第32話「潮風とゼロ距離」
翌朝――金曜日。
快晴。
空は青く澄み渡り、風は潮の香りを運んでいた。
港に響くエンジン音。
カモメの鳴き声。
「飛島行き」の白い定期船が、ゆっくりと桟橋を離れようとしていた。
甲板には、朝日を背にしたヤヤとユウヒ。
……が、二人の間には妙にぎこちない沈黙が漂っている。
「……お、おはよう」
「……おう」
二人とも、視線を合わせない。
風が吹いて、ユウヒの髪が揺れた。
ヤヤの胸が、わずかに高鳴る。
(……なんで昨日のこと、思い出してんだ俺)
ユウヒも同じだった。
(うぅ……どうしよう……。顔、見たら絶対思い出す……あの、近さ……)
頬が熱くなる。
心臓の音が耳の奥で響いて、波の音が遠く感じる。
――沈黙。
レインが唐突に割って入る。
「……怪しい。昨日私がホテルに着くまで何かあったわよね、絶対!!」
「な、なにが……かなっ!?」
ユウヒが慌てて振り向く。
「声が小さい。会話が三秒で終わる。……恋愛現場、確定!!」
「き、気のせいだよ~」
「……怪しさ、92%」
ヤヤも慌てて否定しようとしたが、
声がわずかに裏返った。
「い、いや、レイン……そ、そんなわけないだろ」
レインが腕を組みながら分析を続ける。
「はい。ますます怪しい。声のトーン上昇。目の泳ぎ。反応の遅れ。……怪しさ95%!!」
「な、なんで上がってんだよ?!」
そこへ、缶コーヒーを片手に登場するカイト。
「うるせぇな朝から。何の取り調べだ?」
「恋の現場検証中」
「知らん」
一言で切り捨てて去っていく。
カイトの背中からは、経験豊富な大人の余裕が漂っていた。
定期船は、ゆっくりと沖へ出ていた。
港が遠ざかり、桟橋の人影が豆粒みたいに小さくなる。
朝の光が海面を銀色に反射し、風は潮とディーゼルの匂いを混ぜて吹き抜ける。
甲板の下では、船体が波を叩くたびに「ドン、ドン」と低い音が響いていた。
遠くには鳥海山の青い稜線。
空と海の境目がゆらぎ、船の白い航跡が一本の線を描いて伸びていく。
その時、船がぐらりと揺れた。
「わぁっ!?」
ユウヒがよろけ、ヤヤの胸に倒れ込む。
「……だ、大丈夫か?」
反射的に抱きとめるヤヤ。
……距離、ゼロ。
潮の匂いと、彼女の髪の香りが混じる。
一瞬、風も止まった気がした。
「…………」
(ち、近い……!心臓うるせぇ……!)
(ど、どうしよう……顔が……ヤヤ君の顔が近いっ……!)
視線が合う。
互いの瞳に、空の青が映り込んだ。
――一秒。
――二秒。
どちらも動けなかった。
そしてユウヒが真っ赤になって飛び退く。
「ご、ごめんっ!わざとじゃなくてっ!」
「あ、ああ……気にすんな……」
そんなドギマギした雰囲気の二人をみてレインはスマホを構える。
かなり不機嫌そうな表情で口を開く。
「はい。完全に黒。証拠、保存完了っと。……ヤヤ君。後で二人きりで話あるんだけどいいかしら?」
「いや、ちょっと忙しく――」
「来てくれるわよね?!?!」
「は、はい……」
ユウヒが慌てて割って入る。
「ちょ、ちょっとレインちゃん!? な、なんの話なの!?」
「別に。チーム内の連携確認。まったく個人的な用事じゃないわ」
「でも顔、赤いけど?」
「赤くないっ!!!」
その声が海風に乗って、波間に消えていった。
三人のやり取りを聞きながら、カイトが船尾で軽く伸びをする。
白い波しぶきが陽にきらめき、遠くに島影が見え始めていた。
「まったく揃いもそろって……おい!三人ともそろそろ着くぞ。降りる準備しろー」
「!!」
潮風とエンジン音だけが響く中、
飛島の緑が、少しずつ近づいてきていた。




