雲が割れ、巨大な影が覗いた。
空を覆う白灰色の船。音が遅れて降り、腹の扉が開く。
「“ノア”の方舟。本隊だ」蓮が低く言った。
芽衣が息をのむ。「街が、飲まれる……!」
春斗は一歩、前へ出た。さっきの白髪の男が、人ごみの向こうで小さくうなずくのが見えた。誰だかはまだわからない。けれど、そのうなずきは不思議と“正解だ”と告げていた。
春斗は胸に手を当て、息を吸った。
耳の奥で、またあの声がする。
——恐れるな。守りたいのは景色じゃない。ここにいる人だ。人を真ん中に置け。
「……だったら、全部包む」
春斗は両手を広げた。
透明な板が、板であることをやめる。
輪郭がつながり、線が面になり、面がゆるい球になっていく。
ロータリーを、駅舎を、避難の列を、雪乃を、蓮を、芽衣を、先生を、見知らぬ誰かを、ぜんぶ内側に入れて、ひとつの幕で包む。
光は白くも青くもない。空気の色。
「光なんて大げさだ。これはただの、空気の形だ」
春斗は笑った。
けれど、その空気は硬かった。方舟から降る圧を受け止め、街の音を守った。
フードの男の声が、どこか遠くなった。
「面白い。君は“選ばれた強さ”じゃない。重ねた弱さでできた盾だ」
「弱くていい。俺たちは、一緒に立ってる」
雪乃が後ろから支える。「私も立ってる」
蓮が横に立つ。「当然」
芽衣が叫ぶ。「守ってる間に、電源ぜんぶ落とす! あと少し!」
方舟の腹から、最後の圧が降りた。透明な幕が低く唸る。
腕が震える。足がしびれる。視界の端が薄い。
でも、折れない。
春斗は息を吐き、押し返した。
「俺の壁は、“絶望”さえ通さない」
言葉が、やっと自分のものになった。
方舟の光が鈍り、腹の扉が閉じかける。
遠くで芽衣の声。「停電誘導、成功! 街の人、ほぼ避難完了!」
蓮が笑う。「勝ち筋、見えたな!」
その時だった。フードの男が春斗の幕に手を当て、わずかに押した。
硬さを測るみたいに、ほんの少しだけ。
「今日は引こう。だが、君が守ると決めるほど、人は揺さぶられる。恐怖の次は、怒りだ」
男の姿が霞にほどけ、塔の基部が音もなく崩れた。
方舟は雲の向こうへ引いていく。置き土産みたいに、空気の温度だけが少し落ちた。
幕を畳むと、駅前の音が戻った。ひそひそと、ほっとする息の音。泣き声。笑い声。
春斗は肩で息をして、その場に膝をついた。
雪乃がすぐに駆け寄って、抱きしめる。腕の力は弱いのに、その温度は強かった。
「よかった……ほんとに、よかった」
「泣くなよ。大丈夫だって」
「うるさい。泣くときは泣くの」
「……はい」
蓮は空を見上げたまま、口の端を上げた。
「お前、やっと“ヒーローの顔”になったな」
「勝手に言え」
「言うさ。言いたい時に言うのが親友だ」
芽衣が笑いながら涙を拭く。「限定シェイク、四人で飲みに行こ。糖分は正義」
「お前はいつも通りだな」
「いつも通りが一番強いんだよ」
人混みの端で、あの白髪の男がこちらを見ていた。
彼は春斗に近づくでも、拍手に混ざるでもなく、ただ一歩だけうなずいて、踵を返した。
鞄の取っ手が擦れて音を立てる。
その背中に、雪乃が小さく首をかしげた。
「今の人、見覚えある気がする……」
「知り合い?」
「わからない。でも、目が“先生”だった」
蓮が短く言う。「追うか?」
「いい」春斗は首を振った。「たぶん、また会える。そういう歩き方だった」
空はもう、夜の色になりかけていた。
方舟の残した風は消え、駅前に屋台の匂いが戻る。
春斗は、包帯だらけの自分の手を見て、笑った。
弱い手だ。骨だって細い。強く握れば、すぐに痛くなる。
でも、この手なら、何度でも重ねられる。何度でも広げられる。何度でも、誰かの手を取れる。
「終わってねぇよ。あいつら、まだ何か残してる」
「知ってる」雪乃はうなずいた。「でも、今日は勝ち」
「今日は勝ちだ」蓮も言う。
「勝ち打ち上げだよ!」芽衣が指を天に向けた。
笑いながら、春斗は駅前の空を見た。
雲の切れ間に、さっきの方舟よりずっと小さく、飛行物体の影。すぐに消えた。
「“ノア”本隊だ」蓮が静かに言う。
「なら、最後まで守り抜く」
春斗は、胸の奥にもう一度、輪郭を描いた。
それは目には見えない。でも、確かにここにある。
空気の形。
守るためのかたち。
風が通り抜けて、四人の髪を揺らした。
夏は近い。
第三章《英雄編》が、今、始まった。




