第37話「殺してあげる、愛してるから」
「――では、これより模擬戦を開始する。」
天草キョウの低い声が訓練場に響く。
その響きだけで、先ほどまでのざわめきが一瞬で凍りついた。
「おっと、その前に言い忘れていたが今回のフィールドは特別仕様だ。この中では肉体的ダメージは、すべて精神的ダメージに変換される。流血も骨折もない。だが――錯覚するほどの痛みは実際に走る。
精神が限界を超えれば気絶、あるいは……心が壊れる。説明は以上だ」
空気が重くなる。
訓練でありながら、命の線をわずかに踏み越えるような緊張感が走った。
「それじゃあ、コードIとコードXIII、代表は前へ」
一瞬の沈黙の後――静かに、しかし迷いなく一歩を踏み出したのは、茜坂シルファだった。黄金の髪が光を受けて揺れる。凛としたその佇まいは、まるで氷の彫像。
「コードIからは私が参ります」
その声は静謐でありながら、圧倒的な威圧を含んでいた。
対して、もう一人の影が軽やかにフィールドへと歩み出る。
桃色の髪を指先でくるりと弄びながら、レインが微笑んだ。
「ふふっ、やっぱりあなたから来たわね」
場の空気がまたざわつく。
“最強の妻”と“最強を試す女”――その構図だけで、誰もが息を呑んだ。
二人がフィールドの中央で向き合う。
青い光が彼女たちの影を伸ばし、交わらせる。
「……あなたが相手で、よかったです」
シルファが静かに口を開いた。
「ケイにはその露出の多い服装のあなたとは戦ってほしくありませんでしたから」
レインはわずかに目を見開いた後、唇の端を上げた。
「まぁ……嫉妬、ってやつ?」
「ただ嫌なものを見せたくないだけです」
「ふふっ、そういうのを“嫉妬”って言うのよ」
レインは軽く笑い、シルファの反応を楽しむように一歩近づいた。
その瞳が、獲物を見定める猫のように細まる。
そして――耳に届くような、艶のある声で囁く。
「ねぇ、賭けをしない?」
「……賭け、ですか?」
シルファの眉がかすかに動く。
レインは唇をゆっくりと舐め、妖艶な笑みを浮かべる。
「もし、私があなたに勝ったら――旦那さんの連絡先を教えてもらってもいいかしら?逆に私が負けたらあなたの言うこと一つなんでも聞いてあげる」
「――――」
その瞬間。
観客の空気が完全に止まった。
「はっ!?おいおい、マジかよ……!あんな挑発して大丈夫かよ」
カイトが思わず声を上げ、ユウヒはヤヤの方を向く。
「ねぇ、ヤヤ君。レインちゃんさぁ、絶対最初から狙ってたよね~。この展開を」
「だろうな。それにしてもさっき船で俺に訓練中にイチャイチャすんなとか言っといて、本人が一番頭の中お花畑じゃねぇか……」
「アハハっ!!たしかに!!相変わらずめちゃくちゃだねぇ~」
ヤヤとユウヒがそんな会話をしている一方ケイは真剣な表情となり誰にも聞こえない声で呟く。
「……ヤバいかもな……あのレインって女」
ケイはレインの身を心配し、フィールドに立つシルファに声をかける
「……おい!シルファ!それはただの挑発……」
だが、彼の声が最後まで届く前に“空気”が変わった。
シルファの瞳の色が、ゆっくりと氷の青から夜の闇へと染まっていく。
(……今、この雌……何と申しました?ケイの連絡先を教えろと?……負けたらケイがとられる?このクソ雌に?)
シルファの理性が、一瞬で吹き飛んだ。
彼女は髪をまとめていた黒いゴムをゆっくりと外す。
黄金の髪がふわりと解け、肩から背へと滑り落ちた。
その表情――もう、さっきまでの冷静な分析官ではなかった。
唇が震え、瞳孔が細く、呼吸が熱を帯びる。
微笑は消え、そこにあるのは――純然たる殺意。
「……そうですか」
彼女はゆっくりと首を傾げ、レインを見据える。
声は穏やか、けれどその裏には狂気が滲んでいた。
「あなたもですか……」
「……?」
「――この世に生まれたことを、後悔させて差し上げます」
その瞬間、青の光が強く脈打った。
フィールドの中心で、天使と悪魔のような二人が向かい合う。
――開戦まで、あと三秒。そしてキョウが試合の合図をする。
電子音が鳴り響いた瞬間、レインは軽く右手を掲げる。
指先から淡い粒子が舞い上がり、空中で渦を巻く。
やがてそれは黒い傘の形を成した。
「――《ラルム》……ふふ、最初から全力で行かせてもらうわよ」
対するシルファは何も言わない。
ただ、静かに目を閉じ――次の瞬間、両手に青い光が灯る。
空気が震え、鋭い金属音が鳴った。
彼女の掌から生まれたのは、左右一対の小さな包丁。
刃の縁が青い光を放ち、空気を切り裂く。
「――《蒼刃》」
冷気のような気配が走る。
そして、次の瞬間。
「っ――速い!?」
レインの視界が一瞬で埋まった。
シルファの姿が消えたのだ。
風を裂く音と同時に、背後から殺気が襲う。
レインはとっさに傘を後ろにかざす――
甲高い金属音が響き、衝撃が腕に走った。
それから直ぐに別の青い残光が走る。
――速い。
目で追えない。
「なっ……!?」
レインが目を見開くより早く、頬をかすめて青い閃光が通り抜けた。
遅れて、髪の一房が宙を舞う。
「……っは、冗談でしょ!?」
息を呑んだレインの耳元で、囁くような声が響いた。
「くぅ……っ!!近すぎて距離が取れない!」
「距離?それを取る暇があるとお思いで?」
次の瞬間、シルファが回転。
流れるような動作で、包丁の刃が三度閃いた。
防御しても、衝撃だけで全身が痺れる。
「そんな顔も……悪くありませんわね」
振り向いた瞬間、刃が迫る。
レインは傘を展開――ギィンッ、と火花が散った。
金属の摩擦音が訓練場に響く。
「おい!!シルファ……やりすぎだって……!」
ケイが叫ぶが、届かない。
――もう、彼女の耳には何も入っていなかった。
蒼刃が再び唸る。
レインの傘が弾かれ、床を転がる。
そのままレインの左腕を掠め、閃光が走った。
「ぎゃあああああッ!!」
焼けるような痛み。
倒れ込んだレインが腕を押さえ、目を見開く。
血は出ていない。けれど、神経が焼き切れるような痛みが脳を貫く。
「これが……精神的ダメージ、ね……!クソッ……!」
「ふふ……いい悲鳴ですね」
シルファは笑った。
それは“戦いを楽しむ”というより、“苦痛を愛でる”笑み。
刃を舐めるように視線を落とし、瞳を細める。
「その顔、もっと見せてくださいな……」
彼女は二つの包丁を逆手に構え、再び突進した。
床を蹴る音が爆ぜ、風圧がレインを叩く。
レインは傘を再構築しようとするが、指先が震えて力が入らない。
「動け……動けっての……ッ!」
「動かなくても結構ですよ。――切り刻むだけですから」
「レ、レイン!!に、逃げろぉぉー!!」
カイトの叫びも届かない。
シルファの一撃が、まるで音速。
レインの太ももを斜めに裂き、彼女は膝から崩れ落ちた。
「ひっ……や、やめ……待って……ごめんなさ――」
「謝る?あなた、何に対して?」
シルファは屈みこみ、包丁の切っ先をレインの頬に当てた。
肌が焦げるような痛み。
そのまま頬をなぞるように、薄く線を描く。
「ケイを誘惑しようとした罪に……罰を」
――刃が、頬を切り裂いた。
「ぎゃああああああッ!!!」
レインの絶叫が響く。
観客の数人が顔を背けた。
ユウヒが思わず口を押さえる。
「ちょ、ちょっとヤバくない!? 訓練だよね~!? これ!!」
カイトが低く唸る。
「……違ぇな。あれはもう“殺意”だ。完全にスイッチ入ってる」
シルファがゆっくりと包丁を構え直す。
もう片方の刃も、蒼く光る。
その瞳――獲物を解体する前の、静かな歓喜。
「――あぁ、綺麗。あなたが壊れていく音が、こんなにも心地いいなんて」
レインは這うように後退しながら、震える声で叫ぶ。
「た、助けて……お願い、もうやめてよォ……!」
「その声……もっと聞かせて……」
シルファが振りかぶる。
その瞬間――。
「そこまでだ!!」
ヤヤが飛び込んだ。
青い刃と、ヤヤの腕がぶつかる寸前、フィールド全体が閃光に包まれた。
バシィィィッ!!
青のラインが一瞬だけ点滅し、戦闘強制停止。
空気が爆ぜ、衝撃波が走る。
「……降参だ」
ヤヤの声は低く、しかし確固としていた。
フィールド中央で、シルファの刃がピタリと止まる。
「……どいてください。せっかくの二枚目の顔が台無しになりますよ?」
「ダメだ。レインはもう降参してる。聞こえただろ」
沈黙。
次の瞬間、シルファの肩がわずかに震えた。
「……」
刃が静かに霧散する。
光が消え、訓練場は再び静寂に包まれた。
レインは膝を抱え、涙と震えで声も出ない。
ユウヒが医療班を呼びに走り、カイトは小さくつぶやく。
「……あれがコードI……茜坂シルファ……わ、笑えねぇ」
ケイが静かにフィールドへ降り立ち、シルファを優しく抱き締める。
「……もういい、もういいんだ……シルファ」
シルファは頬赤らめ、ゆっくりと微笑んだ。
けれどその笑みの奥には、まだ“残響”があった。
――冷たく、鋭く、そしてどこか甘い狂気。
「……ケイ、あなたは私のものです。」
「ああ……俺はどこにも行かない……お前の側にいるから」
レインは震える手で胸を押さえ、息を整える。
キョウが静かに立ち上がり、試合終了を宣言した。
「――勝者、コードⅠ・茜坂シルファ」
その名が告げられたとき、誰もが息を飲んでいた……




