第21話 雨の日の告白(未満)
金曜日の朝、目覚ましの少し前に目が覚めた。
窓ガラスに、まばらだった水の跡が、見る間に増えていく。しずくが一筋になって下へ走ると、次のしずくがそれを追い越して、また別の道を作った。外の世界がまだ眠くて、ぼんやりしている時間帯。屋根を叩く雨の音だけは、やけに起きるのが早い。
玄関で靴ひもをむすびながら、ふと嫌な予感がした。
傘、どこ。
目だけで探して、ないとわかった。昨日の帰りにコンビニで何か買って、レジ袋を肩にかけて、そのまま手ぶらで帰った。思い出すほどに、傘の影はどこにもない。
「母さんの、借りていい?」
洗面所の奥から「ダメ」の返事。
「これから使うのよ。若者は走れるからいいでしょ」
若者は走れる。理屈は雑だが、雨に勝てる論理を持っている人間はそんなに多くない。春斗は、空に勝てないときは潔く負けを認める主義だ。結局、玄関の戸を引いて、深呼吸して、覚悟を決めた。
学校までの道はいつもより静かだった。信号の色が濃く見える。歩道に一つ、二つ、水たまりができていて、子どもが長靴で跳ねるたびに、こっちまでうれしい気持ちになった。制服の裾はそれなりに濡れたけど、走れば、体の中にひとつくらい火が点く。校門に着くころには、息が温かくなって、雨の冷たさと釣り合いが取れた。
昇降口のマットには、色とりどりの傘が横たわっている。柄の形にも持ち主の性格が出る、とは芽衣の持論だ。凝った持ち手のやつはだいたい自己紹介が長い。シンプルなのは、黙って笑ってるタイプ。
春斗は傘なしで入ってきた自分の姿を、ガラスに映して見た。前髪が額に張り付いて、情けない。靴箱の前で一度頭を振って、しずくを飛ばす。あとで掃除の人に怒られないように、濡れた床はしっかり拭いた。生活の技術点は、少しずつ上がっている。
教室の窓は、曇りガラスみたいになっていた。外の灰色が、教室の白をやさしく薄める。
蓮は朝から黒板の隅に今日の予定を書いていた。派手じゃないけど、字が綺麗。芽衣は前髪をピンで留めて、湿気と戦いながら「今日の購買、パンが売り切れるの早いのでは?」と不穏な予言をしている。
「おはよ、盾男。びしょ濡れで登場」
「その呼び方、雨の日はやめろ。吸水スポンジみたいで悲しくなる」
「じゃあ今日だけは、水切り用スキマプロテクター」
「長いし余計意味わからん」
雪乃は窓際でノートを開いていた。雨の日の雪乃は、いつもより落ち着いて見える。光が柔らかいから、白い髪が本当に白くなる。こちらに気づくと、すこしだけ首を傾けて笑った。笑い方まで、雨に合う。
一時間目のチャイムが鳴っても、雨はやむ気配がなかった。体育の時間は、急きょ教室での講義に変更。先生は「安全第一」といつもの台詞を言って、床の水滴を見回してから、ホワイトボードに図を書き始めた。窓の外では、校庭の砂が均一な灰色の布みたいに見える。音楽室のほうから、ピアノの練習が小さく聞こえてきた。雨は大きな音で世界をおおって、細かい音を遠くの宝物みたいにする。
昼休み。購買のパンは予想どおり早くなくなった。芽衣の予言能力はろくでもないところに限って強い。春斗は弁当の白ごはんを大事に食べ、唐揚げを最後に残す派を貫いて、最後の一個を蓮に差し出した。
「いいのか」
「お前の“いいから食べろ”顔がもう準備できてた」
「便利になってきたな、お前」
「生きるのに」
午後の授業は、雨の日特有の眠気と戦う時間だった。担任が「この音で眠くなるのはしょうがない」と言って、窓に近い席の生徒を前に詰めさせる。春斗はなんとか目を開けていた。黒板の文字が、少しずつ水に滲んだみたいに見える。外の灰色は、目に優しい。優しいのは危ない。
放課後。
傘を持っていない現実が、昇降口で急に重くなる。不思議なもので、人は階段を降りるまで天気を忘れがちだ。上履きを片方脱いだところで、春斗は立ち尽くした。
扉の向こうで、雨の糸が途切れず落ちている。手のひらを出してみたら、冷たい。わかってはいたけど、思っていたより冷たい。
靴箱の影で、蓮が電話を終えたところだった。「……気象警報は出ていない。だが帰宅が遅くなると良くない。寄り道はするな。直帰で」
「了解、委員長」
芽衣はすでに自分の傘をくるくる回して、くるみボタンのコートを着込んでいる。「帰ったら温かいもの食べたい。コンビニの新作スープ、特集組みたい」
「食レポは後日だ。気をつけろよ」
「うん。また明日」
そのとき、昇降口のガラス越しに白い影が近づいた。
雪乃だ。透明の傘に、雨粒がいっぱいに花を咲かせて、近づくほど光が増えるみたいだった。
「忘れたの?」
「……ああ、まあ」
「じゃあ、入れてあげる」
差し出された傘の縁に、ためらいの影が一瞬だけ揺れて、すぐに消えた。二人で一つの傘。距離が近い。肩が触れそうで、触れない。触れたら、雨に言い訳を借りることになるかもしれない。
昇降口を出た瞬間、音が大きくなる。傘に当たる雨の音は、屋根の上の音より近い。足元のアスファルトが光って、街灯が水たまりに看板を映す。歩くたび、光が割れて形を変える。
「ねえ、春斗くん」
「うん?」
「怖くないの? また戦うこと」
聞かれると思っていない問いだった。歩幅が半歩だけ乱れて、すぐに戻る。春斗は、傘の柄に添えた雪乃の手の位置を確認するみたいに、視線を落とした。
「怖いよ」
嘘はつけない。
「でも、それ以上に、誰かが泣くのが嫌なんだ」
言ってみたら、自分の声が意外と落ち着いていた。
雪乃はうなずく。小さく、慎重に。
「……私も。だから、今は春斗くんがいると安心する」
その言葉は、雨の音と同じくらい、静かに耳に入った。しみ込むのが早い種類の言葉だった。
信号の下で立ち止まる。赤が雨に濡れて、色が深い。前髪の先から、細い水が落ちる。傘の縁から滴り落ちるのと、地面から跳ね返るのとで、世界が二重に揺れる。
「もし、明日が最後でも——私は、後悔しない」
「何だよ、それ」
「ううん。ただ、そう思っただけ」
雪乃がすこし笑った。
笑い方はいつものままなのに、目の奥がいつもより奥に見えた。
春斗は喉の奥で言葉を選ぶみたいに、一度息をとめた。
「俺は——」
そこへ、空が光って、雷が街を叩いた。
傘を殴るみたいな音。世界が一瞬だけ真昼になって、すぐに元の色へ戻る。大粒の雨に切り替わって、傘の内側まで弾けた雫が飛んだ。
雪乃が傘の柄を握る手に力を込める。
「怖い時は、手をつないでいい?」
質問は短くて、真剣で、逃げ道を用意しない種類の優しさがあった。
春斗はうなずいた。
二人の手が、静かに重なる。温かい。傘の内側に小さな灯りがともるみたいに、指先が明るくなった。
歩き出すと、足元の水たまりがさっきより浅く感じた。踏み出した靴の先を、薄い板が守る感覚がある。雪で作る帯と違って、ここには形がない。けれど、たしかにある。
コンビニの前を通ると、ビニール傘のワゴンが入口の横に出ていた。芽衣なら迷わず写真を撮るところだ。
「買っていく?」
雪乃が小声で聞く。
「いや、今日は……こういう日ってことで」
言いながら、自分で顔が熱くなるのがわかった。雨が冷たくて助かった。冷たい雨は、照れの温度をちょうどいいところまで下げてくれる。
曲がり角のたびに、傘の角度が少しだけ変わる。雪乃が傘を持つと、歩幅が自然とそろう。傘の縁から落ちるしずくが同じタイミングで地面を打つ。ふたりで歩くと、雨は半分になるわけではないけど、音は半分くらいになる気がする。
公園の前まで来ると、遊具はどれも濡れていて、ベンチには誰もいなかった。ブランコの座面に溜まった水が、風に揺れて小さな波を立てる。滑り台の上は小さな池だ。
「寄ってく?」
雪乃が聞く。
「ちょっとだけ」
屋根のあるあずまやに入って、傘をたたむ。ぱん、ぱん、と軽く振って水を切る。音が静かに広がって、すぐに雨に溶けた。
ベンチに座ると、湿った空気が制服の襟の中に入ってくる。雪乃は手すりに手を置いて、外の雨脚を見ていた。
「私ね、雨の日、嫌いじゃない」
「たぶん、似合ってる」
言ってから、少しだけ後悔した。言い方の選択肢が他にもあった気がする。でも、雪乃は否定しなかった。
「……ありがとう」
それだけ言って、前を向いたまま、手すりの上で指先を転がした。爪の先に触れた水滴が、ころんと落ちる。
「この前、工場で、怖くないふりした」
「してたね」
「ほんとは、こわかった。今日のニュースも。『また来る』って言われると、心が先に寒くなる」
「俺も」
春斗は素直に乗せる。
「こわい。でも、こわいのと同じくらい、離れたくない。学校からも、友だちからも、雪乃からも」
言葉が滑って前に出た。止めなかった。雨が、音で見張っているのに、見逃してくれた。
雪乃はようやくこちらを向いた。まぶたに雨の反射が残っていて、目の光がいつもより近かった。
「ねえ、春斗くん」
「うん」
「……最後まで言わなくていいよ」
「え」
「『未満』で、今日はいい」
雪乃は笑った。いたずらの後の笑い方じゃない。間に合った人の笑い方だ。
「明日、もしも世界が普通に続いてたら、続き、聞かせて。もし続いてなかったら——今日のこの感じを、私の『完成』にする」
未満のまま、持って帰る。
そんな選択があることを、春斗は初めて知った。
完成を急がないくせに、今を大切にするやり方。
悪くない。むしろ、いい。
「……わかった」
「うん」
雨脚が少し弱くなった。屋根の端から落ちる水は、さっきより細い。あずまやの柱の影は短く、色が濃くなった。
「そろそろ、行こっか」
「送る」
「同じ方向だしね」
傘を開くと、内側に閉じ込めた空気がふわりと温かい。二人で立ち上がって、雨の外へ出る。あずまやの屋根から滑り落ちた水が、背中の横で派手に弾けた。
家の角を曲がるころには、靴の先もだいぶ濡れていた。水たまりの深さは、夜のほうがわかりにくい。街灯は正直者だけど、真実の半分しか教えてくれない。
「ここでいいよ」
雪乃が、見慣れたマンションの前で足を止める。
「ありがとう。……手、あったかかった」
「うん。俺も」
傘を持つ手を低くして、入り口の屋根の下へ入れる。そのまま一歩、離れる。なんでもない間合いが、今日はちょっとむずかしい。
「また明日」
「また明日」
雪乃がエントランスに消えて、ガラスの向こうでエレベーターのランプが上に動く。春斗は、傘の柄を握り直した。自分の手の温度がまだ残っている。
雨は、小降りになった。強さが変わるたびに、音の高さも変わる。帰り道は短いのに、長い。短いのに、考えごとには足りないくらい長い。
家に着くと、母の「よく濡れたね」の声があって、風呂の湯気が逃げてきた。味噌汁の匂いが、雨の匂いと喧嘩せずに並ぶ。タオルで髪を拭いて、窓を少しだけ開ける。細い風が入ってきて、部屋の空気を一度外へ押し出した。
テレビのニュースは、さっきの黒いテロップよりも、いっそう黒い言い方をしていた。
「“黒薔薇”残党が、週末に大規模な行動を計画中との情報……」
キャスターの声は揺れないけど、画面の端の文字だけが高速で変わる。予定調和を嫌う種類のニュースだ。
春斗はリモコンを置いて、窓の外を見た。
街の灯りは、雨に負けていない。濡れた路面が反射して、灯りが二倍になっているだけだ。二倍になった灯りの分だけ、人は少し安心できる。
握った手の感触が、まだ体のどこかに残っていた。指と指の間に、薄い板が静かに立っていて、そこに怖さを乗せてくれる。空いた手で、前を押せる。
「今度こそ、守りきる」
小さく、でも確かに口に出した。音にすると、体の内側のどこかにスイッチが入る。勝手に入る。勝手に入ってくれて、ありがたい。
机の上のメダルが、雨の日の光を受けて鈍く光った。体育祭の時にもらったやつ。重さは変わらないのに、意味は少しずつ増える。
スマホを手に取って、短いメッセージを打った。
『さっきはありがとう。明日、また』
送ってすぐに、返ってきた。
『うん。また。未満の続き、楽しみにしてる』
春斗は笑った。声は出さないで、息だけで。
窓の外では、雨がもう一段静かになっていた。
週末。大規模な行動。ニュースの言葉は冷たい。でも、今日握った手は温かい。温かいもののほうが、最後に残る。
だから、負けない。
たとえ、空が光って、街が濡れて、ニュースが脅かしても。
明日、続きが言えるように。
未満のままの言葉が、ちゃんと完成できるように。
布団に入って目を閉じる直前、春斗は心の中で薄い板を一枚立てた。怖さはそこへ。空いた手で、前へ。
雨の音は、子守歌に向いている。
眠りの中で、雷の光はもう怖くない。むしろ、目を覚ます合図になる。
次に目を開けたとき、空が晴れていたら、やることはひとつ。
曇っていたら、やることはふたつ。
どちらでも、前へ。
未満の続きは、前へ進んだやつだけが言える。
そう思いながら、春斗は静かに眠りに落ちた。
雨は、夜の間に何度か強くなって、何度か弱くなった。
それでも、朝は来る。
未満を、完成の方向へ押すために。




