第79話「深夜の壊れたユウヒ」
定食屋から帰宅し、アパートにつく。
夜に金属だけが鳴るような寒い静寂が落ちていた。
ユウヒは階段を上る足音すら乱暴だった。
コツコツではなく、ガンッ、ガンッと怒りを叩きつけている。
呼吸が荒い。肩が震えている。
普段の明るい笑顔は欠片も残っていない。
部屋の鍵を回す音だけで、金属がひしゃげるように聞こえた。
――がちゃ。
ドアを蹴るように閉める。
薄暗いワンルーム。
冷蔵庫の唸り音。
カーテンは閉じているが、わずかな外灯がユウヒの頬を青白く照らした。
その顔は、完全に“壊れていた”。
ユウヒは靴も脱がず、机に向かって歩く。
椅子を引く音すら耳に刺さる。
そして、机の引き出しを乱暴に開ける。
ごちゃりと音を立てて、物が散らばった。
ユウヒは迷わず、黒い表紙のノートを掴む。
――【マル秘】
赤いマジックで表紙に大書されている。
指先で撫でると、表紙の一部が爪で抉れた。
ユウヒはゆっくり、静かにノートを開いた。
ページには人の名前がびっしり。
クラスメイト、ジャスティス、通りすがりの女。
顔写真が貼られ、その周りに文字が散らかっている。
――気に食わない。
――ヤヤ君の隣に立つな
――見るな触るな近づくな
――殺す(※二重線で訂正)やめとく。まだ大丈夫
――やっぱり殺す(※上から殴り書き)
筆圧や字の歪みがページごとに違う。
まるで精神の波そのものが紙に焼き付いているようだった。
「…………」
ユウヒは目を伏せる。
深呼吸。
しかし、肺に入った空気はすぐに熱と震えに変わった。
「……鳳ツバサ」
口に出した瞬間、
ユウヒの唇がひくりと歪む。
「鳳ツバサ、鳳ツバサ……ッ!
なんなのあの女ぁっ!!」
その声は、普通の声帯から出る音ではなかった。
笑っているのに、怒っている。
泣きそうなのに、嬉しそうにすら聞こえる。
ユウヒは新品の赤い鉛筆を引き出しから取り出す。
軸が赤い。
光に照らされて、血のように鮮やかだった。
ノートの白紙ページを開く。
鉛筆を握る手が震えている。
ゆっくり、書き始める。
――鳳ツバサ
「……ッッッ!」
顔がぐにゃりと歪む。
頬が熱く、手は冷たく、呼吸が浅い。
次の瞬間。
ユウヒは、赤い鉛筆を叩きつけるように走らせた。
――殺す
――殺す
――殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す
――殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す
――殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す
――殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す
――殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す
――殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す
――殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す
――殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す
ノート全体が赤で埋まり、紙が擦り切れ始める。
鉛筆の芯が悲鳴を上げて折れる。
折れても、ユウヒは手を止めなかった。
握り潰した芯で、紙をさらに汚す。
爪まで赤く染まり、革のようにひび割れる。
「はぁ、はぁ、はぁ…………ッ」
呼吸が限界まで乱れ、目の焦点が合っていない。
どこかで笑っているような声が混じる。
「なんで……?なんで……ヤヤ君に触ってたの……?なんで抱きついてたの……?
なんでヤヤ君と……馴れ馴れしいの……?」
ユウヒは顔を両手で覆い、肩を震わせた。
「――許せない。ぜったい。絶っっ対に」
その呟きは、静かだった。
静かすぎて、逆に聞こえないほど。
ユウヒはゆっくりと立ち上がる。
ノートを抱えて、洗面所に向かう。
鏡の前に立つ。
顔が赤い。
目が充血している。
口角が異様な角度で上がっている。
自分を映すその表情は――もう、人間ではなかった。
「あは……あはは……あはははっ……」
鏡の中のユウヒは笑った。
でも音がついてこない。
笑っているのに、泣いているようにも見えた。
そして鏡に触れ、小さく呟く。
「ヤヤ君は私が好き……私もヤヤ君が好き」
その声だけが、透き通るほど優しかった。
だが次の瞬間、声の温度が氷のように変わった。
「ねぇ、わかるよね?これは“運命”なんだよ。
あの女が割り込むなんて本当に、ありえないの。
だって――ヤヤ君の世界は、もう全部、ぜんぶぜーんぶ私で埋まってるんだから。
ほら、あの女が近づくでしょ?笑うでしょ?話すでしょ?
あれ全部、ぜんぶ間違い。
邪魔なの。汚いの。消すべき“雑音”なの。
だからね……“殺す”ね。ヤヤ君を奪おうとする発情期のメス犬を。
骨も声も存在も、残らないくらいに、ね?」
そんな独り言を言った後、ゆっくりとユウヒは天井を見上げる。
何かが聞こえるように、何かを感じるように。
薄暗い部屋の中で、その瞳だけが異様に光っていた。
空気がひやりと冷え、部屋の影がゆっくりと揺らめく。
ノートの上に残された無数の赤い文字が、まるで笑っているようだった。
「早く殺したいなぁ~……」
ユウヒの妖艶な微笑みが、闇の中に溶けていく……




