第15話 折れない心
装置の唸りが、腹の底で鳴る太鼓みたいに重くなった。
赤い光は濃さを増し、床の溝を血管のように走っていく。古い鉄骨がかすかに震え、壁から砂がぱらぱら落ちた。空気の粒がざらついて、喉の奥に鉄の味が広がる。
「強いな。だが、若い」
黒薔薇のボスが、まるで感想を言うみたいに拳を流した。
蓮の頬をかすめて、乾いた音が一つ。蓮は一歩、滑らかに下がる。踏み替えは早い。すぐに構え直して口の端を上げる。
「それ、褒めてないだろ」
「事実だと言っている」
「なら、その“事実”を上書きする」
蓮の踏み込みがさらに鋭くなる。打撃が連ねられ、角度が変わっていく。ボスは小さなひねりだけでいなす。肩が揺れない。足音が鳴らない。その静けさが、いちばん怖い。
脇では芽衣が、床下から伸びる配線の束を探り当てていた。
膝をつき、ペンチをぐっと握る。汗が額から顎へ落ち、シャツの襟に消える。
「あと少し……! 太いの、いた。こいつ、主犯格の顔してる」
「顔で判断するな、でも切れ」
「切るとも!」
芽衣のペンチが弧を描いて、赤い光をかすめる。金属の短い悲鳴。一本、断たれた。唸りが一拍だけ途切れて、また戻る。
春斗は、その揺れを胸で受け止めながら前に立つ。背中側の気配に、雪乃がいる。
「持つ?」
雪乃の声は震えていない。でも、手のひらの温度は高い。背中の左肩甲骨のあたりに、彼女の指先がそっと触れる。その一点で、板がわずかに厚くなる。
「持つ。俺は守るためにここにいる」
言葉を言うたび、胸の前の見えない板が定位置に戻る。
足元に作った“橋”は、光の川の上でかすかに揺れた。支えは薄い。けれど、薄いものはしなって折れにくい。そう習ったわけじゃない。でも、体は知っている。
汗が目に入って視界がにじむ。肘の内側が熱い。喉が乾く。
それでも、前へ。
弱いのは腕じゃない。弱いのは、あきらめる心だ。そこだけ折らなければ、まだ進める。
ボスが蓮を払いのけ、台座に手を伸ばした。わずかに指が沈んで、赤が濃くなる。
「やらせるか!」
春斗は声を荒げ、自分でも驚くほど速く一歩踏み出した。
橋をぐっと広げ、ボスと台座の間に“壁”を立てる。
拳が壁に当たった。鈍い重さが腕に食い込み、足が滑りそうになる。背中で雪乃の力が重なり、壁が厚みを取り戻した。二人分の呼吸が合った瞬間、壁のひびは音もなくふさがり、光が少しだけ強くなる。
「……君たち、ほんとうにしぶといな」
ボスの目に、わずかに興味が灯った。余裕の灯じゃない。未知のものを測る目。
蓮がその隙に、台座の裏へ身体を滑り込ませる。手探りでスイッチのカバーをこじ開ける。
「芽衣!」
「はいよ!」
芽衣が配線の束を持ち上げ、息を詰めた顔で叫ぶ。
「これだと思う! 三、二、一!」
ペンチが閃き、太いコードがぶつりと切断された。
装置の唸りが一瞬だけ弱まる。だが、次の瞬間、赤い光が渦を巻き、今度は色が反転して黒く沈んだ。近くの空気が急に冷える。皮膚が鳥肌をつくる。
「逆流……?」
蓮が眉をひそめ、指先で振動を確かめる。
ボスが口の端だけで笑った。
「甘い。これは止められない。鍵の“持ち主”が決めることだ」
視線が雪乃のペンダントへ落ちる。
雪乃は一歩前に出て、ペンダントを胸の前で握りしめた。手の甲に薄い血の気。目は強い。
「私が決める。人を傷つけるために使わせない」
ボスの笑みが消える。顔の余白が、すうっと削れた。
「では、証明してみろ」
空気が一段張り詰めた。工場の音が遠のく。光の川のさざなみだけが、耳の裏でかすかに鳴っている。
春斗は雪乃と目を合わせる。うなずく。
行く、と決める。決めてから動く。
「俺が前に立つ。雪乃は、決めろ」
「うん」
ボスが踏み込む。前触れのない、重い一撃。
春斗は受け止め、後ろ足で床を蹴った。全身が軋む。背骨が一本一本、目を覚ます。
倒れない。倒れたくないから、倒れない。理由はそれで十分だ。
「なぜ立つ?」
ボスの問いは低く、床の音に紛れるように落ちた。
春斗は歯を食いしばり、短く答える。
「守りたいから」
言葉は薄い。けれど、薄い言葉は板になる。位置を決め、角度を決める。
雪乃がペンダントを掲げた。
銀の小さな光が、天井の鉄骨に跳ね返り、何度か折り返して春斗の頬に落ちる。
「この鍵は、私のもの。——いや、私の“決意”の形」
その声は震えていない。震えが別のところへ流れた声だ。
春斗の口元が勝手に笑う。
「そうだ。鍵は、雪乃だ」
ボスが再び押し込む。
壁が軋む。腕が震える。手のひらに汗が滲み、指が滑りそうになる。
雪乃の手が背中で熱くなる。伝わってくる温度が、板に弾力を与える。
蓮が低く叫ぶ。
「行け!」
芽衣が最後の配線へペンチを入れる。
金属が叫び、装置が大きくうなって、ふっと光を落とした。
工場に暗闇が戻る。音が、夜の音に戻る。遠くの川の水音。鉄骨が疲れたみたいに鳴る声。
同時に、ボスの拳が壁を割った。衝撃が春斗の胸を打つ。視界が白く弾け、足が床から抜ける。
背中が床にぶつかる。空気が肺から逃げて、世界が一度だけ無音になる。
遠くで雪乃の声が裂けた。
視界の端で、黒い影が雪乃へ向かうのが見える。
体が、勝手に動いた。
痛みも恐怖も、いったん机の端に置く。今は要らない。あとで取りに行けばいい。
「やめろおおおお!」
叫びは不思議と真っ直ぐ出た。喉が焼けているのに、声は詰まらない。
春斗は飛び起き、身体ごとぶつかる。
ボスの腕とぶつかって骨がきしむ。痛い。けど、構わない。
雪乃の前に立つ。そこだけは、譲らない。
胸の奥で、何かがカチリとはまった。
眠っていた引き出しの鍵が、今になって回ったみたいな感覚。
壁が、以前よりも広く厚く、静かに立ち上がった。板は板のまま、でも質が変わる。薄さはそのままに、たわみが増える。押されても折れない“弾み”が宿る。
ボスが一歩退いた。口の形だけが薄く笑う。
「……面白い。ゼロが壁を覚えたか」
「ゼロじゃねぇよ。こいつは、守りにかけちゃ満点だ」
蓮が肩で息をしながら笑う。血の味をもう気にしていない笑いだ。
芽衣が泣きながら叫ぶ。
「春斗! 生きてる!? 生きてるって言え!」
親指を立てる。笑ってみせる。痛くて顔が引きつるけど、笑える。
雪乃が目に涙をため、袖をつかむ。その力は弱くない。支え合う手の強さだ。
「ありがとう」
「まだ、終わってない」
春斗は息を整え、短く言う。息は短い方が強い。
ボスは表情を消し、コートの裾を払った。煙のように余分が消える。
「確かに。だが、今日はここまでだ。次は“街”で会おう」
言い残し、影は暗闇へ下がっていく。靴音が壁の向こうで消える。
少し遅れて、遠くからサイレンの音。先生たちの声が風に乗って近づく。
春斗はその場に座り込み、天井の暗がりを見上げた。
痛い。けれど、折れていない。胸の奥の火は、さっきより確かに強い。燃料は、たぶん、さっきの決意だ。
雪乃がそっと手を握る。
温かい。
この温度が、ここに立てる理由の中心だ。言い換えれば、これが自分の力の“鍵穴”だ。鍵の形は人の数ぶん違って、鍵穴もまた、ひとつずつ違う。だから奪えない。だから守れる。
◇
先生たちが駆けつけ、状況が手際よく整理されていく。封鎖のテープが張られ、懐中電灯が床の粉塵を照らす。
芽衣は、緊張がほどけてから遅れて涙を拭いた。拭きながら、いつの間にか笑っている。
「はー……心臓、今日だけで一年ぶん働いた。残業代、出る?」
「青春手当で精算だ」
「うちの会計、絶望的に現物支給」
蓮が苦笑して、台座の残骸に最後の確認を入れる。雪乃は氷の薄膜で溝を封じ、ペンダントを胸の内側にしまった。
ボスの言った「次は街で」というフレーズが、四人の頭に同じ形で残っている。街は広い。逃げ場にもなるし、巻き込む危険もある。
「街、か……」
春斗が呟く。
光のない工場の天井の向こうに、無数の窓の灯りがある気がした。屋台の湯気、信号の青、コンビニの白。人が普通に暮らしている色だ。
「場所が広くなるってことは、守る範囲も広くなる。板、足りる?」
芽衣が覗き込む。
春斗は自分の掌を見て、握って、開く。
板は見えない。でも、置ける。薄いから、何枚でも重ねられる。輪があれば、さらに広がる。
「足りるようにする。——足りるまでやる」
「言ったな。録音しといた」
「勝手に録音すんな」
「青春はだいたい録音不可避」
蓮が短く笑って、いつもの調子に戻した。
「撤収。飯、風呂、寝る。明日は朝練。街での“置き方”を詰める。逃げる道、守る場所、連絡の線。全部、朝に置く」
「了解」
返事は三つ。声は揃っていないのに、気持ちは合っていた。
工場を出ると、夜風が体の熱をやわらげた。空には雲が薄く、星は昨日より少し多い。たぶん気のせい。けど、いい気のせいだ。
◇
帰り道の途中、橋の欄干で小休止。
川の匂いが上がってくる。遠くに電車の音。街の灯りが水面に揺れて、短い波で崩れては、すぐ新しい灯りになる。
「……さっき、折れそうだった?」
雪乃が横顔のまま訊いた。
春斗は正直にうなずく。
「折れそうだった。胸、割れたかと思った。今も正直、痛い」
「うん」
「でも、折れなかった。折れないって決めたから」
「決めて、置いたからね」
「そう。置いたから」
雪乃は欄干の上で指をならし、ペンダントを上着の内側から一度だけ確かめてから言う。
「私の“鍵”、私の“決意”。それを使うとき、私ひとりじゃ足りない時があると思う。怖い時、迷う時。——その時も、手を貸してくれる?」
「貸す。背中でも、肘でも、肩でも」
「レンタル料金は?」
「笑顔で」
「安い」
ふっと二人で笑う。
芽衣が後ろから顔を出した。
「延長料金はポテト大盛りで、どうですか」
「店か」
「青春は屋台です」
蓮が咳払いで会話を閉じる。笑いの終わらせ方も、チームで上達してきた。
◇
寮に戻って、シャワーの音が壁越しに響く。
春斗はベッドに腰を落とし、天井の木目を眺めた。呼吸を三つに分ける。吸って、置いて、吐く。
痛みはまだある。けれど、痛みは今日の足跡だ。明日の足場にはしない。足跡は後ろに残す。足場は前に置く。
ポケットから、小さなメモ紙を出す。蓮がくれた練習メモの切れ端だ。そこに、今日の“合わせ目”を書き足す。
・板は薄く。薄いほどしなり、しなりは続く力になる。
・輪は板の“次の空気”に置く。遅れず、先走らず。
・言葉は板。決めてから動く。
・痛みは印。目印にする。足場にはしない。
・約束の手は、鍵穴。熱は合図。
書いていると、指先からさっきの温度が戻ってくる。
雪乃の手の温度。芽衣の合図の光の温度。蓮の短い言葉の温度。
温度は、熱いだけじゃない。心の中で、薄い板のしなり方を変える。硬くならない。たわんで戻る。
枕元で携帯が震えた。グループのチャットに蓮から短いメッセージ。
〈明日、朝。校庭。五時半。〉
その下に芽衣が即座にスタンプ代わりの文章を投げる。
〈了解。眠い。けど青春は早起き。〉
雪乃の返事は短い。
〈行く。〉
春斗は、返す。
〈行く。〉
四つの「行く」が、たったそれだけなのに、背中を押してくれる。
目を閉じる。暗闇は黒くない。今夜の暗闇は、どこか青い。
——街で、また来る。
ボスの声が、遠くで薄く響く。
いい。来い。来たら、また置く。
板を一枚、輪を一つ。三呼吸。
「折れない」
誰に言うでもなく呟く。
その言葉は、今日いちばん薄く、そしていちばん強い板になった。
◇
夜が少し動いた。
遠くの雲が風で形を変える。街の灯りが入れ替わる。川の水面がちいさく笑う。
春斗は、眠りに落ちる前に、最後の一枚を胸の前へ置いた。
消えない。逃げない。守る。
それから——折れない。
決めた。
明日の朝、また確かめる。
朝の空気は、正直だから。
正直な空気の中で、もう一度、薄い板と輪を重ねる。
それができるうちは、きっと前へ行ける。
街へ。人の中へ。約束の手の温度へ。
目を閉じる。呼吸が静かに深くなる。
工場で聞いた光の川の音はもうしない。代わりに、体育倉庫の砂の匂いがなぜか鼻の奥にした。
それでいい。
自分の“いつも”を、守りながら進む。
そのための、折れない心だ。




