第31話「月灯りに口づけを」
夜八時。
日本海の風が、ゆるやかにカーテンを揺らしていた。
山形県・酒田市。
翌朝から始まるジャスティス全チーム合同“強化訓練”のため、ヤヤたちは前日入りしていた。
ビジネスホテルの一室――
カイトはすでに缶ビールを並べ、ひとりで酒盛りをしている。
「明日からどうせ地獄なんだ……!……なら飲むしかねぇ……!」
そう言い残し、数分後にはベッドに沈んでいた。
ヤヤは苦笑しながら毛布を掛け、そっと部屋を出る。
夜気が廊下を抜け、わずかに潮の匂いを運んでいた。
エントランスを抜けると、街は静かだった。
街灯の光がアスファルトに滲み、遠くに日本海の波音が微かに響く。
その時、ホテルの自動ドアがもう一度開いた。
「……あれ、ヤヤ君?」
声の主はユウヒだった。
白いパーカーにショートパンツ、髪は少しだけ結んでいる。
その姿に、ヤヤは思わず一瞬だけ視線を奪われる。
「ユウヒもか」
「うん、部屋にいても眠れなくて。……明日、なんかドキドキするね~。でもちょっと楽しみかも」
「まぁ、最強チームが来るらしいしな」
二人は自然に並んで歩き出した。
酒田の夜は都会よりもずっと暗い。
だからこそ、星がよく見えた。
静かな街を抜け、最上川の河川敷に出る。
川面には月がゆらめき、夜風がふたりの間を通り抜けた。
階段に腰を下ろすと、ユウヒが足をぷらぷらと揺らす。
「……本当に嘘みたい」
「どうしたんだよ、急に」
「こうやって自由に生きられることだよ~」
その言葉の後、二人の間に少しの沈黙が訪れる。
虫の声と、遠くで砕ける波の音だけが、世界の呼吸のように続いていた。
ヤヤは横をふと見る。ユウヒはしばらく月を見上げていた。
その横顔が銀の光に照らされて、まるで夢の続きのように儚い。
そして沈黙の時間は終わる。ユウヒはヤヤの方を向き尋ねる。
「ねぇ、ヤヤ君……」
「なんだ」
「覚えてる?……あの時のこと」
彼女は視線を落とし、両手を膝の上でぎゅっと重ねた。その指先は少しだけ震えていた。
「黒蓮幇を裏切ったら、私は死ぬ。あの“呪い”がある限り、自由なんて――絶対に手に入らないって思ってた」
「……あぁ。覚えてるよ。忘れるはずがない」
ヤヤは短く答える。
あの夜。
ユウヒの胸に浮かんだ黒い紋様。
彼女と戦ったあの瞬間。
「……俺はユウヒにはいつも笑っていて欲しかった。だがら絶対に助けたいと思った……」
「ふふっ……ヤヤ君のおかげで、私の人生、変わっちゃったんだよ?責任とってよ~」
「せ、責任って……」
それからユウヒはそっとヤヤの肩に頭をのせる。
柔らかい髪が、潮風に揺れる。
その体温が、夜気に溶けるように伝わってくる。
「……ありがとうね、ヤヤ君」
「……」
その声は、まるで祈りのように小さく、でも確かに胸の奥に届いた。
ヤヤは何も言わず、そっと彼女の手を取った。
冷たい指先が、自分の掌の中でゆっくりと温まっていく。
「……や、ヤヤ君……?」
まさかのヤヤの行動にユウヒはドキッとする。心臓の鼓動が一気にはやまる。顔が少し赤くなっているのが自分でもわかる。
(バ、バレていないよね?ち、ちがうっ!ドキドキさせるのは私なんだから……!)
そう思った時だった。ヤヤは真剣な眼差しでユウヒを見つめる。緊張感が漂う雰囲気の中ヤヤは口を開く。
「ユウヒ……」
「は、はい……」
「もし……これから先、黒蓮幇の連中がユウヒにちょっかい出してきたら俺を頼れ……俺が命に代えてもお前を守るから」
「……ふぇっ!?」
ユウヒの顔が一気にこれ以上ないくらい赤面する。まるでトマトのように。いつもの大人びた余裕は今の彼女にはなかった。それでも最後の抵抗なのか誤魔化すかのように答える。
「な、何カッコつけてるんだよ~!!ヤヤ君!もう~!らしくないぞ~?」
そう言いながら笑ってみせたけれど、
ユウヒの胸の奥では、何かがゆっくりと熱を帯びていた。
風が少し強くなり、髪が頬をかすめる。
そのたびに、ヤヤの視線がそっと彼女を追う。
「……本気だよ」
低い声。
その響きに、ユウヒの笑いが止まった。
「え……?」
ヤヤはまっすぐに彼女を見つめていた。
その瞳には、戦場では見たことのない色があった。
優しさと決意――そして、少しの切なさ。
「お前が笑ってくれるなら、それで十分だ。
……それ以外、俺には何もいらない」
ユウヒは、もう視線を外せなかった。
月明かりがふたりの間に降りてきて、
静かな河川敷が、まるで時間を止めたように静まり返る。
「ずるいよ……ヤヤ君……そんな顔で言わないでよ……」
声が震えた。
胸の奥で波がはじけるような音がして、
彼女の手は、もう自分の意思ではないようにヤヤの胸に触れていた。
距離が、少しずつ縮まる。
心臓が速く打つ音が、お互いに伝わるくらい近くなる。
「……ユウヒ」
「……ヤヤ君」
互いの名前を確かめ合うように、静かに呼び合う。
その距離は、もう息ひとつぶんしか残っていなかった。
ヤヤの手が、自分の頬に触れる。
指先が微かに震えていた。
その瞬間、ふたりの間にあった見えない壁が、
ゆっくりと、確かに溶けていく。
風が止まり、
月の光だけが静かに降り注ぐ。
波の音も、虫の声も、すべてが遠のいた。
世界がふたりのためだけに、息をひそめているようだった。
ヤヤの指先が、ユウヒの頬をなぞる。
そのぬくもりが、言葉よりも雄弁に想いを伝える。彼女は目を閉じた。
胸の奥で、何かがほどけていく。
恐れも、呪いも、過去の痛みも――
すべてが、彼の優しさに溶かされていった。
月光がふたりを包み、
その影がゆっくりとひとつに重なる。
時間が止まったような静寂の中で、
ただ、心と心が触れ合う。
それは、二人にとってこれ以上ないと思える幸せな一瞬だった……




