第82話「ドキドキの偶然はだいたい仕組まれている①」
金曜日の夜。
ネオンが少し湿った光を放つ路地裏の居酒屋で、カイトは一人、静かにグラスを傾けていた。
テーブルの上には空になった唐揚げの皿と、勝利の証のようなレシート。
競馬で大勝ちした夜というのは、だいたいこんな感じだ。世界が少しだけ自分に優しく見える。
「はぁ……人生、たまにはこうじゃねぇとな」
そう呟いた瞬間、ポケットのスマホが震えた。
画面に表示された名前を見て、カイトは露骨に眉をひそめる。
「ん?レイン、かよ」
嫌な予感と、面倒くささは、だいたい同時にやってくる。
『もしもし? ちょっと、今いい?』
電話越しの声は、やけに弾んでいた。
あきらかに“何か企んでる声”だ。
「今一人でしっぽり人生を噛みしめてる最中なんだが」
『なによそれ。ジジくさい』
「うるせぇ。で、何だよ。短く言え」
『ちょっと! その言い方ないでしょ! ……で、ね。お願いがあるの』
「……あー、はいはい。もう嫌な予感しかしねぇ」
カイトはグラスを置き、深くため息をついて背もたれに体を預けた。
この流れは知っている。ロクなことになった試しがない。
『明日ね』
「明日?」
『私、ヤヤ君とディズニーシーに行きたいの! 二人きりで!』
「……は?」
一瞬、思考が止まる。
「無理。却下。面倒くせぇ」
『ちょっと! 最後まで聞きなさいよ!』
「聞くまでもねぇだろ。
俺、休日にネズミの国行く趣味ねぇから」
『あんたは来なくていいの!』
「じゃあ最初から言うな」
『最初は三人で行くって“体”が必要なの! ユウヒは花屋のバイトで来られないって、ちゃんと伝えて』
「……あぁ?」
『で、当日あんたはさ』
レインは、まるで今日のディナーを決めるみたいな軽さで言った。
『体調悪いことにして仮病して。 パチンコでも競馬でも、どこでも行っていいから』
「はぁ!?」
カイトは思わず声を荒げた。
「なんで俺がそんな面倒な茶番に付き合わなきゃなんねぇんだよ」
『えー? ノリ悪いわねぇ』
「悪いに決まってんだろ。
第一、そんな偶然仕込んでまで――」
『じゃあさ』
レインの声が、ふっと変わった。
『前にあんたが“可愛い”って言ってた
あのキャバ嬢の連絡先教えてあげる』
「……」
一秒。
二秒。
沈黙。
「……どのキャバ嬢だ」
『銀座の。
黒髪で、ちょっと天然で、あんたが三日通った子』
「……ま、マジかっ?あの巨乳で、巨乳なあのっ?!」
『す、清々しいほど欲望に忠実ね!
……でもマジよ』
耐えきれず、カイトは吹き出した。
「……よし!」
『な、なによ?』
「偶然を装ったデートってわけか。
しかも俺は口止め料付き」
カイトはニヤニヤしながらグラスを持ち上げた。
「面白そうだ。乗った」
『ほんと!?』
「ああ。さて、明日の天気はと……!
おっ!快晴らしいぞ。よかったな。」
『最初からそう言えばいいのよ!』
「最初から切り札出せよ。
まぁとりあえずヤヤには今連絡しとく。」
『頼んだわよ』
ピッ……
レインとの電話を切り、カイトは満足そうに息を吐いた。
そしてすぐに別の番号をタップした。
「もしもし、ヤヤか?」
『……カイト?』
「急なんだけどさ。明日、ディズニーシー行かねぇ?」
『は?』
「レインが行きたいってよ。
ユウヒは花屋のバイトで来られないらしい」
少し間が空く。
『……別に、いいけど』
「よし決まり。じゃ、朝8時舞浜駅集合だ。遅れんなよ」
『おい、勝手に――』
通話を切り、カイトは満足そうに息を吐いた。
「……いやぁ、若いっていいねぇ」
グラスの中で氷が、からん、と鳴った。
***
秋の始まりの朝は、少しだけ空気が軽い。
夏の名残を残しながらも、未来の匂いが混じっている。
青空の下、レインは改札前でそわそわしていた。
(……や、やばい。心臓、うるさすぎ)
胸の奥で、ドラムみたいに鼓動が鳴っている。
――いつもの余裕? そんなもの、今日は家に置いてきたわ!
「落ち着け、レイン。
今日は“偶然”で来ただけ。デートじゃない。まだ」
そう自分に言い聞かせた瞬間――
「おーい」
聞き慣れた声。
振り向くと、ヤヤが手を軽く上げて立っていた。
いつも通りの無表情。いつも通りの距離感。
「……おはよ」
「お、おはよ!
ちょっと早かったかしら?」
(……近い)
それだけで、胸がぎゅっとなる。
「レイン、カイトは?」
「なんか遅れるみたいよ?先に行ってろだって。全くもう、時間にルーズなんだから」
「……ふーん」
レインは平静を装いながら、内心でガッツポーズをした。
(……計画通り!カイト、ナイス!)
快晴の空の下。
ディズニーシーの入り口は、これから始まる物語を待っているみたいに、静かにきらめいていた。
***
ディズニーシーの中は、朝の光に満ちていた。
雲ひとつない空の下、海から吹き上げる風が、パーク全体をゆっくりと撫でていく。
石畳を踏みしめる足音、遠くから聞こえる陽気な音楽、ポップコーンの甘い匂い。
休日の朝らしく、人の波はすでに出来上がっていて、楽しそうな笑い声がそこかしこで弾んでいた。
「で、どこから回る?」
ヤヤはパークマップを広げながら、いつも通りの落ち着いた声で聞いた。
「ふふん。任せなさい!!」
レインは胸を張る。
その表情は自信満々――のはずなのに、指先はわずかに落ち着きがなかった。
「私はディズニーのプロよ!
どうやって遊んだら楽しいかなんて
だいたい頭に入ってるんだから!」
彼女の声は明るかったが、その明るさの奥に、わずかな緊張が混じっているのを、ヤヤはなんとなく感じ取った。
「へぇ」
ヤヤは短く応じた。
ポケットから取り出したパークマップを、ゆっくりと広げる。紙の擦れる音が、潮風に溶けていく。
「実はさ」
彼はマップに視線を落としたまま言った。
「ここ、初めてなんだ。ディズニーシー」
「えっ?!そうなの?!」
一瞬、レインが瞬きをする。
「ああ。ランドは一回だけ行ったことあるけど、シーはないな」
休日のパークは人で溢れていて、色とりどりの帽子や風船が、波のように流れていく。
ヤヤは少し考えるように視線を落とし、それから続けた。
「正直、どう回っていいか全然分からない」
そして顔を上げ、まっすぐレインを見て微笑む。
「だから助かるよ。ありがとう。レイン」
「……っ」
レインの思考が、完全に停止した。
(か、可愛い……ヤヤ君、絶対歳上キラーだわ!!)
心臓が、変な音を立てる。胸の奥で、温度がゆっくり上がっていく。
まるで朝のコーヒーにミルクを落としたときみたいに、感情が静かに広がる。
「べ、別に……」
レインは一度言葉を切った。
「ぷ、プロなんだから……と、当然でしょ」
自分でも何を言っているのか分からなくなっているらしく、彼女は小さく咳払いをした。
視線を前に戻す。
けれど耳だけは、正直だった。
潮風が吹き抜けても、その熱はなかなか引かない。
「と、とにかく!」
レインは少しだけ声を張る。
「今日は死ぬほど遊ぶの!!ほら、行くわよ!」
彼女は少し照れたように歩き出した。
その背中を見て、
ヤヤは思ったよりもずっと楽しそうに、微笑っていた。




