第41話「もう一つの初恋」
飛島の旅館の食堂には、夕餉の香りがまだ残っていた。
湯気を立てる味噌汁、焼き魚の香ばしい匂い、そして波の音。
「……ご馳走さま。先に部屋に戻るわね。」
箸を置いたレインが、どこか遠い目をして立ち上がった。
いつものような冗談も、皮肉もない。
「レイン、もう行くのか?」
カイトが声をかける。
「ええ、ちょっと……疲れただけ。」
レインは短く答えると、そのまま足早に廊下へ消えていった。沈黙が落ちた。湯飲みの中のお茶が小さく揺れる。そんな空気の中、ユウヒがポツリと呟く。
「……あの様子、完全に“さっきの試合”のせいだよね……」
「あのヤンデレメンヘラ女に完封されたの、気にしてるんだろうな」
ヤヤは黙々と夕食を食べながら答える。
カイトも意外にも落ち着いた様子だ。そして先ほどの試合について触れる。
「あそこまで強いとは誰も思わなかったよな……パッと見は小柄だし……」
「たしかに……それにしても本当に女って怒らせると怖いと改めて思ったよ」
「ヤヤ君……まぁ私としてはあれはやり過ぎな気がするけどね……」
そんな会話の後、三人も食事を終え自分の部屋へ戻るのだった。
――
しばらくした頃、ユウヒからヤヤとカイトにメールで連絡が届いた。すぐにロビーに来てと。
それからヤヤとカイトは階段を降り、エントランスのロビーに到着する。
「ねぇ、レインちゃん見なかった? 部屋にいないんだけど……」
「さっき部屋戻るって言ってたじゃねぇか」
カイトが眉をひそめる。
「もしかして、どこか出てったのかも」
ユウヒが不安げに言った。
ヤヤは心配になったのか二人に対して声をかける。
「……探そう。あいつ、放っとけねぇ」
ヤヤのその言葉にカイトとユウヒは頷く。
「俺は裏の庭の方見る」カイトが言い、ユウヒは「じゃ~私は旅館内探してみるね」と言った後、どこかへ行ったのだった。
――
夜の潮風が頬を撫でた。
満月が海面に道を描き、波音が静かに寄せては返す。
その砂浜の上。
ひとり腰を下ろし、コンビニの缶チューハイを傾けている影があった。
肩まで伸びた桃色の髪が、風に揺れる。
足音が聞こえる。
その人はちらりと振り返る。
「……ヤヤ君」
「ほらよ。」
ヤヤは無言でポケットから缶コーヒーを差し出した。
レインがそれを受け取り、軽く笑う。
「優しいじゃない。……らしくないわね。」
「別に」
ヤヤはそのまま隣に腰を下ろす。
波が寄せ、月明かりが二人の足元を照らす。
しばらく、ただ風と海の音だけが流れた。
「……惨めよね。」
ぽつりとレインが言った。
「人の男を誘惑して……結局、バカみたいに負けて。自分がどれほど安っぽい人間か、思い知らされた。」
ヤヤは何も言わない。
ただ、視線だけを月へ向けていた。
レインは笑う。どこか壊れたように。
「私ね……昔からそうなの。誰かに“愛されてる”って感覚が欲しくて……。見た目さえタイプであれば誰でもよかった。それがたとえ、誰かの恋人でも、夫でも、どうでもよくなってた。」
その声は震えていた。
夜風が髪を揺らし、彼女の瞳を隠す。
「それだけじゃない……これまで悪いことも一杯してきた……ホストにハマって借金を払うためパパ活をしたり、虐待をしてきた自分の父親も……殺した……それでもヘラヘラと笑って生きている」
「レイン……」
レインは涙をポタポタと砂浜に流しながらこれまでの過去を告白する。ヤヤは黙って側で聞いていた。
「――でもね、分かってるんだよ?私がいかにどうしようもないクズかなんて……!でももう後戻りなんてできない……。本当に……本当に自分が大嫌いっ!!死ねばいいのよ……」
波の音が、少し強くなる。
波が寄せては返し、レインの嗚咽をさらっていく。
夜の海は冷たく、それでいてどこか優しい。
ヤヤは黙って、ただ横顔を見ていた。
レインの肩が震えている。
頬を伝う涙が、月明かりに濡れて光る。
しばらくして、ヤヤがぽつりと――まるで独り言のように呟いた。
「……俺は、レインが好きだけどな」
レインの嗚咽が止まる。
ゆっくりと顔を上げる。
「……えっ……?」
ヤヤは視線を海に向けたまま、何気ない調子で続けた。
「別に、女としてとか……そういうんじゃねぇ。人として、ちゃんと見てるってだけだ」
月光が、彼の横顔を淡く照らしていた。
その表情には、いつもの無愛想でも冷たさでもなく、
どこか優しく、儚い色があった。
レインの胸が、ぎゅっと締めつけられる。
息をするのも忘れた。
「……人として、好き……?」
自分の口の中で繰り返すと、言葉が熱に変わって喉を焦がした。
こんな風に言われたのは、人生で一度もなかった。
「……だからレインはレインのままでいろよ。俺は今のお前がいい」
レインの視界が滲む。
涙なのか、潮風のせいなのか分からない。
「……ヤヤ君、年下のくせに……なんでそんなこと……言えるのよ……」
「さぁな。言いたくなっただけだ」
「ほんと、ずるい……」
レインは笑いながら泣いた。
胸の奥が痛いほど熱い。
潮風が二人の間をすり抜けていく。
月光が、まるで二人だけを包み込むように降り注いだ。
ヤヤは静かに立ち上がり、レインを見下ろす。
その瞳は真っ直ぐで、どこか遠くを見つめるように柔らかかった。
「……大丈夫だ、レイン」
少しだけ笑って、彼は言った。
「俺は――お前のこと、ずっと見てるから」
その言葉に自分が今日の朝、ヤヤに言った事を思い出す。
(……ヤヤ君。次は私のこと、ちゃんと見てて)
覚えてたんだ……そう思いレインは胸に手を当てた。
初めて感じる、心臓の高鳴り。
それは二十歳にして初めての恋の音だった……




