第12話 決意の朝練
夜の名残りをまだ少しだけ吸い込んだ校庭に、靴底が砂を押す音がぽつ、ぽつと刻まれていく。
朝の空気はやたらと正直で、吸い込むと肺の奥まで「冷たいです」と自己紹介してくる。頬がきゅっと強張る。鼻の奥がじんわり痛い。けれど、それがいい。眠気をごまかす余地がない。
「よし、もう一回」
声に出すと、体が返事をする。
昨日、蓮から教わった防御の構えを、頭じゃなく背骨に刻み直すつもりで繰り返す。足幅を指一本ぶん広げ、膝をわずかに緩めて重心を落とし、相手の攻撃を正面で止めず、板を薄く“ずらして置く”。肩は力を抜く。抜けた肩を肘で受け、胸で引き受けない。
——受けるんじゃない。通り道を一本変える。
蓮の声が、昨日の夕方の空気ごと背中に貼りついている。
校庭の砂は正直で、ミスをするとすぐに証拠を残す。
派手に転べば尻に、控えめに崩れれば手のひらに、砂の名刺がびっしり配られる。今朝はすでに何枚ももらった。指に砂が噛んで、皮膚の細いところがひりつく。それもいい。痛みは「そこ、力が入ってるぞ」と教えてくれる。
「強くなる。守るだけじゃなく、みんなを支えられるくらいに」
口にして、また動く。
呼吸は三つを一組。吸って、置いて、吐いて。三呼吸で板の角度を一つ決める。角度は薄く。厚くしたくなるのを、敢えて飲み込む。
足の親指に砂の重さ。かかとに“きっかけ”の余白。目は相手ではなく空間を見る——相手が来る“前の場所”を置くように。
イメージの相手が突っ込んでくる。肩。肘。視線。三つの合図のうち、どれか二つが揃った瞬間に、板を前へ半歩。
ころん、と転んだ。
砂が朝日でわずかに湿っているせいで、滑りが途中で止まる。肘を打つほどじゃない。転び方がうまくなったのは、できれば特技に数えたくない。
「すごいね。朝からずっと練習してる」
背中に、湯気の匂いと一緒に雪乃の声が落ちてきた。
振り向くと、校舎の影から彼女が出てくる。スニーカー。パーカー。いつもよりも動きやすい格好。手には紙コップ。白い湯気が、朝の冷たさに細くほどける。
「見てたのか」
「うん。……無理はしないでね」
「大丈夫。痛いけど、もう怖くない」
「こわくないって言えるの、けっこうすごい」
雪乃は笑って、お茶を差し出した。
紙コップを両手で包むと、指にじわっと温かさが広がる。体の中の冷たいところへ、誰かが灯りを点けて回ってくれているみたいだ。
「ありがと。これは何茶?」
「秘密」
「毒ではないよな」
「解毒剤つき」
「怖いわ!」
ふたりで笑う。笑いの隙間から、校庭の遠くの朝練の掛け声が届く。野球部の金属バットが空を割く音、サッカー部のボールを叩く音。音の一つ一つが「今日が始まる」って案内してくれる。
「もう一回、見る?」
「見る。輪の回転、あとで合わせるから」
雪乃は少し離れて立ち、体の重心をさりげなく落とした。
彼女が“見る”ときの目は、何かを選ぶようでいて、切り捨てない。必要のない情報をやわらかく横へ流す。輪の回転数を決める準備——そんな目だ。
春斗は板を置く。置きながら、自分の手のひらに“昨夜の夢”の残りを探す。暗い森、粉みたいな光、泣き声。
——消えた。
夢の最後で、確かに自分が消えた。雪乃が言った「そのあと……春斗くんが消えた」の言葉が、ぜい肉みたいに心に残っている。消えてもいいものはたくさんあるけれど、自分が消えるのは困る。残すべきは、約束だ。
砂の上に板を薄く一枚。
右に半歩ずらして、もう一枚。
息を吸って、吐く。三呼吸が一組み。
雪乃が頷いた。輪を小さく、指の先で回す。回る速度が板の縁の速さに合う。合った瞬間、空気の手ざわりがわずかに変わった。
そこに——
「朝から根性だな」
蓮の声が、影を引っ張ってきた。
ジャージの上からウィンドブレーカー。手にはメモ。足取りは走ってないのに速い。
「まあ、クセになって」
「いいクセだ。お前の強さは“守る心”だ。それを鍛えろ。攻めは俺がやる」
「頼む」
「頼まれた」
蓮は短く笑ってから、雪乃の手首の角度に目だけで合図を送る。
輪の回転数が一段落ち、板と重なる時間が長くなる。
その重なりに、蓮が指で「ここ」と印を置く。春斗の肩の力が、そこで勝手に抜けた。抜くべき所が、体の側から教わってくる感覚。
朝の練習は、三人でも四人でもできる。いや、四人でやる方が速い。芽衣がいればさらに速い。速いけど、うるさい。
「つまり私は呼ばれてませんけど?」
うるささ、参上。
正門の方から、芽衣が片手を高く振りながら走ってくる。肩にタオルを掛け、手にはいつもの小さなスピーカーと、ポケットからはみ出たチョコバー。
「音の準備なら任せて。はい、朝の三呼吸バージョン!」
スピーカーから控えめな手拍子が流れる。テンポはゆっくり、しかしはっきり。
コツン、コツン、コツン。
板と輪のリズムが、その手拍子に重なる。蓮の視線がメトロノーム代わりに動き、雪乃の手の甲に朝日が小さく光る。
芽衣はお茶の残りを一口で飲み干して、「あつっ」と笑った。
「ねえ、春斗くん」
息が整ったところで、雪乃がぽつりと言う。
さっきの声より少し小さい。けど、強い。
「昨日の夜、夢を見たの。私と春斗くんが、光の中で戦ってる夢」
「いい夢じゃん」
「うん。でも、そのあと……春斗くんが消えた」
風がちょうど、その言葉のあとを運んでいってしまった。
春斗はしばらく考えて、そして笑った。
「なら、消れないように努力するさ。夢の中でも、絶対守る。消えるのが夢の仕様なら、仕様に勝つ」
「仕様に勝つって何」
「青春はたいてい仕様に逆らっていくものだ」
「名言風の無茶」
芽衣が拍手する。スピーカーの手拍子と合ってなくて、蓮が目で「ずれてる」と指摘する。芽衣はわざともう一拍ずらした。
雪乃の目が少し潤んで、すぐに笑いにほどけた。
「……信じてる」
「ありがと。信じられるに足る練習をするよ」
「そうだな。じゃあ、攻めの練習を俺はする。春斗、五歩。雪乃、二歩。芽衣、合図」
蓮の声が、朝の空気に道を描く。
五歩。二歩。合図。
言葉は板を厚くしない。薄いけど、位置を決めるには十分だ。
◇
朝練は、失敗の連続から始まって、成功のふりをした失敗をいくつか経由し、ようやく成功に触る。
春斗は板を前へ置こうとして、半歩出しすぎて砂にとられた。
雪乃は輪を薄くしようとして、逆に薄くなりすぎ、相手の圧が輪をすり抜けた。
芽衣は手拍子のテンポを変える練習に夢中になり、変えすぎてどこが原点か迷子になった。
蓮はそれら全部の“何がずれてるか”を、言葉少なに拾っていった。
「板は面じゃない、線の束。線の束を“ここ”に通せ」
「輪は回すんじゃない、“合わせる”。板の縁と結婚させろ」
「テンポは変えすぎない。変えたから偉いんじゃない。変える意味がある時だけ変えろ」
「それ、人生に効く」
芽衣の“人生メモ”に今の三つが書き加えられる。ノートにはもうびっしりの“名言”が詰まっている。たぶん半分は芽衣が自分で作った。
何度かのやり直しのあと、ふっと、全部が合う瞬間が来た。
春斗の板が、砂の上で音もなく角度を変える。
雪乃の輪が、板の縁で一瞬だけ厚みを持つ。
芽衣の合図が、息の終わりと始まりをまっすぐ結ぶ。
蓮はそのわずかな“噛み合い”に、声を挟まなかった。ただ、顎をほんの少し引いた。合格、のサイン。
嬉しくて、転びそうになった。
転ばなかった。転ばなかったことの方が、たぶん偉い。
「よし——ここからだ」
蓮が空を見た。
空はもう、朝の色から午前の色へと切り替わりつつある。校舎の窓に光が入り、ホームルームの準備で教室の椅子が動く音が響く。
「今日の放課後、廃工場のルート再確認と“逃げ道”の置き方を練習する。追い込むより、逃す。逃がすより、守る。優先順位を間違えるな」
「逃げるが勝ち、ね」
「勝ちの種類を、今日、決めよう」
蓮の“決める”は軽くない。決めれば、その方向へ皆を連れていく腹づもりの決めるだ。
春斗はうなずいた。うなずくと、体の中心が重くなる。重いのに、足は軽くなる。変なのに、気持ちはよかった。
「にしても春斗、顔」
「顔?」
「まじめすぎる。笑え」
「努力中」
「努力の方向が違う」
芽衣が笑い、雪乃も笑う。笑い声は砂に吸い込まれず、朝の空へ素直に上がっていった。
その笑いの上で、春斗はもう一度、板を置いた。
置く場所は、自分の胸の前。言葉にしなくても、板がそこに在ると、呼吸が整う。
◇
チャイムが鳴って、解散になる。
雪乃が紙コップをゴミ箱へ捨てる前に、底に残った一口を春斗へ差し出した。
「残り、どうぞ」
「それって“間接青春”じゃない?」
「言い方がいやらしい」
「すみません」
温かさは、もうほとんど残っていない。けれど、紙の匂いと一緒に、さっきの湯気の記憶が舌に戻ってくる。
雪乃はペンダントを胸の上からそっと確かめた。金具の触れた音が小さく鳴る。
芽衣はタオルで首筋を拭き、ポケットからチョコバーを一本ずつ配った。「血糖は友情」。意味は怪しいが、味は正義。
蓮はノートに何かを書き足し、ページの端を折って印をつける。そこに書かれたのは、たぶん今日の“合わせ目”。
「春斗」
「ん」
「消える夢の件だが、夢は夢だ。だが、夢の“予告”に勝つ方法は、一つある」
「起きる?」
「それも一つ。もう一つは、起きてから“置く”。朝のうちに、決めたことを置いておく。日中の自分は、その上を走る」
「それ、わかる。わかりたい」
「では、置け。言葉で」
春斗は空を一度だけ見て、真っ直ぐに言った。
「消えない。逃げない。守る。——決めてから、動く」
「よろしい」
蓮の声は、朝礼の「気をつけ」の声と同じくらい短いのに、体育館の床みたいに広く響いた。
◇
授業中、居眠りはしなかった。
しなかった代わりに、ノートの隅に小さく板の図を描いた。ほんの小さな長方形。そこに輪の線を一本重ねる。重ねた瞬間、胸の鼓動が三つだけ深くなる。
昼休み、芽衣が弁当のミニトマトを飛ばしてきて、春斗は板を置いて受け止めた。「ここで使うな!」と蓮に怒られて、三人で笑った。雪乃は「練習の滑走路が長い」と冷静に評した。
放課後の前、雨が少しだけ降った。
グラウンドの砂が湿って、朝よりも固くなる。固い砂の上の板は、すこし滑りづらい。滑りづらい板は、厚くなりがちだ。厚くなるのを、言葉で薄くする。
「薄く」
口の中で呟いて、昇降口に向かう。
夕焼けがビルの隙間に刺さって、校庭の端に溜まっていた雨の水たまりに細い金色を落とす。
明日の天気はどうでもいい。大事なのは、今夜の風向きだ。
◇
夕刻。
生徒会室で、地図がもう一度広げられる。廃工場への道、退路、集合点、合言葉。先生への連絡タイミング。“逃げるが勝ち”の定義。
勝ち——四人全員がそこで笑えること。
それを勝ち、と呼ぶこと。
それ以外の“勝ち”は、置かない。
「じゃ、最終確認。こわい?」
芽衣の問いに、雪乃がうなずく。蓮は首だけ横に振る。春斗は、口を開いた。
「こわい。でも、こわいのは敵じゃない。こわいって自分の中の声を、“置く”前に大きくしない」
「うん」
雪乃の声が、約束の手の温度で返ってくる。
手をつなぐのは、今じゃない。今は、目を合わせる。目の中に“置く”。
窓の外、校庭の照明がゆっくり点いた。
砂の上に朝の足跡がまだ薄く残っている。
朝に置いた板は、目に見えないのに、日暮れまで残っていた。
「行こう」
蓮が言った。
春斗はうなずいた。
うなずくたびに、胸の中の板が一枚、すっと整列する。
消えない。逃げない。守る。
今朝置いた言葉が、夜の風にさらされても剥がれない。
決めてから、動く。
朝練は、そのための練習だ。
そして今日の朝練は、たしかに“決意”になった。
砂の上の名刺は、まだ手のひらに少し残っている。
それでいい。
痛みは、ここまで来た印。
温かさは、ここから行く合図。
薄い板と、小さな輪と、三呼吸。
それで十分だ。
あとは、進むだけ。




