表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
才能ゼロと言われた俺が、学校一の美少女を守るまで――点数はビリ。だけど、君を守る時だけ俺は最強だ。  作者: 妙原奇天


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

15/26

第15話 折れない心

 装置の唸りが、腹の底で鳴る太鼓みたいに重くなった。

 赤い光は濃さを増し、床の溝を血管のように走っていく。古い鉄骨がかすかに震え、壁から砂がぱらぱら落ちた。空気の粒がざらついて、喉の奥に鉄の味が広がる。


「強いな。だが、若い」


 黒薔薇のボスが、まるで感想を言うみたいに拳を流した。

 蓮の頬をかすめて、乾いた音が一つ。蓮は一歩、滑らかに下がる。踏み替えは早い。すぐに構え直して口の端を上げる。


「それ、褒めてないだろ」


「事実だと言っている」


「なら、その“事実”を上書きする」


 蓮の踏み込みがさらに鋭くなる。打撃が連ねられ、角度が変わっていく。ボスは小さなひねりだけでいなす。肩が揺れない。足音が鳴らない。その静けさが、いちばん怖い。


 脇では芽衣が、床下から伸びる配線の束を探り当てていた。

 膝をつき、ペンチをぐっと握る。汗が額から顎へ落ち、シャツの襟に消える。


「あと少し……! 太いの、いた。こいつ、主犯格の顔してる」


「顔で判断するな、でも切れ」


「切るとも!」


 芽衣のペンチが弧を描いて、赤い光をかすめる。金属の短い悲鳴。一本、断たれた。唸りが一拍だけ途切れて、また戻る。

 春斗は、その揺れを胸で受け止めながら前に立つ。背中側の気配に、雪乃がいる。


「持つ?」


 雪乃の声は震えていない。でも、手のひらの温度は高い。背中の左肩甲骨のあたりに、彼女の指先がそっと触れる。その一点で、板がわずかに厚くなる。


「持つ。俺は守るためにここにいる」


 言葉を言うたび、胸の前の見えない板が定位置に戻る。

 足元に作った“橋”は、光の川の上でかすかに揺れた。支えは薄い。けれど、薄いものはしなって折れにくい。そう習ったわけじゃない。でも、体は知っている。

 汗が目に入って視界がにじむ。肘の内側が熱い。喉が乾く。

 それでも、前へ。

 弱いのは腕じゃない。弱いのは、あきらめる心だ。そこだけ折らなければ、まだ進める。


 ボスが蓮を払いのけ、台座に手を伸ばした。わずかに指が沈んで、赤が濃くなる。


「やらせるか!」


 春斗は声を荒げ、自分でも驚くほど速く一歩踏み出した。

 橋をぐっと広げ、ボスと台座の間に“壁”を立てる。

 拳が壁に当たった。鈍い重さが腕に食い込み、足が滑りそうになる。背中で雪乃の力が重なり、壁が厚みを取り戻した。二人分の呼吸が合った瞬間、壁のひびは音もなくふさがり、光が少しだけ強くなる。


「……君たち、ほんとうにしぶといな」


 ボスの目に、わずかに興味が灯った。余裕の灯じゃない。未知のものを測る目。

 蓮がその隙に、台座の裏へ身体を滑り込ませる。手探りでスイッチのカバーをこじ開ける。


「芽衣!」


「はいよ!」


 芽衣が配線の束を持ち上げ、息を詰めた顔で叫ぶ。


「これだと思う! 三、二、一!」


 ペンチが閃き、太いコードがぶつりと切断された。

 装置の唸りが一瞬だけ弱まる。だが、次の瞬間、赤い光が渦を巻き、今度は色が反転して黒く沈んだ。近くの空気が急に冷える。皮膚が鳥肌をつくる。


「逆流……?」


 蓮が眉をひそめ、指先で振動を確かめる。

 ボスが口の端だけで笑った。


「甘い。これは止められない。鍵の“持ち主”が決めることだ」


 視線が雪乃のペンダントへ落ちる。

 雪乃は一歩前に出て、ペンダントを胸の前で握りしめた。手の甲に薄い血の気。目は強い。


「私が決める。人を傷つけるために使わせない」


 ボスの笑みが消える。顔の余白が、すうっと削れた。


「では、証明してみろ」


 空気が一段張り詰めた。工場の音が遠のく。光の川のさざなみだけが、耳の裏でかすかに鳴っている。

 春斗は雪乃と目を合わせる。うなずく。

 行く、と決める。決めてから動く。


「俺が前に立つ。雪乃は、決めろ」


「うん」


 ボスが踏み込む。前触れのない、重い一撃。

 春斗は受け止め、後ろ足で床を蹴った。全身が軋む。背骨が一本一本、目を覚ます。

 倒れない。倒れたくないから、倒れない。理由はそれで十分だ。


「なぜ立つ?」


 ボスの問いは低く、床の音に紛れるように落ちた。

 春斗は歯を食いしばり、短く答える。


「守りたいから」


 言葉は薄い。けれど、薄い言葉は板になる。位置を決め、角度を決める。


 雪乃がペンダントを掲げた。

 銀の小さな光が、天井の鉄骨に跳ね返り、何度か折り返して春斗の頬に落ちる。


「この鍵は、私のもの。——いや、私の“決意”の形」


 その声は震えていない。震えが別のところへ流れた声だ。

 春斗の口元が勝手に笑う。


「そうだ。鍵は、雪乃だ」


 ボスが再び押し込む。

 壁が軋む。腕が震える。手のひらに汗が滲み、指が滑りそうになる。

 雪乃の手が背中で熱くなる。伝わってくる温度が、板に弾力を与える。

 蓮が低く叫ぶ。


「行け!」


 芽衣が最後の配線へペンチを入れる。

 金属が叫び、装置が大きくうなって、ふっと光を落とした。

 工場に暗闇が戻る。音が、夜の音に戻る。遠くの川の水音。鉄骨が疲れたみたいに鳴る声。

 同時に、ボスの拳が壁を割った。衝撃が春斗の胸を打つ。視界が白く弾け、足が床から抜ける。

 背中が床にぶつかる。空気が肺から逃げて、世界が一度だけ無音になる。

 遠くで雪乃の声が裂けた。

 視界の端で、黒い影が雪乃へ向かうのが見える。


 体が、勝手に動いた。

 痛みも恐怖も、いったん机の端に置く。今は要らない。あとで取りに行けばいい。

「やめろおおおお!」


 叫びは不思議と真っ直ぐ出た。喉が焼けているのに、声は詰まらない。

 春斗は飛び起き、身体ごとぶつかる。

 ボスの腕とぶつかって骨がきしむ。痛い。けど、構わない。

 雪乃の前に立つ。そこだけは、譲らない。


 胸の奥で、何かがカチリとはまった。

 眠っていた引き出しの鍵が、今になって回ったみたいな感覚。

 壁が、以前よりも広く厚く、静かに立ち上がった。板は板のまま、でも質が変わる。薄さはそのままに、たわみが増える。押されても折れない“弾み”が宿る。


 ボスが一歩退いた。口の形だけが薄く笑う。


「……面白い。ゼロが壁を覚えたか」


「ゼロじゃねぇよ。こいつは、守りにかけちゃ満点だ」


 蓮が肩で息をしながら笑う。血の味をもう気にしていない笑いだ。

 芽衣が泣きながら叫ぶ。


「春斗! 生きてる!? 生きてるって言え!」


 親指を立てる。笑ってみせる。痛くて顔が引きつるけど、笑える。

 雪乃が目に涙をため、袖をつかむ。その力は弱くない。支え合う手の強さだ。


「ありがとう」


「まだ、終わってない」


 春斗は息を整え、短く言う。息は短い方が強い。

 ボスは表情を消し、コートの裾を払った。煙のように余分が消える。


「確かに。だが、今日はここまでだ。次は“街”で会おう」


 言い残し、影は暗闇へ下がっていく。靴音が壁の向こうで消える。

 少し遅れて、遠くからサイレンの音。先生たちの声が風に乗って近づく。

 春斗はその場に座り込み、天井の暗がりを見上げた。

 痛い。けれど、折れていない。胸の奥の火は、さっきより確かに強い。燃料は、たぶん、さっきの決意だ。


 雪乃がそっと手を握る。

 温かい。

 この温度が、ここに立てる理由の中心だ。言い換えれば、これが自分の力の“鍵穴”だ。鍵の形は人の数ぶん違って、鍵穴もまた、ひとつずつ違う。だから奪えない。だから守れる。


     ◇


 先生たちが駆けつけ、状況が手際よく整理されていく。封鎖のテープが張られ、懐中電灯が床の粉塵を照らす。

 芽衣は、緊張がほどけてから遅れて涙を拭いた。拭きながら、いつの間にか笑っている。


「はー……心臓、今日だけで一年ぶん働いた。残業代、出る?」


「青春手当で精算だ」


「うちの会計、絶望的に現物支給」


 蓮が苦笑して、台座の残骸に最後の確認を入れる。雪乃は氷の薄膜で溝を封じ、ペンダントを胸の内側にしまった。

 ボスの言った「次は街で」というフレーズが、四人の頭に同じ形で残っている。街は広い。逃げ場にもなるし、巻き込む危険もある。


「街、か……」


 春斗が呟く。

 光のない工場の天井の向こうに、無数の窓の灯りがある気がした。屋台の湯気、信号の青、コンビニの白。人が普通に暮らしている色だ。


「場所が広くなるってことは、守る範囲も広くなる。板、足りる?」


 芽衣が覗き込む。

 春斗は自分の掌を見て、握って、開く。

 板は見えない。でも、置ける。薄いから、何枚でも重ねられる。輪があれば、さらに広がる。


「足りるようにする。——足りるまでやる」


「言ったな。録音しといた」


「勝手に録音すんな」


「青春はだいたい録音不可避」


 蓮が短く笑って、いつもの調子に戻した。


「撤収。飯、風呂、寝る。明日は朝練。街での“置き方”を詰める。逃げる道、守る場所、連絡の線。全部、朝に置く」


「了解」


 返事は三つ。声は揃っていないのに、気持ちは合っていた。

 工場を出ると、夜風が体の熱をやわらげた。空には雲が薄く、星は昨日より少し多い。たぶん気のせい。けど、いい気のせいだ。


     ◇


 帰り道の途中、橋の欄干で小休止。

 川の匂いが上がってくる。遠くに電車の音。街の灯りが水面に揺れて、短い波で崩れては、すぐ新しい灯りになる。


「……さっき、折れそうだった?」


 雪乃が横顔のまま訊いた。

 春斗は正直にうなずく。


「折れそうだった。胸、割れたかと思った。今も正直、痛い」


「うん」


「でも、折れなかった。折れないって決めたから」


「決めて、置いたからね」


「そう。置いたから」


 雪乃は欄干の上で指をならし、ペンダントを上着の内側から一度だけ確かめてから言う。


「私の“鍵”、私の“決意”。それを使うとき、私ひとりじゃ足りない時があると思う。怖い時、迷う時。——その時も、手を貸してくれる?」


「貸す。背中でも、肘でも、肩でも」


「レンタル料金は?」


「笑顔で」


「安い」


 ふっと二人で笑う。

 芽衣が後ろから顔を出した。


「延長料金はポテト大盛りで、どうですか」


「店か」


「青春は屋台です」


 蓮が咳払いで会話を閉じる。笑いの終わらせ方も、チームで上達してきた。


     ◇


 寮に戻って、シャワーの音が壁越しに響く。

 春斗はベッドに腰を落とし、天井の木目を眺めた。呼吸を三つに分ける。吸って、置いて、吐く。

 痛みはまだある。けれど、痛みは今日の足跡だ。明日の足場にはしない。足跡は後ろに残す。足場は前に置く。


 ポケットから、小さなメモ紙を出す。蓮がくれた練習メモの切れ端だ。そこに、今日の“合わせ目”を書き足す。


・板は薄く。薄いほどしなり、しなりは続く力になる。

・輪は板の“次の空気”に置く。遅れず、先走らず。

・言葉は板。決めてから動く。

・痛みは印。目印にする。足場にはしない。

・約束の手は、鍵穴。熱は合図。


 書いていると、指先からさっきの温度が戻ってくる。

 雪乃の手の温度。芽衣の合図の光の温度。蓮の短い言葉の温度。

 温度は、熱いだけじゃない。心の中で、薄い板のしなり方を変える。硬くならない。たわんで戻る。


 枕元で携帯が震えた。グループのチャットに蓮から短いメッセージ。


〈明日、朝。校庭。五時半。〉


 その下に芽衣が即座にスタンプ代わりの文章を投げる。


〈了解。眠い。けど青春は早起き。〉


 雪乃の返事は短い。


〈行く。〉


 春斗は、返す。


〈行く。〉


 四つの「行く」が、たったそれだけなのに、背中を押してくれる。

 目を閉じる。暗闇は黒くない。今夜の暗闇は、どこか青い。

 ——街で、また来る。

 ボスの声が、遠くで薄く響く。

 いい。来い。来たら、また置く。

 板を一枚、輪を一つ。三呼吸。


「折れない」


 誰に言うでもなく呟く。

 その言葉は、今日いちばん薄く、そしていちばん強い板になった。


     ◇


 夜が少し動いた。

 遠くの雲が風で形を変える。街の灯りが入れ替わる。川の水面がちいさく笑う。

 春斗は、眠りに落ちる前に、最後の一枚を胸の前へ置いた。


 消えない。逃げない。守る。

 それから——折れない。


 決めた。

 明日の朝、また確かめる。

 朝の空気は、正直だから。

 正直な空気の中で、もう一度、薄い板と輪を重ねる。

 それができるうちは、きっと前へ行ける。

 街へ。人の中へ。約束の手の温度へ。


 目を閉じる。呼吸が静かに深くなる。

 工場で聞いた光の川の音はもうしない。代わりに、体育倉庫の砂の匂いがなぜか鼻の奥にした。

 それでいい。

 自分の“いつも”を、守りながら進む。

 そのための、折れない心だ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ