第35話「茜坂夫婦、降臨。」
天井の照明が落とされ、スクリーンに新たな文字が浮かぶ。
――PROGRAM 02 : COMBAT SIMULATION(模擬戦)
技術班の手が一斉に動き、各隊員のデバイスが起動する音が響いた。
淡い青の光がフロアに広がり、緊張の空気が満ちていく。
キョウが前に立ち、静かに口を開いた。
「これより、チームごとの模擬戦を行う。
……だが、まだコードⅠとコードⅨの姿が見えないな」
その言葉に、訓練場全体がわずかにざわめく。
最強のチーム――コードⅠの不在は、誰もが気になる。
一方で、コードⅨのマリサ、ミナそしてリュウジのチームも現れていない。
不安と好奇の入り混じる沈黙。
その時――
――ガチャリ。
重厚な扉のロックが外れる音。
ゆっくりと開いた扉の隙間から、白い光が差し込む。
その光の中から、
ひとりの男と、その腕にしなやかに絡む女が現れた。
「コードⅨなら、来ませんよ――」
穏やかな声。
だが、音の響きだけで場の温度が数度下がったようだった。
白いワンピースに金のポニーテール。
透き通るような青い瞳が、淡い光を帯びている。
その横顔は微笑んでいるのに、どこか人間離れした静謐さを持っていた。
茜坂シルファ。
彼女は夫である茜坂ケイの左腕に優しくしがみつきながら、ゆっくりと歩みを進める。
まるでその姿だけで“世界が二人を中心に回っている”かのようだった。
「彼女たち……私の夫に“無礼な真似”をしましたの。少しだけ……お仕置きを。ですから、今日は来られないと思います」
その穏やかすぎる言葉に、誰も笑えなかった。
空気が、静まり返る。
ケイが頭をかきながら苦笑した。
「いやぁ~、ほんと悪ぃ!俺は止めたんだけどさ……なんかもう、止まんなくて」
「あなたが優しい顔をするからです」
シルファが頬を少し赤らめくすりと笑う。
その瞳は愛おしげで、同時に狂気の縁をかすめていた。
「“他の雌と話さないで”って、何度も言ってるのに。あなたが笑うと、誰でもあなたを好きになってしまうんですもの」
「ははっ、それは困ったな。……けど、俺が女に対して素で笑うのはお前の前だけなんだがな」
「……ええ、そうでなければ、他の雌は皆殺しにしてます」
二人のやりとりに、訓練場の誰もが息を呑む。
美しさと恐怖が、奇妙に混ざり合っていた。
ヤヤがユウヒの方へわずかに顔を寄せ、低く囁いた。
「……あの女……あの時の」
ユウヒもまた、視線をシルファへ向けたまま息を呑む。
その表情には、軽口を叩く余裕など一片もない。
(――間違いない。トラモント亭の……あの時の店員さん……!)
夕焼けの光、金のポニーテール、そしてあの微笑み。
記憶が脳裏で重なっていく。
だが今、彼女の纏う空気はあのときの穏やかさとはまるで違っていた。
「おい……マジかよ」
カイトが煙草を指の間で止め、息を漏らす。
「あの定食屋の姉ちゃんが最強のコードI……茜坂シルファだと?」
レインが瞳を細める。彼女の視線はシルファではなく、その隣にいる長身で精悍な顔立ちにより、異様な存在感を放っている男、茜坂ケイだった。
ごくりと唾を飲み込み顔を少し赤らめ静かに呟く。
「……あの男が茜坂ケイってことね。たしかに……超絶美形……ヤヤ君を少し大人にした感じ……超どストライクだわ♡」
カイトはまさかのことに動揺をいまだに隠せなかった。
「……ボスの言う“化け物クラス”っての、まさかあの女とはな。人は見かけによらないもんだ……」
ヤヤはまだ言葉を失ったまま、ただ彼女の動きを目で追っていた。
あの日と同じ笑顔。
けれど、そこに宿る瞳の奥――
確かに“戦場の人間”のそれだった。
キョウは腕を組み、わずかに笑みを浮かべる。
「……なるほど。コードⅨの棄権理由は把握した。
コードⅠは午後から参戦、というわけか」
それに対してケイが自信に満ちた顔で答える。
「そういうことだ。遅刻したぶん、派手にやらせてもらう」
シルファがゆっくりとケイを見上げ、微笑んだ。
「……ねぇ、ケイ。私、あなたの邪魔はしません。
でも――あなたをイヤらしい目でみる女がいたら、容赦しませんからね?」
「ん?まぁそんな心配ないだろ?訓練中だぜ?」
「そうだといいのですけど……」
シルファは能天気に笑うケイを見上げ、ほんの少しだけ頬を膨らませた。
(こんなに見せつければ……もう誰もケイに寄ってこないはず)
安心したように彼女は一歩下がり、静かに周囲を見渡す。
訓練場の空気はまだ冷たく、誰もが二人の存在に息を潜めていた。
――だが、ほんの数分後。
この穏やかな静寂が、一瞬で吹き飛ぶことになるとは、誰一人として予想していなかった。




