第22話「週末、風を斬る」
週末の午後、空はきれいすぎるくらいに澄んでいた。こんな日に限って、悪い知らせはちゃんと届く。
生徒会の連絡網、教師の一斉メール、そして街頭のニュース速報。どれも同じことを言っていた。市役所前のスクエア一帯で、なにかが起きる。黒薔薇が、風を使う。今日は試しじゃない、本番だ、と。
夕方、僕らはスクエアの外周に立っていた。人の行き来はまだ多いのに、みんなの足取りは妙に早い。噴水の水音、露店の呼び込み、信号機の電子音。その全部の上に、目に見えないざわめきが乗っている気がした。
蓮が折り畳んだ紙をひろげ、指の腹で三か所をとん、と叩いた。
「仮設塔が三基。屋上の広告塔に一つ、地下駐輪場の角に一つ、噴水脇に一つ。三基を同調させて“黒い風”を街中に回す。恐怖の波を増幅して、自滅に追い込む。僕らは分かれて止める」
蓮の目は真剣で、いつもの余裕の笑みはない。
「配置はこうだ。屋上は僕が行く。地下は芽衣、解除と通信ハブを兼任。噴水は春斗と雪乃。中心波を受けて、斬るように逸らせ」
「受けて、斬る?」僕は首をかしげた。
「守りは、押し返せる。板の角度次第だ。今日の春斗は、受け身じゃなく前へ出る」
心臓が一つ、大きく鳴った。傘の日の、言えなかった言葉が胸ポケットに折りたたまれているみたいで、そこだけ熱い。
雪乃がペンダントを軽くつまむ。「私が決める。冷たくする守り方じゃなく、止める守り方で」
芽衣が耳元のインカムをぽんと叩いて、いつもの調子で笑った。
「はいはーい。解除とカウントダウンとムードメーカー、ぜんぶ私が担当でーす。帰りに限定シェイク二つ飲める未来のために、三基三分で片づけよう。いいね?」
「いいねじゃねぇけど、いい」と、僕は息を吸った。「行こう」
区役所の角を曲がると、風が変わった。温度は同じなのに、肌に触れたところだけふっと感情が冷える。耳の奥で、古い失敗の音がする。入学テストの結果表、ゼロの文字。笑い声。思い出したくないものが、勝手に近づいてくる。
噴水広場に、黒いコートの男が三人。顔は覆っていない。自分の顔に自信がある種類の、冷たい目だった。
「いい日だな。よく来た、ゼロヒーロー」
「その名前、気に入ってねぇんだよ」
いつものやりとりを、いつも通りの声で言えたのが少し誇らしかった。膝は勝手に震えなくなっている。震えるのは、前へ出る手前の一瞬だけだ。
男のひとりが指を立てた。風が刃になって、道路の白線を削る音がする。空調ダクトが逆流して、スクエアの空気を冷蔵庫みたいに硬くする。怖い記憶の切れ端が、風の中に混じって渦を巻く。
「春斗くん」
雪乃の声で、僕は構えた。両腕を胸の前、指は軽く開いて、板を出す角度を意識する。真正面で受けて止めるんじゃない。斜めだ。風の刃はのし棒みたいに広がるから、少しだけ上へ、少しだけ外へ撥ね上げる。
目の前に薄い板があらわれ、次の瞬間、刃がそれを滑って空へ逃げた。ばさり、と街路樹の葉が揺れ、切れた葉っぱが舞って、それ以上は来ない。
「反射、成功」
蓮の声が無線に乗る。「その角度のまま、半歩、前」
半歩前。板の表面に、もうひとつ小さな面を作るように意識する。二枚の板が重なって、風の軌道を奪う。風の刃はからっぽの空へ飛ぶ。人の悲鳴は生まれない。
雪乃が地面に片膝をついた。手の先から、薄氷のレールがのびていく。氷は白く曇らない。透明のまま、石畳と同じ色を映す。
「風の道、変更。上へ逃がす」
僕らの間を抜けた風が、そのレールに沿って斜めに駆け上がる。噴水の水しぶきは乱れない。小さな子が肩車をされて、きょとんと見ている。その視線の高さが怖くないように、板の角度をもう一度、ほんの少しだけ変える。
「地下は錠前が二つ。あと百二十秒ちょうだい!」芽衣の声が明るく跳ねた。声が明るいだけで、胸の氷が一枚割れる。
「屋上、交戦中。恐怖の音で足を鈍らせてくる。雑音ごと断つ」
蓮の無線がそこでぷつっと切れ、広場の音が一瞬、遠ざかった。世界がミュートになって、次の瞬間、屋上の縁にいる黒い影が大きく揺れた。蓮が踏み込んだのだと体がわかる。足音が戻ってきて、僕の板の表面に風がぶつかる音が重なる。
「次、来るよ」
雪乃の視線の先、上空から別の影が降りてきた。工場で相手をした男だ。今日は軽い鎧みたいな装備を着ている。肩に黒い羽飾り。笑い方だけは変わらない。
「守るだけの壁は、周回遅れだ」
「壁は、前に出すためにある」
言葉より先に体が動いた。板の端に、押し出すための角を作る。受けるための面に、ほんのひとかけら、攻めの意思を混ぜる。雪乃が薄氷を引いた。足元から背中まで、すべる道が一本通る。
「春斗くん、右回り」
「了解」
噴水の円周に沿って、僕らは走った。板は胸の前に、氷のレールは足元に。男が踏み込んだ瞬間、板の角度が相手の重心の向きを殺す。雪乃の氷が足首の後ろから軽く押す。僕の肩が相手の胸に当たる。タックルと言うより、押す。押し切るための守りだ。
水しぶきが逆光になって、相手の体が噴水の縁に跳ねた。黒い羽が数枚浮いて、濡れた石の上に落ちる。
「連携名つけよう。合図に使う」
無線の向こうで蓮が平然と言った。こんな時にって思うけど、こんな時だから、名前がいるのかもしれない。
「ネーミング会議、今!?」芽衣が笑う。
「押し波」
口から勝手に出た僕の案に、雪乃がすぐ重ねる。
「凍った軌道、凍軌」
「合体させよっか。“凍波”は?」芽衣が楽しそうに言う。「アイスプレス!」
「採用」
言った瞬間、胸の中の火が一段と強くなる。呼吸が合う。足音が合う。名前があるだけで、次の一歩が速くなる。
風が鳴った。噴水脇の塔の根元から、低い音が出ている。屋上と地下からも同じ音が重なる。雲が渦を巻き、スクエアの看板のピクトが、一瞬、人の横顔に見えた。錯覚だと頭ではわかっていても、心は小さく身を固くする。
「三基の同期、始まってる。群衆の同調が走る前に、止め切れ」
蓮の声が戻ってきた。息が上がっている。屋上は屋上で、大変なんだ。
「地下塔、解除ラスト一手! でも噴水塔のコアは外からじゃ凍らない、覆いがある! 春斗、雪乃、そっちは内側を止めるしかない!」
芽衣の声が少しだけ高くなる。焦りじゃない、速度のための高さだ。
「内側って、どうやる?」僕は塔の縁に手を当てた。中でなにかが回っている振動が、手のひらにじかに伝わってくる。早い。心臓の鼓動とずれていて、気持ち悪い。
雪乃がペンダントを握った。銀色の面に、見たことのない細い紋が一瞬走る。彼女の息づかいが静かになる。
「冷やさないで止める。……できるはず」
氷を出そうとしているのに、空気は冷たくならない。雪乃の両手の先で、透明な膜が広がった。膜は光を曇らせず、通り抜ける風だけを絡め取る。塔のコアの振動にふわりと触れる。膜の表面が、水面みたいに揺れて、振動の山を吸い込む。山が吸われるたびに、塔のうなりが一つ、低くなる。
「今のうち」
僕は膜のすぐ前に板を並べ、連続で角度を変えた。膜が振動の山を受け取る瞬間、板で山の向きをずらす。向きがずれた山は、外側の空気に逃げる。逃げた先で薄くなって、消える。音がいくつも剥がれ落ちるみたいだ。
空が、少しだけ青に戻った。
「屋上、主電源断」
蓮がどん、と制御盤を蹴った音が想像できた。床のうなりが一瞬、弱まる。
「地下塔、解錠——三、二、一、はい消灯!」
芽衣のカウントに合わせて、スクエアの風が普通の風に戻る。現実の風は、ただの空気だ。怖い記憶を運ばない。焼きそばの匂いと、鳩の羽音ぐらいしか乗せていない。
静まった噴水の縁に、男がひとり残っていた。肩の羽飾りを指で弾いて、僕らを見おろす。笑いは薄い。
「今日はここまで、だと? 残念だが、残念じゃない」
男の声が、スクエアの街頭ビジョンに重なる。画面が一瞬ちらついて、黒い薔薇の紋章が映る。ボスの声だ。工場で聞いた声、いや、耳じゃなく、背中に刺さった低音。
『恐怖は借り物で十分だ。次は——怒りを借りよう』
広場全体が、ほんの一秒だけ凍った。怒り、という言葉は、恐怖よりも速く人の心に火をつける。ボスはそれを知っている。僕らだって知っている。怒りで殴れば、守りはすぐ破られる。守り続けているときほど、怒りの刃はよく刺さる。
雪乃の透明な膜が、揺れた。ペンダントの紋がもう一度、別の形に光る。僕の手の甲にも、じん、と微熱が走った。板が、前へ出ろとせかす。
『次は、借りた怒りを燃料にする。誰の怒りでもいい。君でも、彼でも、あの子でも』
ボスの声がふっと消え、画面はいつもの宣伝に戻った。焼き肉食べ放題の笑顔が、間が悪いほど明るい。
「ふざけんな」
自分でも驚くくらい低い声が出た。怒りは便利だ。でも、僕の怒りは僕が使う。誰にも貸さない。そう決めたら、胸の火が穏やかな形に落ち着いた。
「今日は勝ち。だけど敵は“感情のスイッチ”を増やしてくる。準備を二段上げるぞ」
無線の蓮は落ち着いていた。咳払い一つで、戦闘モードから指揮モードへ切り替えるのが早い。悔しいけれど、頼もしい。
「じゃ、打ち上げは糖分で。限定シェイク二種を制覇して、勝利宣言しよ?」
芽衣がスクエアのベンチへ駆け寄り、ポケットから折り畳みのクーポンを取り出した。こういうのをどこで手に入れてくるのか、ほんとに謎だ。
「限定って、どっちが美味い?」
「両方。人生は欲張りでいいんだよ、春斗」
芽衣のやけに真面目な顔に、思わず笑ってしまう。笑いの余韻の中で、雪乃がそっと隣に立った。僕の手の甲を見て、小さく首をかしげる。
「熱、持ってる。痛くない?」
「うん、平気。……雪乃こそ、さっきの透明なの、平気か」
「平気。冷たくしない守り方、ちょっとだけ見えた気がする」
雪乃はペンダントを握りしめ、指の腹でゆっくり撫でた。「鍵は形じゃなくて、決意のほうなんだと思う。冷やすか、止めるか、前に押すか。私が決めていい」
「決めよう」
言ってから、顔が熱くなる。雨の日の続きが喉まで来て、でも飲み込む。ここで言う言葉と、そうじゃない言葉がある。僕たちは今、スクエアの真ん中にいる。人が戻りつつある。子どもが噴水をのぞく。犬が散歩される。こういう時間を守るのが、僕の言葉の前にある。
蓮が屋上から降りてきた。汗で前髪が額に張りついているのに、姿勢は相変わらずまっすぐだ。
「二人とも、よく持ったな」
「持たせてもらったんだよ」
僕は笑って、手のひらを開いた。細かな擦り傷が赤い。痛い。でも、この痛みは、ひどく安心する種類だ。
「帰りにシェイク。三分の集中のご褒美」芽衣がぴょんと跳ねる。「あと、ネーミングセンスの表彰式。凍波は満場一致で優勝でした」
「表彰式はどこで?」
「ベンチ。お財布に優しい会場費ゼロ」
「……それ、表彰式って言わない」
くだらない会話をしながら、噴水の縁をぐるっと回る。さっきまで戦っていた場所には、ただの水と光があるだけだ。黒い羽が一枚、風に乗って流れ、排水口の縁でくるくる回った。僕は拾って、折らないように、でも流されないように、ベンチの端に置いた。
シェイクは冷たくて甘くて、喉に痛い。痛いのに、もう一口欲しくなる。芽衣はストローを二本くわえて、「ダブル飲み」を披露した。雪乃は少しだけ顔をしかめてから、笑った。「頭、きーんってなる」
「なる。それがいい」
蓮はシェイクを半分で置き、スクエアの入口にちらと目をやる。視線は、通りを見ていた。人の流れ、車の速度、信号の変わり目。全部が戻っているかを確かめるみたいに。
「怒りを借りる、か」
蓮が独り言みたいに言う。
「怒りは燃えるけど、焦げやすい。借り物なら、なおさら」
「じゃあ、借りずにすませる。……それが守るってことだと思う」
僕が言うと、蓮は少しだけ、目を細めた。「言うようになった」
「まあ、努力中だからな」
「努力は、継続に勝てない」
「継続も、努力がないと起きない」
変な言い合いをしていたら、雪乃が僕の袖を軽くつまんだ。触られたところだけ、昼の透明な膜みたいに、静かになる。
「春斗くん」
「ん?」
「さっき、怖かった?」
「怖かったよ。でも、それ以上に、誰かが泣くのが嫌だった」
「……私も」
それだけ言って、雪乃はシェイクをすすった。ストローの音が間抜けに鳴る。その音が、スクエアの喧騒と同じくらい、安心する。
ベンチから立ち上がると、夕焼けが街を浅く染めていた。帰り道、信号待ちで立ち止まる。横断歩道の白い帯の上、僕の影と雪乃の影が少し重なって、また離れる。
「未満の続き、いつ言う?」
芽衣が背中から笑い混じりに突いてくる。
「お前、どこにマイクがついてんだよ」
「心の耳。生徒会スキル」
蓮まで肩をすくめて、「言葉は次でいい。今日は削った恐怖のぶん、街に静けさを返そう」とまじめに言う。ずるいな、と思った。僕も同じことを、かっこよく言いたかった。
スクエアを離れると、風はただの風だった。信号は信号だし、看板のピクトはただのピクトだ。世界が世界に戻っていく。その間を、四人で歩く。足音が四つでも、なぜか心の中の足音は一つにそろっていた。
遠くのビルの上で、カメラの赤い点がひとつ、ふっと消えた気がした。気のせいかもしれない。そうであってほしい。そうでなくても、次は守る。
怒りは盗まれやすい。だからこそ、僕は怒りに名前をつけてポケットにしまっておく。勝手に使わせないために。出すのは、決めた時だけだ。出さない強さも、あるはずだ。
横断歩道が青になった。僕らは歩き出す。風が頬を撫でる。焼き鳥の匂い、パン屋の匂い、道路の熱。全部、普通だ。普通が、嬉しい。普通を守りたくて、僕は今日も板を前に出す。
壁は、前に出すためにある。守るのは、進むためだ。
週末の風は斬った。次に来るのが怒りなら、その刃も鈍らせる。僕らなら、できる。そう思って、僕は歩幅を半歩だけ、長くした。




