第20話 街をねらう風
その夜のニュースは、教室の空気を丸ごと別物にした。
黒板の下で置きっぱなしになっているモップの影が、いつもより濃く見える。朝の予鈴が鳴る前からスマホで見た見出しは、昼を過ぎても脳の奥で点滅しっぱなしだ。
「市内で爆発未遂事件。犯行声明は“黒薔薇”を名乗る集団から」
担任がプリントを配りながら「落ち着いて行動するように」と言ったとき、教室の後ろで誰かが小さく笑った。「またあいつらかよ」。笑いというより、うまく飲み込めない気持ちが外にこぼれただけの音。
窓際の雪乃は、いつもより姿勢が少し固い。肩に力が入っているのが遠目にもわかる。春斗は拳を膝の上で握った。指の関節がこすれ合う音が、自分だけに聞こえる。
「狙いは恐怖の拡散だ」
蓮は、答案用紙を返された直後でも表情を変えないタイプの声で言った。
「今回は人を傷つけなくても、“不安”を植えつけるのが目的。『どこで起きるかわからない』って思わせた時点で、半分勝ちなんだよ」
芽衣がシャープペンをくるくる回す。「じゃあ、こっちは『どこででも守れる』って示せばいいってことだね」
「そういうこと」
言葉は短いのに、教室のざわめきの芯に刺さった。放課後のチャイムが鳴るまで、その芯は抜けないままだった。
◇
日が沈むのが早くなった。
市街地は、空が暗くなる分だけ看板の色を増やして対抗している。ネオンが濃い色で笑って、ビルの谷間に浮いている。信号待ちの人の群れは、手にした買い物袋の形で今日の生活を語る。青果のロゴ、古い本屋の茶色い紙袋、コンビニの白い持ち手。あたり前のものが、揺れている。
「このエリアで“黒い風”って通報があった」
芽衣が通信機のボリュームを少しだけ上げ、耳元を押さえた。
「黒い風?」
春斗が眉をひそめる。風に色はない。あるなら砂塵か煙だ。想像したとたん、喉の奥が勝手にざらつく。
「広がる前に、源を止める」
蓮の言葉が合図になった。四人は歩調を早める。雪乃の視線は横断歩道の向こう、路地の影を追っている。
そのときだった。
通りの向こうで、煙が立つ。最初は店の排気の延長みたいに細くて、すぐに太る。黒い霧が風に乗って、街角の匂いを塗りつぶしていく。咳き込む声、靴音の乱れ、子どもの泣き声。人の流れが崩れる音は、言葉にならないのに意味だけが伝わってくる。
「やばい、こっち来る!」
芽衣の声で、春斗の足が勝手に一歩前に出た。胸の前、肩の前、膝の前——薄い板を三枚。肺が縮みそうになる感覚を、その板の向こうへ押しやる。霧がぶつかり、広がって、勢いを失う。押してくる重さを、斜めに逃がす。受け止めない。絡め取らない。通さないまま、道だけ作る。
雪乃が、春斗の左斜め後ろに立つ。
彼女の手がひとつ、空をなぞった。歩道と車道の境目に沿って、薄い氷が走る。すべらない霜。帯の幅は人ひとりぶん。逃げる人の足は自然とそこへ乗って、転ばない。氷が光を拾って、霧の中で道しるべになる。
「裏路地に装置があるはずだ!」
蓮が目だけで周囲を測り、声を飛ばす。
「こっち!」
芽衣が地図アプリを開いたスマホを一瞬だけ上に掲げ、路地の入口を指す。四人は人の流れを切らないように端を走った。誰かにぶつかるくらいなら、自分の肩を壁にこすったほうがいい。
路地は、表通りより匂いが濃い。油と雨水と古い段ボールの混じった匂い。電灯の光は、地面に落ちている水たまりの上で丸く震えている。店の裏口の扉が半分開いて、誰もいない気配を吸ったまま止まっていた。
奥だ。
目の前に、四角い黒い箱。腰の高さくらい。電源らしきものは見えないのに、箱の上で空気が揺れている。そこから霧が生まれているのが、目でわかる。息を吸うと、喉の内側に黒板消しの粉を押しつけられたみたいな感覚が残る。
「黒薔薇の仕掛けか!」
春斗が思わず声を上げる。
「止める」
雪乃が片手を伸ばし、指先だけで小さな円を描いた。氷の浅い流れが箱の外側から内側へ染み込むように回り込んでいく。温度を奪うのではない。動きを鈍らせ、止める。彼女の氷は、人を傷つけるためではなく、道具を止めるために設計されたみたいに正確だ。
そのとき——屋根の上の影が、音を捨てて降りてきた。
軽い着地。真上から見下ろす目が、夜の色に慣れている。
「よう、また会ったな」
黒いコート。以前、工場で相対した男だ。あのときより、体の周りの空気の温度が低く感じる。爪の先まで無駄がない。
「お前らがここまで嗅ぎつけるとは。鼻が利くな」
男は笑う。口元だけ。目は笑わない。
「もう好き勝手させねぇ」
春斗が前に出る。言葉は短く、足は迷わない。胸の前に板を置き、肩の前にもう一枚。板の角度は、雪乃の帯と合う位置。
「守るだけで勝てると思うなよ」
男の腕が、影より速く振られた。黒い斬撃が霧を割って突っ込んでくる。
春斗は正面で受けず、半歩引いてから斜めへ流す。板の表面で力が滑り、壁の角に当たって音だけが鋭く響いた。腕が痺れる。痺れは嫌いじゃない。生きている実感が、骨を通ってくる。
「右、任せろ!」
蓮が脇から入る。足音が一拍遅れて届く。男の刃の根元を指先で軽く弾き、軌道をずらす。蓮は無駄な力を入れない。動きが綺麗だ。綺麗だから、速い。
雪乃は箱に氷を流し込み続け、芽衣は持ち前の器用さで箱の前面の蓋をこじ開け、薄い金属板の内側へ手を差し入れた。
「解除コード、打ち込む。……あー、これ、ボタン小さ。設計者の性格悪」
「芽衣、十秒で終わらせろ」
「十秒で、って簡単に言うけどさ」
「言うだけならタダだ」
蓮の短い冗談が、緊張の角を一ミリ丸くする。角は丸いほうが折れにくい。
男の刃がふたたび春斗へ。
「来い」
真正面から受ける。板の表面で火花のない火花が散る。衝撃が肩に刺さる。足が沈む。だけど立っている。倒れたら、守れない。理由はそれだけで十分だ。
「……どうして倒れねぇ!」
「倒れたら、守れねぇからだ!」
言葉の熱が腕に戻り、板が少しだけ厚くなる。雪乃の指先の冷たさが背中を通って広がる。氷と壁は相性がいい。冷たいのに、温かい。
「あと十秒!」
芽衣の声が、箱の中からこもって聞こえた。
「九、八……」
男の目が、春斗の背後を一瞬だけ見た。雪乃を確認する視線だ。攻めるなら今。そんな露骨な視線。春斗は半歩だけ後ろへ。背中を雪乃の前に差し出す形。板は自分の体の前だけじゃない。背中の前にも置ける。練習で覚えたことが、ちゃんとここで役に立つ。
男は舌打ちして間合いを外し、壁を蹴って屋根へ戻ろうとした。
その足首の前に、雪乃の帯がすっと走る。直接凍らせない。足の自由だけ奪う。男は体重の置き方を変えて難なく着地し、すぐさま反撃に転じる。蓮がそこで一撃。男の肩に浅い痛みが乗るだけ。互いに深追いはしない。深追いは、街を巻き込む。
「三、二、一——」
箱の内側で何かがかみ合い、雪の結晶が鳴るみたいな音がした。
「止まった!」
芽衣が顔を上げるのと、雪乃の氷が箱の中で静かに固まるのが同時だった。黒い霧は、湧き水を止めた直後の池の表面みたいに、まだ少しだけざわついて、やがて落ち着いた。
男は舌打ちした。小さな音。
「今日は運がよかっただけだ」
言い置いて、黒い煙のような影をまとって屋根の向こうへ消える。追うべきかどうか、判断は一秒で終わる。追わない。ここで人を守るほうが先だ。
路地をぬけ、表通りへ戻ると、咳き込んでいた人の息がだんだん落ち着いていくのが見えた。救急車のサイレンが遠くで鳴り、警備の人たちが規制線を張る。誰かが「助かった」と言って、誰かが「怖かった」と言う。誰かが泣き、誰かが笑う。拍手の音が小さく起きて、すぐに街の雑音に混ざった。
春斗は膝に手を置き、深く息を吸った。喉のざらつきは残っている。だけど、空気は吸える。
「……間に合った」
雪乃が駆け寄ってきて、春斗の手を取る。手は冷たいのに、触れる部分だけ温かくなった。
「ありがとう。やっぱり、春斗くんがいないと」
「それ、反則なセリフだぞ」
言ってから、耳の内側が熱くなる。夜風がちょうどよく冷ましてくれた。
蓮は空を見上げていた。ネオンの色が夜に穴をあける。穴の向こうは黒くて、何も言わない。
「次は、もっと大きいのが来る」
蓮の声は低い。でも、恐怖ではない。予告だ。準備のための言葉。
誰も、否定しなかった。
否定しても、街の風は止まらない。
◇
装置は警備の人に引き渡し、報告書のために一通り説明をした。芽衣は要点だけをまとめるのが得意で、蓮は無駄な言い回しをしない。雪乃は聞かれたことだけ答える。春斗は、みんなの横でうなずく係だ。自分の言葉が重くなって、地面に落ちそうなときは、ただうなずくのがいちばんいい。
ひと段落ついたあと、四人はコンビニの横のベンチに腰をおろした。
冷たい飲み物のふたを開ける音が四つ続く。空気が甘くなる。
「霧、最初より薄くなったよね」
芽衣が紙コップの表面を指でなぞり、内側の氷が鳴る音を楽しむみたいに耳を傾けた。
「源を止めたからな。二次的に漂ってるぶんは、そのうち消える」
蓮はペットボトルを机にコトンと置く。
「でも、仕組みは単純じゃない。人を傷つけるだけのものじゃなく、怖がらせる空気を作るためのものだ。匂い、音、風の向き。混ぜ方がいやらしい」
「設計者の性格が悪いって言ったの、私だけじゃなかったか」
芽衣が笑う。
「でも、嫌がらせの上手い人って、タイミングの取り方も上手いのが困る。ピークを人の心に合わせてくる。今日だって、夕方の買い物時間に合わせてきた」
「だからこそ、こっちの準備も“心の時間”に合わせる」
蓮はそう言って、視線を街の流れに戻した。
人の歩幅。靴音のリズム。横断歩道で待つときの視線のやり場。すべてが時計になる。市街地は、大きな時計だ。
「……怖かった」
雪乃が小さく言った。
「霧が広がった瞬間、体の中のどこかに指を入れられたみたいで。冷たいのに、燃えるみたいに痛くて。たぶん、私だけじゃない。みんな、同じだった」
春斗は、紙コップのふちに指を置いたままうなずいた。
「俺も。怖かった。だから、板を置いた。怖さは板の向こうに置く。そうしたら、手が空く。空いた手で、前を押す」
「うん」
雪乃は目を閉じて、短く息を吐いた。
「板の向こうに、置けるんだね」
「置ける。たぶん、何回でも」
春斗は空を見上げる。看板の明かりが空の色に勝とうとしている。勝てるはずはないけれど、挑むことはできる。挑み続ける光は、見ているだけで少し勇気が出る。
「……ねえ」
雪乃がためらいがちに言った。
「さっき、手。握ってもいい?」
春斗は一瞬だけ笑った。「もう握ってるようなもんだろ、それ」
「言葉にしないと伝わらないこともあるから」
雪乃の手は冷たく、触れた瞬間に温かくなった。
手のひらと手のひらの間に、薄い板がもう一枚置かれる。そこに怖さは乗らない。代わりに、勇気が薄く重なる。
芽衣がわざとらしく咳払いをした。「青春、進行中。記録、保存」
「やめろ」
「保存は尊い文化です」
蓮がベンチから立ち上がる。
「今日は帰れ。風は一度弱まる。明日、もう一度街を見よう。匂いが変わっていないか、音が変わっていないか」
「了解。……ねえ、明日、学校の帰りに回る順番、私が組んでいい?」
芽衣が手帳を取り出す。
「安全とコンビニスイーツの距離が両立するコースで」
「お前はどこへ行っても楽しそうだな」
蓮が肩をすくめる。
「たのしくなきゃ、怖いのに勝てないよ」
芽衣の言葉は、軽いのに重い。
◇
家路に向かう途中、春斗は一度だけ振り返った。
街の風は、昼間と同じようにどこへでも吹いていく。角を曲がれば匂いが変わり、横断歩道を渡れば空気の重さが変わる。人の会話は夜になると少しだけ小さくなり、笑い声は温度を下げる。
スマホの画面には、夕方のニュースのまとめがまだ残っていた。
爆発未遂事件。犯行声明。黒薔薇。
スクロールする指を止めて、画面を暗くする。暗くした画面に自分の顔が映る。思ったよりも疲れている顔だ。
でも、悪くない。疲れているときほど、胸の板はあたたかい。
信号待ちで、横に並んだ小学生が大きなあくびをした。手に持った風船が、夜の風に揺れる。
「落とすなよ」
春斗が言うと、子どもは素直にうなずいた。「うん」
風船の紐が、子どもの手に巻きつく。
ああ、こういうのだ。守るって、こういうのだ。目に見えるものと見えないものの両方。風船と、手と、紐の結び目と、くるぶしの高さの風と。
信号が青になる。
春斗は歩き出した。歩幅は昨日より少し大きい。
夜は深くなるのに、街は眠らない。眠らない街を守るのは、眠くなる仕事だ。眠いから、手をつなぐ。眠いから、声をかける。眠いから、笑う。そうやって続ける。続けることが、いちばん強い。
家の玄関を開けると、台所の明かりがついていた。
「遅かったわね」
母の声は、今夜は責める色を薄めている。春斗は「ごめん」とだけ言って靴を脱ぐ。
湯気の立つ味噌汁の匂いが、霧のざらつきをゆっくり溶かしていく。スープで洗うみたいに、喉の内側がやわらかくなる。
自室で窓を開ける。
風が入ってくる。黒くない。ちょっと湿っていて、どこか甘い。遠くの電車の音が、布団の上で跳ねて小さな波を作る。
机の上のメダル——体育祭でもらった、安全貢献賞——を手に取って、少しだけ重さを確かめる。
重さは今日の重さと違う。あの日の重さは、今も良い。今日の重さも、悪くない。違う重さが並んで、どちらも捨てられない。捨てなくていい。
ベッドに倒れ込む前に、春斗はスマホを手に取って、一通だけメッセージを送った。
『今日はありがとう。明日、放課後、街を回ろう』
すぐに返信が来る。
『うん。明日も、一緒に守ろう』
それだけで十分だった。
画面を伏せ、目を閉じる。
眠りの入口に、薄い板を一枚置く。怖さはそこへ。手は空けておく。
その手で——明日、また誰かを前へ押す。倒さないで、進ませる。
窓の外で風が鳴った。黒くない、ふつうの風だ。
街をねらう風は、また来るだろう。
でも、ここには、受けて、流して、守るための手がある。
それで足りないなら、増やせばいい。明日、もう一枚。明後日、もう一枚。
そうやって重ねていけば、きっと、どんな風でも。
眠りに落ちる直前、春斗は思った。
守る理由は、毎日増える。
風船の紐。紙袋の持ち手。氷の帯。矢の角度。芽衣のメモの角。
増えるぶんだけ、強くなる。
それなら——次が来たって、負けない。
たとえ夜が深くても、ここには灯りがある。
灯りの数だけ、守る手がある。
それだけは、もう確かだ。




