第24話 手と手の力
気がつくと、世界が静かだった。
耳に残っていたはずの轟音がすべて消えて、代わりに風と鳥の声だけが聞こえる。
春斗は瓦礫の上でゆっくりと目を開けた。まぶしい。空が、青い。
戦いのあととは思えないほど、どこまでも澄んでいた。
隣には、雪乃が倒れていた。服は土と灰にまみれ、髪の先は少し焦げている。それでも、彼女の顔には穏やかな表情があった。
「……生きてる?」
かすれた声で尋ねると、雪乃はゆっくりと目を開け、薄く笑った。
「うん。まだ、死んでないみたい」
「そっか。よかった」
「春斗くんも……ね」
二人の笑い声は、壊れた街の真ん中で小さく響いた。瓦礫の隙間から光がこぼれ、春斗の頬を照らす。その温かさが、現実を確かにしてくれる。
少し離れた場所で、重い足音がした。
振り向くと、埃まみれの蓮と芽衣が立っていた。どちらも肩で息をしているが、顔は晴れやかだ。
「おいおい、無茶しすぎだろ、バカ!」
蓮が言いながら笑う。
「うるせぇ。結果オーライだろ」
「結果がオーライでも過程がバカなんだよ」
「細けぇこと言うなって」
その軽口に、芽衣が涙をこぼしながら笑った。
「もう……ほんとに心臓止まるかと思ったんだから」
「悪い悪い。でも、ほら、生きてる」
「そういう問題じゃないの!」
春斗は頭をかきながら、ようやく起き上がった。足元はまだふらつくけれど、立てる。
広場を見渡すと、さっきまで吹き荒れていた黒い風も、魔法陣も、跡形もなかった。
ただ、空気だけがほんの少し焦げた匂いを残していた。
街の向こう、避難所にいた人々が少しずつ戻ってきていた。
誰かが彼らを指さして叫ぶ。「ヒーローだ!」
その声が一人、二人、三人と広がり、やがて拍手になった。
「ありがとう!」「助かった!」
人の波がざわめきと笑いに変わっていく。
春斗は顔を真っ赤にして、頭をかいた。
「やめろって……俺たち、ただの学生だぞ」
その肩を、雪乃がそっと叩いた。
「でも、私は知ってる。——本物のヒーローだって」
その言葉に、春斗は言葉をなくした。照れくさい。でも、胸の奥がじんわり熱くなった。
「……言いすぎだよ」
「そんなことない」
雪乃はまっすぐ言った。
春斗は頬をかいて、顔をそらした。視線の先で、空の青が少しだけ深く見えた。
──夜。
校舎の屋上には、四人だけがいた。
誰もいない学園に、遠くの街灯が点々と光っている。
風は穏やかで、どこか夏の匂いが混じっていた。
「終わったんだな」
蓮が言った。腕を組み、夕焼けに染まった空を見上げる。
春斗は手すりにもたれながら、息を吐いた。
「いや……また何かあるさ。でも、もう怖くねぇ」
「根拠は?」
「知らねぇ。ただ、そう思える」
その無根拠さに、蓮は笑った。
「お前らしいな。……でも、俺も同感だ」
芽衣はベンチに座って、缶ジュースを振っている。
「次は文化祭とか守ろっか。机の配置とか、爆発しそうだし」
「それは平和だな」
「でしょ? 命かけて屋台の行列守るんだよ」
「バカか」
「でも、悪くないでしょ」
芽衣の笑い声に、全員が笑った。
笑いが一段落したあと、雪乃が静かに口を開いた。
「ねえ、春斗くん」
「ん?」
風が彼女の髪を揺らす。夕焼けの光で金色に染まっていた。
「この空、きれいだね。……あの時の空と同じ色」
「あの時?」
「最初に出会った日。校舎の裏で、あなたが空を見てた。……覚えてる?」
「もちろん。あの日、雪が降ってた」
「うん。あの雪の色も、この空の色も、同じに見える」
雪乃は空を見上げたまま言葉を続けた。
「怖い時があるの。もう一度、誰かを失うんじゃないかって」
春斗は何も言わずに聞いていた。
風が二人の間を抜ける。遠くでチャイムの残響が鳴る。
「また、怖くなったら——手をつないでもいい?」
雪乃は小さく笑って、こちらを見た。
春斗は一瞬、息をのんでから右手を差し出した。
「いつでも」
雪乃の指が触れた。細くて、少し冷たい。でも、その冷たさが逆に安心をくれた。
風が屋上を抜け、雲の隙間から星が一つのぞく。
芽衣が「わ、流れ星だ!」と声をあげた。
「え、どこ?」蓮が振り向く。
「もう消えた」
「おいおい、早すぎ」
「見た人だけラッキーってやつだよ」
そんな他愛もない会話に、春斗は笑った。
いつも通りのやり取りが、こんなにも愛おしいなんて。
遠くの街では、夜の鐘が鳴った。
雪乃がその音に耳を傾けながら、静かに言った。
「春斗くん、ありがとう。あなたがいてくれて、よかった」
春斗は照れ隠しのように肩をすくめた。
「こっちこそ。……お前がいてくれたから、立てたんだ」
「じゃあ、これからも」
「当たり前だ」
彼らの背中越しに、街の灯りがきらめく。
その光は、戦いの火ではない。生活の光、人の光。
春斗は胸の奥で、ゆっくりと言葉を刻んだ。
——どんな敵が来ても、守り抜く。もう二度と、誰も泣かせない。
その誓いを合図にするかのように、空の彼方で黒い花弁が一枚、ゆらりと舞った。
誰も気づかない闇の奥で、それを見上げる影がひとつ。
風のような声が、闇の中に溶けた。
「また、会おう。光の盾よ」
春斗はふと空を見上げた。
胸の奥がざわつく。聞こえるはずのない声が、耳の奥で反響した気がした。
「……来るなら来い。次は俺の番だ」
その言葉に応えるように、雲の隙間から太陽が顔を出した。
まぶしい光が春斗の瞳を照らし、屋上を金色に染めた。
雪乃が目を細め、微笑む。
蓮と芽衣が並んで空を見上げる。
四人の影が、夕陽の中でゆっくり伸びていく。
風が彼らの笑い声を運び、空の向こうへ消えていった。
——この物語は、まだ終わらない。




