第14話 影のボス
装置の赤い光が、床の線をなぞるようにじわりと広がった。
古い工場の壁が低く震え、空気がざらつく。舌の先に鉄の味が乗った気がして、春斗は歯を食いしばった。耳の奥では、聞こえるか聞こえないかの低い唸りが途切れず続いている。生き物みたいに、ここ全体が息をしている。
台座の前に立つ影が、音のない笑いを口の形だけでつくった。黒薔薇のボス。背は高いが、でかいと思わせない。無駄な揺れが一つもないせいだ。指の関節さえ、無駄づかいしない。
「この“鍵”は、人を守るために作られた。だが、弱い者は守れない。強い者だけが世界を釣り合いに導ける。……それが現実だ」
声はやわらかく、耳に優しいのに、言っていることは平手打ちみたいに冷たい。
雪乃が首を横に振った。小さな動きなのに、断るという意味だけがはっきり伝わる。
「違う。守るのは順番じゃない。強い弱いで決まらない」
ボスの目が、暗い水面の下から光るみたいに細くなった。
「理想論だ。理想はきれいだが、足場にはならない。力が足りない者は踏みつぶされる。君の家族もそうだった」
雪乃の肩が、小さく震える。指先がペンダントを握る。
春斗は前に出て、短く言った。
「黙れ」
ボスの眉が、ほんのわずかだけ上がった。
「君が口を挟むのか、ゼロくん」
「ゼロでも、守れるものがある」
「あるとして——それを証明するには遅すぎた」
ボスが片手を上げた。
空気が一段重くなる。見えない圧が背から押し寄せて、胸の前で壁になる。足が沈み、肺がきしむ。
それでも目をそらさない。背中の向こうに、雪乃の気配がある。そこへ板を置く。薄く。息を短く刻む。吸って、置いて、吐く。三つで一組。胸の奥の震えが、少し動ける震えに変わる。
「右、任せろ!」
蓮の声が斜めから飛んだ。鋭い踏み込み、連続の打撃。
ボスは体をわずかにひねるだけで、蓮の拳も蹴りもいなした。逆に近くの鉄柱を指で軽く弾く。
キィン、と細い針を束ねたみたいな音が走る。鉄柱が共鳴して、耳の奥に痛い振動が広がった。芽衣が耳をふさぎ、よろける。
「散れ!」
蓮の合図で、それぞれが振動の中心から外へ弧を描く。
春斗は雪乃の手を探し、指先だけ触れた。
それだけで胸の中の板が、ひとつ深くなる。重さが、紙一枚ぶん軽くなる。
「……いける」
小さく呟いて、足を踏み締めた。膝の笑いを黙らせる。
雪乃は息を整え、輪を細く回しはじめる。輪の縁が春斗の板の角にそっと合う。二つの守りが、段差を消すみたいに重なる。
ボスは視線だけを台座に向けた。
指先がスイッチのあたりを探る。赤が濃くなる。床の線が明滅して、光の川になる。
雪乃のペンダントが、呼応するようにわずかに震えた。銀の音がひとつ、喉の奥で鳴る。
「やめろ!」
春斗は叫び、前に出る。
見えない圧が倍になって押し寄せる。足が鉛みたいに重くなる。喉が焼ける。目の端が熱くなる。
それでも、止まらない。止まったら、後ろで約束が凍ってしまう。
「行ける!」
背中に触れた雪乃の掌が、短く告げる。
蓮は斜め後ろから援護に入り、芽衣は遠くで先生への合図を連打する。合図の光が壁に反射して、細い線で跳ねる。
ばらばらに見えて、全部つながっている。前、横、後ろ、外。息の流れのように。
一進一退。
ボスの攻撃は正確で速い。強いだけではない、迷いがない。
春斗は守るだけで精一杯だ。腕は痺れ、指の感覚が薄れていく。膝の奥が笑う。
それでも、雪乃の指が袖をつまむときだけ、背中を押されるように力が湧いた。
「不思議だね」
雪乃が息を弾ませながら、笑ったような声で言う。
「怖いのに、春斗くんの背中だと前に出られる」
「それ、こっちの台詞」
苦笑いが、喉のからからをほんの少し洗い流す。
蓮が低く短く告げる。
「次、揺さぶり来る」
言葉とほぼ同時に、床がわずかに沈み、壁の赤が波みたいに揺れた。装置の線が呼吸を始めたみたいだ。波に合わせて、影たちが踏み込みを変えてくる。
春斗は板を“面”ではなく“道”として置き直す。波と喧嘩しない。波の上に細い板を渡す。
輪が板の縁に追いついて、かすかに火花のような白を散らす。
芽衣の手拍子が短く三つ。三つで一呼吸。テンポを落とさない。落とした瞬間、波に飲まれる。
ボスはため息をひとつだけついた。そこに感情は見えない。ただの作業の続き、みたいな間。
そして、ポケットから薄い金属片を取り出した。月の光を一口すくったみたいな色。
台座の溝に、それをかざす。
「——合鍵」
雪乃の顔色が変わった。
赤い光が渦になり、床の線が光の川へ変わる。空気が歪み、音が少し遠くなる。
蓮が叫ぶ。
「装置を止めろ!」
芽衣が駆け出した。だが、床がぬるりと滑る。油ではない。光の膜だ。足を取られ、姿勢が崩れる。
春斗は一歩出て、両手を前に出す。
板の感覚を、“橋”に変える。
見えない守りが広がり、光の川に細い通り道が生まれた。
「今だ、蓮!」
蓮が橋を駆け、台座へ向かう。
ボスが、初めて正面から立ち塞がった。静かな動きなのに、隙がない。
金属の音。骨に響く衝突。蓮は力を逃がし、角度で返す。ボスは角度ごと奪う。
春斗は橋を保つために踏ん張る。足裏の砂がじわりと熱を持つ。
雪乃は背中で春斗の腰を支え、輪で橋の縁をなめらかにする。
息が浅くなる。視界がかすむ。
それでも、踏みとどまる。
「終わらせる」
春斗は歯を食いしばった。言葉を板にして胸の前へ置く。言葉の板は薄いが、位置を決めるには足りる。
ボスが片手で蓮の打撃を受け流し、もう片方の手で台座の側面を叩いた。
鈍い音。台座の下から黒い煙が立ち上がる。視界が詰まる。
煙は目に痛くないのに、見通しだけを奪う種類のいやらしさだ。
「春斗、橋、下げるな!」
「下げない!」
喉の奥で返し、体の前で板の高さをわずかに低くする。低い橋は揺れに強い。
煙の向こうから、ボスの声が滑ってくる。
「君の“ゼロ”は、確かに守りやすい。だが、守るだけでは遅かれ早かれ破綻する。守るには“終わり”がいる。終わりを作れる者が、世界を選べる」
「世界、世界ってうるさいんだよ」
芽衣が煙の中でむっと言って、携行ライトを点けた。白い光が煙を裂き、筋をつくる。
その筋が、春斗の橋と重なる。一本の道が、二つの働きで太くなる。
「終わりは、勝手に決めないでいい。こっちの“終わり”は、こっちで選ぶ」
「選べるだけの力があるなら、な」
ボスの姿が、煙の薄いところでちらりと見えた。
蓮の肩口に影が伸びる。
春斗は橋の縁を斜めにずらし、影の重さを受け流す。受け流し切れなかった分が肩に乗る。熱い痛み。
雪乃の手が肘を支える。途端に、板のしなりが少し増す。
蓮の足の運びがひとつ速くなる。台座の縁へ滑り込み、下に腕を差し入れた。
ミシ、と細い悲鳴。
台座の中の心臓みたいな振動が、ほんのわずかに弱くなる。
赤の渦が、紙が湿気を吸ったみたいに重くなる。
「もう一本!」
蓮が短く叫ぶ。
芽衣が光の筋をわずかにずらし、蓮の手元へ照らす。
春斗は橋の高さをさらに落とし、波の上下に板の角度を合わせる。足の裏の汗が靴に染みる。
黒い煙がまた濃くなる。
ボスの声が、今度は近くから。
「君の“鍵”は、物じゃない。形ではない。——人の間だ」
春斗は、思わず笑った。笑いは短く、肩の力をほんの少し抜く。
「それ、さっき自分で言ってた」
「君の口で言わせたいんだよ」
「言わない。恥ずかしいから」
雪乃が小さく笑い、息が整う。その息が背中から板へ伝わって、板の位置がまた半歩だけ良くなる。
蓮の指がもう一本のケーブルをつまむ。
ミシ、とまた悲鳴。
赤の渦がほどけ、床の線がいったん暗くなった。
その瞬間、ボスの目が初めて揺れた。
揺れはすぐに消え、代わりに薄い怒りの色が縁に滲む。
「場所を変えればいい。夜はいくらでもある」
「夜は明ける」
芽衣が即答する。迷いのない声だった。
ボスの指がわずかに動き、影が天井へ走った。
鉄骨の上で何かが外れる音。次の瞬間、鎖の束が落ちてくる。
春斗は板を高く掲げ、雪乃は輪を縦へ回す。
ガン、と重い衝撃が連なり、腕が痺れる。爪の間に汗がしみる。
蓮が台座から転がるように離れ、芽衣が春斗の背を押して位置を入れ替える。
「下がる! 先生、こっち!」
芽衣の合図が再び明滅する。
扉の向こうから、重い靴音と短い笛。外の大人たちが近い。
ボスは肩をすくめ、台座に背を向けた。影が彼の周りに集まり、煙に混ざって薄くなる。
「ここは捨てる。鍵は、また呼ぶ」
「呼ばれて行く気ないんだが」
芽衣の毒舌が煙に刺さる。
蓮は短く息を吐いた。
「追うな。優先は退路の確保と、装置の無効化」
「任せて」
雪乃は輪を台座の溝に滑らせ、薄い氷で細工の線を塞いでいく。
春斗は板で煙の流れを区切り、視界の道を確保する。
芽衣は出口へ先生たちを手招きし、合図の光を止める。
台座は、それっきり光らなかった。
赤の代わりに、ただ黒い円が残る。
黒い円は、やけに静かだ。静かすぎて、逆に音が聞こえる。昼に見た夢の、粉みたいな光の落ちる音。遠い泣き声。
春斗は一瞬だけ目を閉じ、胸の中に薄い板を一枚、置いた。
「撤収する。報告と封鎖を先生に引き継ぐ。——全員、動けるな」
蓮の声に、それぞれが短くうなずく。
先生の姿が現れ、周囲の安全確認の声が飛ぶ。
芽衣が小さく肩を落として、それでも笑った。
「やった、のかな。初めて“逃げるが勝ち”が勝ちっぽく聞こえる」
「逃げるは守るの妹、ってやつ」
「勝手に家系図を作るな」
雪乃はペンダントを握り、春斗を見た。
目は揺れていない。揺れていないけど、奥の方で小さな波が生まれては消える。
「合鍵があった。つまり、どこかに“作った人”がいる。私たちが知らない誰か」
「その誰かが、ボスの後ろにいる」
蓮の言葉に、春斗は喉の奥でうなずいた。
さっきのボスの目は、最後まで“誰かのため”の目だった。自分のためだけなら、あんな冷たい丁寧さは要らない。
「春斗」
蓮が呼ぶ。
春斗は視線を向けた。蓮の目には、疲れと、ほんの少しの笑い。
「今夜は勝ち。だが、次はもっと深い。場所を変える、と言った。別の顔で来る。鍵は物じゃない。——人と、人の間にある」
「だから壊せない。奪えない。……だから、守れる」
雪乃が言った。
その声は強くはないけれど、まっすぐだった。
芽衣が両手を腰に当てる。
「要するに、青春が鍵」
「要約が乱暴」
「乱暴は勢い。勢いは青春」
笑いが漏れる。
重い空気が少しずつ薄くなり、工場の外の空気が入ってくる。川の匂い。街の灯り。人の暮らしの音。
春斗は空を見上げた。
雲が切れて、一番星が早めに瞬く。今日の星は、いつもより近い。いや、近く見えるだけだな、と自分で突っ込む余裕が戻る。
「終わってない。でも、進んだ」
「うん」
雪乃の返事は短い。短いのに、胸のどこかにちゃんと届く。
ペンダントが衣擦れで小さく鳴り、銀の音がひとつ、夜に落ちた。
先生から簡単な事情聴取を受け、封鎖のテープが張られていくのを見届けて、四人は邪魔にならないように離れた。
歩き出して、校門の方へ戻る。足の裏がじんわり痛い。痛みは今日の足跡だ。
道の角で、蓮が立ち止まる。
「各自、風呂、飯、寝る。——明日は、朝練」
「はい先生」
芽衣が即答して、親指を立てた。
雪乃は春斗の袖を指でつまむ。
春斗は振り向く。
「なに」
「さっき、背中、ありがとう」
「こちらこそ。肘、ありがとう」
「じゃあ——」
雪乃が言いよどみ、ちょっとだけ顔を赤くする。
春斗は待った。急がないほうがいい約束もある。
「——明日も、背中お願い」
「了解。背中は貸し出し無料」
「延滞料金は?」
「笑顔で」
「安い」
芽衣が「青春税」とか意味のわからないことを言い、蓮が「課税権はない」と冷静に突っ込む。
笑いが夜にほどける。
春斗は胸の中の板を、もう一度置き直した。
薄い板。薄いから、何枚でも重ねられる。薄いから、広くもできる。
自分の“ゼロ”は空白かもしれない。でも空白は、何かを置ける余白だ。
守るものが増えたら、そのぶん板を増やせばいい。輪を合わせれば、もっと広くなる。
分かれ道で手を振り、ひとりになってから、春斗は小さく息を吐いた。
疲れが背骨に降りてくる。夜風が汗を冷やす。やっと、怖さに名前がつく。
でも、その怖さは、さっきよりも少し、扱いやすい。
約束の手の温度が、まだ残っているからだ。
——鍵は、君の中だ。
ボスの言葉は、悔しいけれど、たぶん正しい。だからこそ、こっちの言葉で上書きする。
消えない。逃げない。守る。
決めてから動く。
今夜、その決め方は間違っていなかった。
なら、明日の朝も同じように決める。
朝の空気は正直だ。正直な空気の中で、また板と輪を重ねればいい。
その先に、きっと“終わらせ方”が見える。
空を見上げる。星はさっきより増えていた。
大げさに言えば、世界は今日も続いている。
それで十分だ。続いてくれれば、何度でもやり直せる。
春斗はうなずいた。誰にでもなく、夜に。自分に。
歩き出す。
靴底が、道の砂を薄く押した。
ひとつ、ふたつ、みっつ——息を合わせて。
そのたびに、胸の中の板が、静かに鳴った。
薄い音。だけど、はっきりした音。
その音を確かめながら、春斗は家路をたどった。
明日の朝、もう一度。
それでいい。
そこから、また前へ。




