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才能ゼロと言われた俺が、学校一の美少女を守るまで――点数はビリ。だけど、君を守る時だけ俺は最強だ。  作者: 妙原奇天


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第18話 遠足の守り人

 春。

 朝の空は、体育倉庫のマットみたいに無駄なく青かった。雲は薄く切り分けられていて、風の匂いは水道水の最初の一口みたいに冷たい。遠足日和、というやつだ。

「寝るな、盾男!」

「呼ぶな、それ!」

「じゃあ、守護神!」

「もっと恥ずかしいわ!」

 担任が点呼を読み上げる声の向こうで、芽衣のツッコミがバスの天井に反射してはね返る。車内は朝から遠足テンションで、笑いが通路を行ったり来たりしていた。前の座席の背もたれには、誰かがこぼしたジュースの輪っかが乾いて白く残っている。窓をたたく日差しは元気で、まだ眠い瞼にはちょっと暴力的だ。

 雪乃は窓際で、左右の木々をやんわりと目で追っていた。髪が光を拾って、一本一本が糸みたいに細く見える。春斗はその横で、半分あくび、半分深呼吸みたいな顔をして、背中を座席に預けた。

「はいチーズ!」

 芽衣が使い慣れたカメラを構えて、通路越しにシャッターを切る。ぱしゃ、の音に続いて「保存完了。黒歴史行き」と宣言するのはいつもの悪癖だ。

「やめろ、俺の青春にラベル貼るな」

「貼っとかないと散らかるでしょ。青春は分類が命」

 前席から振り返った蓮が、窓の外にちらっと目をやった。山に近づくにつれ、道路はくねり、木漏れ日が窓に縞模様を作る。バスのエンジン音は少し低くなり、タイヤがアスファルトから土の感触へ切り替わっていく。

「遠足とはいえ、油断するな。黒薔薇が動く可能性もある」

「わかってる」

 春斗は素直にうなずいた。

「でも、今日は平和に終わると信じたいな」

「信じるのは自由。準備は義務」

 蓮は短くそう言って、背もたれに戻った。言い方はいつも通り淡々としているのに、言葉の端だけが少しやわらかい。仲間のいる遠足は、蓮にとっても遠足なんだな、と思う。

 バスは山のふもとの自然公園に着いた。空はまだ青く、芝生はしっかり生きていて、遊歩道の木の柵は新しく塗り直されている。小川の音が近い。靴底に小石が当たるコツコツという感触が、春斗は嫌いじゃない。

 荷物を置いて、先生が諸注意を読み上げる。「勝手に川に入らない」「班で行動」「ゴミは持ち帰り」。いつもの三種の神器だ。各班でレジャーシートが広がると、色の違う布が草の上で島みたいになる。

 昼。

 頬の内側にたまる唾が、腹時計を催促し始めたころ、春斗の目の前に白い三角形が現れた。

「これ、食べる?」

 雪乃が、おにぎりをそっと差し出してくる。海苔は角だけ少し浮いていて、握りはまだ不器用。でも、米の粒はちゃんと形を残していて、塩の白さがところどころに粉みたいに光っていた。

「え、いいの?」

「うん。……練習したの」

 一口かじる。海苔の香りと塩の具合が、ちゃんとおにぎりの味をしていた。舌の上でほろっとほどけて、空気まで少し甘くなる。

「うまい!」

「ほんと?」

「ほんと」

 雪乃がほんの少し肩を落として笑う。安堵、というやつだ。

 そこへ芽衣が、ズームレンズより素早い顔の近づけ方で割り込んできた。

「あー、それ恋人ムーブだねぇ」

「な、なんだよ!」

「むしろ『おにぎりで告白』って新ジャンル。タグは“塩むすびと青春”で」

「タグ文化やめろ!」

 笑いが広がる。蓮は離れた木陰で、紙コップを傾けながらこちらを眺めていた。目が合うと、ほんの一秒だけ目尻がゆるむ。そういう時の蓮は、わかりづらく優しい。

 弁当の時間は、腹だけじゃなくて気持ちにも効く。誰かの唐揚げの匂いが風に乗って移動し、違う班の輪から「ひとつあげるよ」が飛んで、戻ってきた声が「次は交換な」になって、笑い声はさらに丸くなる。こういうのを守りたい。戦いの理由は、だいたいこういうところに落ちている。

 そのとき。

 遠くの林で、カラスが一斉に飛び立った。

 音は一瞬だけ重なって、すぐ風の音に紛れる。けれど、耳に残る違和感は消えない。

「……風の流れが変だ」

 蓮が顔を上げる。その横で春斗の背筋も、勝手にまっすぐになっていた。空気の張り具合が、さっきまでと違う。夏休みのプールに入る前、水面に触る瞬間みたいな、薄膜の温度差。

 草むらの向こうで、黒い布が一度だけ揺れた。

 誰かのコートの裾、というよりは“気配の付箋”が貼られた感じ。目がそこへ吸い寄せられる。

「来たか」

 春斗が立ち上がる。足が自然に前へ出る。胸の前に板が薄く置かれ、呼吸の場所がひとつ深くなる。

「まさか、ここまで……!」

 雪乃が息をのむ。

 蓮は迷わず指示へ切り替えた。「芽衣は先生に連絡。雪乃は生徒を避難させろ。春斗は前」

「了解!」

 芽衣はすでにスマホを肩と頬で挟んで、担任と話し始めている。声は落ち着いていて、でも歩幅は広い。避難導線を頭の中で引く音が聞こえるみたいだ。

 木々の間から三人。黒薔薇の残党。

 顔は前に見た連中と違うが、目つきは同じだ。冷たいのではなく、温度という概念がない瞳。

「やあ、ゼロヒーロー。久しぶりだな」

「名前、気に入ってねぇんだよ」

「なら、終わりにしてやる」

 男のひとりが手を振ると、空気が裂けた。木の葉が逆向きに舞い上がり、砂が表面だけざらりと浮く。遊歩道の案内板が鳴る。

 春斗は前へ飛び出す。胸の前、肩の前、膝の前。三枚の板を三呼吸で置く。

 衝撃が当たるたび、足裏が地面に沈む。芝の根が踏みつけに耐えるみたいに、筋肉が踏ん張る。

「絶対に通さない!」

 雪乃は両手を上げ、薄い氷の帯を遊歩道に引いた。すべらない霜。人が走っても転ばない舗装。

 蓮は木の枝を足場に高く跳ぶ。着地の瞬間、地面の角度を使って一撃を入れ、すぐに距離を外す。相手の視線だけを奪い、時間を買う。

「先生、来るまであと三分!」

 芽衣が叫ぶ。息が切れていない。走りながら電話を切り、笛を取り出し、短く二回、長く一回。〈短短長〉——避難動線の合図。班のリーダーたちが反射的に立ち上がり、生徒の輪が南側の広場へと動き出す。鳩の群れじゃない。訓練済みの人間の流れだ。

「三分持てばいい!」

 春斗は返事をしながら、半球を作り始めていた。板の端と端をくっつけず、間にわずかな“出口”を残す。受け止めるのではなく、逃がす。

 男のひとりが小石を蹴って飛ばす。弾丸みたいな速度で、頭の高さへ。

 春斗は半歩だけ顔を右にずらし、頬の横で板を傾けた。石は角度を失って、後ろの土に音もなく吸い込まれる。

「チッ」

 男の舌打ち。

「スローインは受け付けてない」

 春斗の口からつい出た軽口に、自分で驚く。緊張の角が丸くなる。角は丸いほうが折れにくい。

「君が前なら、後ろを壊す」

 別の男が、レジャーシートの群れへ向かって走った。

 雪乃がそちらへ体を向ける。霜の帯が一瞬で弧を描き、男の足首の前で“引っかかり”を作る。スピードが殺され、蓮が横から肩をぶつけて軌道をずらす。

「避難、続けて!」

 芽衣がスピーカー代わりの拡声器を先生から受け取り、落ち着いた声で促す。「走らないで、大きく歩いて。南の広場へ。荷物はそのまま、後で取りに戻すから」

「鍵を渡せ」

 黒薔薇のリーダー格らしい男が、雪乃を見ながら低く言う。

「いや」

 雪乃は短い言葉で拒否する。その声は震えていない。

「鍵は、人と人の間にある。あなたは奪えない」

 男の眉がわずかに動く。

 春斗は雪乃の前に、“前室”みたいな小さな丸を追加した。外殻は受け流し、内殻は吸って返す。二重の半球。

 打ち込まれた衝撃は、外で角度を失い、中で熱をなくし、土へ帰る。

 ふいに、遠くで笛の音が重なった。別班からの合図だ。先生の声も近づいてくる。

「あと一分!」

 芽衣の声は、数字を言わないで時間を伝える才能を持っている。みんなの足が、無理のない速さで速くなる。

 黒薔薇の三人は、連携を変えた。正面からの圧を減らし、両側からのフェイントを増やす。

 春斗は入口と出口の位置を微調整しながら、半球の形を保つ。呼吸は荒いが、足の震えは悪くない。使える震えだ。

「春斗!」

 雪乃が背中に手を当てる。体温が板の向こうへ染みて、ひびが自然に埋まっていく。

「いける」

「いける」

 最後のひと押し。

 リーダー格の男が地面を蹴った。空気が固くなり、前へ押し出される。

「終わりだ」

「終わらせない」

 半球の外殻をさらに低く。入口を噴水の位置にずらし、出口を岩場の陰へ落とす。勢いを逃がす先で、蓮が膝の角度を使って受け、麗央——いつの間にか到着していた副会長——が横から足を払う。

「遅れて参加。出席だけ」

「点は甘くしない」

「そこは甘くして」

 衝撃が小刻みに分解され、空気の重さがほどける。

 先生たちの黄色い腕章が、木陰から次々と現れた。笛、誘導棒、無線の声。人の輪がさらになめらかに広場へ流れていく。

 黒薔薇の三人は、顔を見合わせた。判断は速い。撤退の角度。

「続きは夜だ」

「昼も夜も、こっちの都合で終わらせる」

 春斗は短く返す。挑発じゃない。ただの宣言。

 三人は木の間を抜け、斜面を軽く駆けて消えた。残ったのは、立ち上がる落ち葉の匂いと、子どもの泣き声と、安堵のため息。先生が「大丈夫か」と肩に手を置き、保健係が絆創膏を配り、遅れて状況を理解したクラスメイトが「何があったの」と目を丸くする。

 しばらくして、林は静かさを思い出した。

 水の音が戻り、鳥の声が小さく揺れて、風が芝生を撫でていく。

 雪乃が肩で息をしながら、春斗の横に立った。頬は上気しているのに、目は透き通っていた。

「やっぱり、春斗くんがいると安心する」

「守るのは得意だからな」

 言ってから、少し照れた。得意なんて言えるほど上手じゃない。けど、言葉として置く。置けば、そこに立てる。

 芽衣が走ってきて、両手でグッと親指を立てた。「先生から伝言。『よくやった。あとで事情聴取な』」

「誉めてるのか怒ってるのかわからんやつ」

「両方だね。私は誉めに全振り。よくやった。写真は後で選ぶ」

 蓮は木陰から出てきて、空を見上げた。

「これで一件落着……と言いたいところだが、次の嵐の前の静けさかもしれない」

「どんな嵐でも、守りきる」

 春斗は拳を握る。握った手の中に、薄い板が一枚、ちゃんと置けている感覚があった。

「入口と出口、俺が決める。今日は入口を狭く、出口を広くした。今度は逆かもしれない。でも、決められる」

 雪乃がうなずく。

「私も、帯をどこに伸ばすか決める。すべらない道、すぐ作る」

「俺は刺さる場所を選ぶ。矢は無駄に多く撃たない」

 蓮の言葉は相変わらず短いのに、腹に残る。

「私は全部ログって、次に活かす。昼ご飯の写真も含む」

「そこは活かすな」

 笑いがまた、草の上を転がる。笑いは、戦いの余熱をほどく。ほどけたところに、次の力が入る。

 雲の切れ間から、光が差した。

 木の幹の皮のひびがくっきりして、葉の縁が白く縁取られる。水たまりが小さな空を抱えて、そこに風がさざ波をつくる。

 春斗はふと、青さの深い方へ目をやった。

 光の中を、黒い羽がひとひら、ゆっくり舞っていく。誰かが落とした印のように。

 戦いは、まだ終わらない。

 だけど——帰ってくる場所はある。レジャーシートの上に残った梅干しの赤、海苔の端の湿り、ペットボトルの冷たさ、笑い声の落ち着き。

 それを守るのが、今の自分の仕事だ。

「さ、午後の自由時間だってさ」

 芽衣が腕をぐるぐる回す。「吊り橋と展望台、どっち行く?」

「吊り橋、揺らすなよ」

「揺らす前提で話が進んでるのやめろ」

 雪乃が小さく笑って、春斗の袖をつまんだ。

「一緒に行こう」

「ああ」

 歩き出す。

 足元の土はやわらかく、靴の跡が一瞬だけ残って、すぐ風に消える。

 消えた跡を見て、春斗は心の中で薄い板をもう一枚置いた。

 折れない。

 怖さは前室に置く。

 手は空けておく。

 その手で——守る。

 吊り橋の真ん中、風が少し強く吹いた。

 ロープの軋む音が、なぜか心地よかった。

 見上げた空は、やっぱり無駄なく青かった。

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