第1話 ビリの新入生、立つ
春斗が王都に来たのは、桜が散る前日だった。
乗り換えを間違えて三時間遅れ。見知らぬ街の空気は、田舎とは違って少し乾いていた。高い建物が並び、人の声と魔力の気配が渦を巻いている。見上げると、巨大な時計塔が光を放ち、その針の下に「聖リアナ学園」の校門が見えた。
——ここから、俺の人生が変わる。
そう信じていた。少なくとも、入学式の前までは。
入学試験の会場は白い石造りの講堂だった。魔力測定器が並び、他の受験生たちは軽々と火花を散らしたり、小石を浮かせたりしていた。
順番が来たとき、春斗は深呼吸して両手をかざした。先生が言う。「心を静めて、流れを感じるんだ」。
春斗は目を閉じ、息を吸った。何も起こらない。
もう一度。吸って、吐いて。
何も——起きない。
測定器の水晶は沈黙したままだった。
「……あれ? 一応もう一度お願いします」
試験官が眉をひそめてボタンを押す。
結果は同じだった。水晶の色は、変わらない。
「魔力値、ゼロ……?」
ざわめきが起きる。誰かが笑う。
「ゼロって、あり得るの?」
「魔力量の単位に“ゼロ”あるのかよ」
「ひと桁とかじゃなくて?」
笑いが連鎖して、教室中に広がる。
春斗は笑おうとした。冗談っぽく肩をすくめて、「ま、これから上がるかも」と言ったが、声が少し震えていた。
そのとき、前の席の少女だけが笑わなかった。
雪のような白髪が肩で揺れ、瞳は淡い青。氷の中に光を閉じ込めたような美しさ。
彼女——雪乃が、ふっと口を動かした。
「大丈夫」
声にならないほどの小さな言葉だったが、不思議と春斗には聞こえた。
その瞬間だけ、笑われる痛みが遠のいた。
***
放課後。初日から寮の部屋に戻る気になれず、春斗は校門の外をぶらついていた。
新しい制服の襟がかゆい。都会の空気に馴染めず、ため息ばかり出る。
そんなときだった。
少し先の路地で、雪乃が数人の男たちに囲まれていた。
彼らは学園の生徒ではない。革のコートに灰色の目つき。どこかの貴族の手下か、あるいは魔導傭兵だろう。
「少し話を聞かせてくれないか、お嬢さん」
声が低く、いやに丁寧だった。だが目は冷たく、雪乃の腕を掴もうとする。
春斗の心臓が、どくん、と跳ねた。
怖い。
頭では逃げろと叫んでいた。だが足が勝手に前に出る。
「やめてください!」
声が裏返った。男たちがこちらを振り向く。
「なんだ坊主。邪魔すんな」
肩を押され、バランスを崩す。地面が近づく——その瞬間。
空気が、弾けた。
目に見えない何かが走り抜け、男たちの体が宙に浮いた。
バラバラに後ろへ吹き飛び、石畳に叩きつけられる。
春斗は尻もちをついたまま、自分の手を見た。
手のひらから、淡い光が滲んでいた。
「俺……いま、何を……?」
雪乃が駆け寄ってくる。
「大丈夫?」
彼女の声は震えていたが、瞳は真っすぐだった。
「ありがとう」
そう言ったとき、ほんの少し涙が光った。
春斗はうまく言葉を返せず、「う、うん」とだけ答えた。
——その涙が、妙に胸に残った。
***
寮の部屋。夜。
ベッドに横たわっても眠れない。
昼間の出来事が何度も頭をよぎる。
魔力ゼロのはずの自分が、どうして。あの光は何だったんだ。
窓の外には、王都の月。白く大きく、やけに近く見える。
「もしかして……俺にも、何かあるのか」
呟いて笑う。自分でも馬鹿みたいだと思った。
でも、少しだけ希望が混ざっていた。
——ビリでも、まだ始まったばかりだ。
***
翌朝。
朝のホームルームで、教師が告げた。
「昨日の件、街で魔力暴発があったらしい。関係者は気をつけるように」
教室がざわつく。
春斗はうつむいた。暴発——あれがそうだったのか?
ちらりと横を見ると、雪乃がこちらを見ていた。
目が合うと、彼女は小さく微笑んだ。
まるで「秘密だよ」と言っているように。
それから、地獄の授業が始まった。
「はい、春斗くん。炎の基礎を」
「え、あ、はい!」
魔導書を開いて、呪文を唱える。
結果——煙すら出なかった。
「ゼロなのに入学できたんだ?」と後ろの席から囁き声。
「裏口だろ」「推薦って便利だよな」
笑いがまた広がる。
心の奥で何かがチリ、と焼けた。
それでも、春斗は笑った。
「ま、いきなり火を出したら先生の立場ないっすもんね!」
冗談でかわしたが、内心は真っ黒だった。
放課後。雪乃が声をかけてきた。
「昨日のこと、先生には言わないでおく」
「……あれ、やっぱり俺が?」
雪乃はうなずく。
「でも、あれは危険な力。普通の魔法じゃなかった」
「危険……?」
「暴発でも暴走でもない。もっと根が深い、違う力」
雪乃の表情は真剣だった。
春斗はごくりと唾を飲む。
「それって、悪い意味?」
「……まだわからない。でも、私には懐かしかった」
「懐かしい?」
彼女は微笑んで、風の中に髪をなびかせた。
「ありがとう、助けてくれて」
そう言って去っていく背中を、春斗はただ見送った。
胸の奥に、妙な熱が残る。
勇気でも恋でもない。
ただ、何かが動き出した予感だった。
***
その夜、夢を見た。
暗い空。崩れた塔。誰かの叫び声。
その中心で、白い髪の少女が立っていた。
雪乃だ。
彼女の背中から、黒い羽のような影が伸びている。
春斗は名前を呼ぼうとするが、声が出ない。
手を伸ばす。届かない。
「——起きて」
耳元で囁かれた瞬間、目が覚めた。
寮の部屋。窓の外はまだ夜明け前。
額には冷や汗。
「なんだ、いまの……」
息が荒い。
月が沈みかけていて、その縁に一瞬だけ黒い線が走ったように見えた。
光のノイズか、夢の残滓か。
春斗には判断できなかった。
けれど、この夜からすべてが始まる。
ビリの新入生が、誰も知らない力に触れた夜として。
そして、彼の隣で笑った少女が、やがて王都を揺るがす運命の鍵になることも——まだ誰も知らなかった。




