第84話「ドキドキの偶然はだいたい仕組まれている③」
午後一時半。
太陽は、まるで自分の存在を誇示するかのように、遠慮なく空から降り注いでいた。
ディズニーシーの石畳は夏の終わりにも関わらず、少し熱を帯び、そこを歩く人々の影は、どれも少しだけ輪郭がぼやけている。
潮の匂いと、甘いポップコーンの匂いと、どこか人工的な音楽が混ざり合い、ここが現実なのか夢なのか、よく分からない場所になっていた。
「レイン、そういえば昼ご飯どうする?」
ヤヤはちらっとレインを見て尋ねる。
すると、隣から妙に芝居がかった声が響いた。
「ふっふっふ……ここでランチタイムを制する者が、ディズニーを制するのよ!」
レインはというと両手を腰に当て、なぜか誇らしげに胸を張っている。
その姿は、どこか舞台の上の女優のようでもあり、同時に放課後のテンションが上がりすぎた高校生のようでもあった。
「そ、そういうものなのか……?」
「そうよ!大事よ!今日の満足度、半分はここで決まるの!」
「わ、わかった。どこかいいとこ知ってるのか?」
「あったり前じゃない!私は有能だもん!行くわよ!ヤヤ君!」
レインは今、この場所にいること自体が、たぶん嬉しくて仕方がないのだろう。彼女の足取りは、どこか軽やかだった。
人混みの中を縫うように進むその背中は、まるで楽しさを隠しきれない子どもみたいで。
ヤヤは、それを少し後ろから眺めながら、静かに思った。
――悪くないな。
この、何でもない昼前の時間が。
***
そんな調子で歩いていると。
人の流れの向こうから、見覚えのある二人組が現れた。
手をつなぎ、穏やかな速度で歩く男女。男は長身の二枚目フェイス。女は金髪のポニーテールが特徴の儚げで優しい雰囲気な美女。
周囲の喧騒とは少しだけ違うリズムで、時間を過ごしているように見えた。
茜坂ケイとその妻のシルファだった。
「……あれ?」
ヤヤは足を止める。
「ケイ?シルファ?」
「おっ、ヤヤ!!」
ケイが大きく手を振った。
「こんなとこで会うとはな!」
「まあ……」
シルファも、柔らかく微笑む。
「偶然ですね」
レインは目を見開いた。
「えっ!? なにこの奇跡的遭遇!
どうしてここにっ……!?」
ケイは少し照れたように頭をかきながら、レインの問いに答える。
「いや、今日は俺達の結婚記念日なんだよ。
まぁデートってやつだ」
「ええええええっ!?いいぃぃ!!素敵ね!!」
レインは、まるで花火が爆発したかのように声を上げた。
「大人のロマン……!憧れちゃうわ!!」
シルファは頬を染めながら、小さく笑う。
「ふふ……ありがとうございます」
それから、ふと二人を見る。
「ところで……お昼は、もうお済みですか?」
「いや、まだだ。そっちは?」
ヤヤはそう答えてから、ケイとシルファのほうへ視線を向けた。
ケイは少し考えるように顎に手を当て、それから苦笑気味に肩をすくめる。
「俺たちもまだだな。実はさ、ディズニー自体が初めてで」
「え、そうなの?」
レインがすかさず食いつく。
「ああ。シルファと二人で来るのも初めてだし、どこで何を食えばいいのか分からなくてな。さっきから、地図とにらめっこしてた」
そう言いながら、ケイはポケットから折りたたまれたパークマップを取り出した。
ところどころに折り目がつき、すでに何度も開閉された形跡がある。
――迷子寸前の観光客、そのものだった。
その様子を見て、レインの目がきらりと光る。
「あっ!」
まるで何かをひらめいたみたいに、彼女は両手を叩いた。
「だったらさ! ランチだけ一緒にどう?」
「え?」
「せっかくだし、いろいろお話も聞きたいし! もちろん、食べ終わったらちゃんと解散するわよ? 記念日デートの邪魔なんて、そんな無粋なことしないから!」
(それに……午後はヤヤ君とまた二人きりで遊びたいしね♡)
早口でまくしたてながらも、その表情はどこか嬉しそうだった。
「ね? ヤヤ君もいいでしょ?」
急に話を振られ、ヤヤは一瞬だけ考える。
けれど、すぐに小さく頷いた。
「ああ。賑やかなほうが、楽しいと思うしな」
そう言ってから、ちらりとレインを見る。
「それに、レインがお勧めの店を知ってるらしいし」
「らしいってなによ!? ちゃんと知ってるわよ!」
レインは即座にツッコミを入れた。
ケイはその様子を微笑ましそうに眺めながら、隣のシルファに顔を向ける。
「……シルファ、どうだ?」
「はい」
シルファは柔らかく微笑んで、静かに頷いた。
「ご一緒できるなら、嬉しいです。ケイ」
その声は、潮風みたいに穏やかで、どこか安心感があった。
こうして四人は、自然な流れで歩き出す。
レインの先導で、人の波の中へと溶け込んでいく。
それぞれが、ほんの少しだけ胸を弾ませながら。
――これから始まる、何気ない昼食の時間に、どんな意味が生まれるのかも知らずに。
***
四人が選んだのは、アラビアンコーストの一角にあるフードコートだった。
スパイスの効いた香りが風に乗って漂い、まるで遠い国の市場に迷い込んだかのような錯覚を覚えさせる場所だ。
石造りの壁に反射する光は柔らかく、どこか現実と夢の境目を曖昧にしている。
ヤヤはその空気を、少しだけ心地よいと思った。
ほどなくして、料理が運ばれてくる。
色鮮やかな皿が、テーブルの上に並んだ。
「わぁ……おいしそ~!」
レインの目が、一瞬で星のように輝く。
「やっぱここ正解ね!」
「さすがプロだな」
ヤヤが半ば冗談めかして言うと、
「でしょでしょ~!?」
案の定、すぐに調子に乗った。
シルファはそんな二人を微笑ましく眺めながら、そっと視線を巡らせる。
そして、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえば……」
わずかに間を置いてから、穏やかな声で尋ねる。
「今日は、お二人だけなのですか?
ユウヒや、カイトはいらっしゃらないのですね」
その瞬間だった。
レインの肩が、ぴくりと跳ねた。
「えっ!?」
ヤヤも、遅れて何かに気づいたように呟く。
「……あ、そうだユウヒはバイトって言ってたけどカイト、来ないな」
「……!!」
「連絡も来てないし、
レイン、なんか聞いてるか?」
レインの動きが、明らかにぎこちなくなる。
視線はあちこちをさまよい、手に持ったスプーンは今にも落ちそうだった。
「あっ、えっと!?」
「そ、それは……!」
「か、カイトは……」
「ちょっと体調悪いって!」
「来れなくなったって言ってた!」
「たぶん!」
「きっと!」
「おそらく!」
言葉が、制御を失った雪崩のようにあふれ出す。
(??)
鈍感なヤヤが気づかない。
一方で、シルファはすでにすべてを理解していた。
視線をやさしく伏せながら、心の中でそっと微笑む。
(二人きりで来たかったのですね。
最初から……ふふっ……)
その眼差しには、責める色はなかった。
――しかし。
空気を読むという才能を、人生のどこかで完全に置き忘れてきた男がいた。
「なるほどな!!」
ケイが、唐突に声を張り上げる。
「ってことはさ!最初から二人きり!
完全デートじゃん!!はははは!!」
「へっ?!?!ちがっ……!!」
レインの顔が、瞬時にトマトのように赤く染まる。
「そ、そそそそんなんじゃ……!!」
「えぇー、怪しい怪しい!
ヤヤ、モテるな~!青春だな~!」
ケイは心底楽しそうだ。
「あ、あなた、からかいすぎですよ?」
シルファが静かに肘でつつく。
「いてっ」
***
やがて、食事は終わりを迎えた。
皿の上には、スパイスの名残と、満足の痕跡だけが静かに残されている。
人の声も、食器の音も、さっきより少し遠くなったような気がした。
「いや~、美味かったな」
ケイが満足そうに背伸びをする。
「本当に……レインのおかげですね」
シルファも、穏やかに微笑んだ。
「でしょでしょ~! 私に任せて正解だったでしょ!」
胸を張るレイン。
「ああ。ありがとな。レインがディズニー詳しくてよかったよ」
ヤヤは素直に言った。
「ふふっ、任せなさい!」
その言葉には、少し誇らしさと、少しだけ照れが混じっていた。
やがて。
「じゃあ、俺たちはそろそろ行くか」
ケイがそう言って立ち上がる。
「せっかくの記念日ですからね」
シルファも頷いた。
「またな、ヤヤ!レイン!」
二人は手をつなぎ、人混みに溶けていった。
その背中は、不思議なくらい穏やかで、ここだけ時間の流れが違うように見えた。
――いい夫婦だな。
ヤヤは、そんなことをぼんやり思った。
***
店を出ると、午後の光が一気に視界に広がった。
海風が、火照った頬をなぞるように吹き抜けていく。
遠くで鳴る音楽と、笑い声と、観光客のざわめきが混ざり合い、世界は相変わらず賑やかだった。
「さてさて!」
レインがくるりと振り向く。
「次、どこ行こっか!? ヤヤ君!」
その声は、弾んでいて。
少しだけ、期待が混じっていて。
まるで、この時間がまだまだ続くと信じているみたいだった。
ヤヤは答えようとして――
その瞬間。
背後から、静かに、しかし確実に届く声があった。
「……ふぅん?」
空気が、一瞬だけ凍る。
「なんか、すごく楽しそうだね~?」
ゆっくりと振り向く。
そこに立っていたのは――ユウヒだった。
「えっ?!ユウヒ?!花屋のバイトじゃ……?」
「げっ!!な、なんでいるのよ!」
ヤヤが驚いた顔をしながら戸惑う中、レインは、
あちゃーといった様子だ。
ユウヒはにこにこと完璧すぎるほど整った笑顔をしていた。
それは一見まるで、何も問題など存在しないかのような表情。
けれど。
その奥には、嵐の前の海のような、ひそやかな荒れ模様が潜んでいた。
「私、今日バイトないんだけど~?どういうことかなぁ?レインちゃん」
甘い声。
やさしい口調。
なのに、なぜか背中が寒くなる。
「ま、間違えたのよ?あはは!!」
レインの声が裏返る。
(バカイトぉぉぉ!! 絶対バラしたでしょぉぉ!!)
「嘘だよ。絶対。
それより……ねぇ、ヤヤく~ん、私も混ぜてよ♡」
ユウヒは一歩、距離を詰めた。
視線が、まっすぐ突き刺さる。
「……あ、ああ」
ヤヤは反射的に頷いた。
なにがなんだかわからない。
だがなぜか、断ってはいけない気がしたのだ。
胸の奥で、小さな違和感が音を立てる。
――ああ。
これはたぶん、まずい気がする。
それは穏やかで平和な1日の終わりであり、
同時に小さくて、しかし確実に面倒な戦争の始まりなのだ。




