一 : 命を削りて尽くす忠-(9)伏見への招待
緊張状態も緩和された事で、大坂や伏見の民衆も少しずつ落ち着きを取り戻していた。
その最中、大坂の前田屋敷で動きがあった。父が伏見の徳川屋敷を訪問するという。
発端は、家康側から提案があった。
『大坂への移徙以降、大老同士の交流が絶えていた事が此度の騒動の遠因かと存じます。お互いの屋敷を訪問し、蟠りを解こうと考えますが、如何でしょうか?』
これを聞いた利長は“諸悪の根源は家康による『御掟』違反だろうが”と腹立たしい気持ちになる。父の体調も昨今の無理が祟り芳しくないのもあり利長は断るべきだと考えたが――当の本人である父は快諾したという。
「正気ですか!?」
家康の提案を受諾したと聞き利長は父に質すも、息子の心配を余所にサラリと答える。
「おぅ。気は確かさ」
「然れど、御体の負担が大き過ぎます! 今からでも断りを入れるべきかと!」
父の体調を気遣う利長は強く反対する。
大老筆頭である利家が訪問するとなれば、外聞もあるので気を張り続ける必要がある上に、移動の負担も生じる。利家にとって得など一つも無いのにどうして応じるのか。利長には父の考えが理解出来なかった。
息子がどう思ってるか顔に書いてあったようで、父はカラカラと笑いつつ理由を明かす。
「喧嘩を売られたのに買わぬ訳にもいくまい。面子が懸かっている以上、逃げるは恥ぞ」
利家の答えに、利長は唖然とした。今年六十二になる豊臣家の重臣が“喧嘩を売られた”だの“面子が懸かる”だの傾奇者みたいな言い草をするなんて――そこまで考え、はたと気付いた。
表情が変わった利長へ、ニヤリと不敵な笑みを浮かべながら真意を告げる。
「齢を重ねて多少分別はついたが、所詮は尾張荒子のしがない四男坊。傾奇者“槍の又左”の魂は捨てておらぬ」
活き活きとした面様で語る父に、利長は何を言っても無駄だと悟った。
それから、父は顔をグッと寄せると利長に耳打ちした。
「亡き太閤殿下は今際の際まで『秀頼のことを頼む』と懇願していたのに、半年も経たぬ内に掟を破ろうとしている。奴に『御掟』を厳守するよう説くが、もし聞く耳を持たぬようなら儂が斬る。儂が斬られたら、お主が仇討ちをしろ」
声を潜めながら、それでいてはっきりと言い切った父を反射的に見る利長。戦国乱世を生き抜いてきた者に相応しい死の覚悟を固めた武士の面構えをしていた。その姿に圧倒され、利長は息を呑んだ。この斬死云々の逸話は『利家公御夜話』に記載されているが、著者は村井長頼の次男・長明で偉大な主君を美化している点も多々ある事から信憑性に疑問が残る。ただ、それくらいの決意を持って臨んだ事に変わりはない。
父は、伏見へ死にに行く心算なのだ。そこで寿命が尽きても本望だと肚を括っている。そして、家康が手を下さなくとも“関与してない”事を証明するのは難しい。前田家や公儀(豊臣家)は『利家を謀殺した』という大義名分の下で家康を堂々と討つ事が出来る。最期まで利家は豊臣家の為に命を捧げようとしていた。
「では、頼んだぞ」
カラリとした笑みを浮かべ、利長の肩をポンと叩いた父は去って行った。骨や血管が浮き出た父の細い腕は、何かの拍子でポキリと折れてしまいそうで利長は本気で心配した。
利家の伏見・徳川屋敷訪問が正式に決まり、道中の警護や同行する者の調整などが迅速に進められた。その裏で、万一の事態に備え伏見へ攻め込む段取りも準備された。徳川方に悟られないよう秘密裏に行われていたが、期日が近付いてきても利長は腹を括れずにいた。女々しいと批難されようが、父には生きて帰ってきて欲しい。それは息子として当然の思いだった。反面、自分は前田家の当主であり父が家康に討たれれば弔い合戦をする義務がある。相反する気持ちに揺られ、複雑な心境を利長は処理出来ず日数だけが過ぎていった。
ただ一つ明らかなのは、伏見へ行く事が決まってから父の具合も機嫌も頗る良い事だ。それはまるで、蝋燭が尽きる前に炎が燃え上がる一瞬の煌めきのようだった――。
慶長四年二月二十九日、早朝。遂に、父が伏見の徳川屋敷を訪問する日を迎えた。
「お前様……」
見送りの中に、正室・まつの姿がある。
まつ、天文十六年〈一五四七年〉七月九日生まれで五十三歳。天文十九年〈一五五〇年〉に父・篠原一計が討死し、母の妹が嫁いだ前田利家の父・利昌の元に身を寄せた。永禄元年に利家へ嫁ぐと、永禄二年に長女・幸姫から始まり天正八年〈一五八〇年〉の六女・千世まで、十三歳から三十四歳までの二十一年間で二男六女を産んでいる。因みに、年齢は数え年(誕生時一歳)な為、現代に当て嵌めると初産は十二歳と当時でもかなり早い方である。天正十二年九月、佐々成政が能登と加賀を繋ぐ要衝・末森城を急襲した折、普段から吝嗇で兵を雇うより金銭を貯める事を優先していた利家に対し『金銀に槍を持たせて戦わせては如何か!?』と詰った上で銭の入った革袋を投げつけた逸話がある(但し、この逸話は創作色の強い『川角太閤記』に記載されている事から、信憑性に疑問が残る)。
また先述した通り旦那同士が仲が良いのと同じく、まつも秀吉の妻・寧々と非常に仲が良かった。慶長三年三月十五日に催された醍醐の花見では、宴席の場で北政所(寧々)の次に盃を受ける順番を巡り淀の方と松ノ丸(京極竜子)が争った際に(客人として招かれていた)まつが『歳の順なら私』と申し出て丸く収めた逸話が残されている。
利家が出仕停止処分を受けている間も乳飲み子を抱えながら支えてくれた糟糠の妻がわざわざ出てくるとは、今生の別れになる恐れがあると心配している証だった。
「心配するな。ちゃんと帰ってくるさ」
ニカッと笑った父は、まつの頭をポンポンと撫でる。それから利長の方に顔を向ける。
「頼んだぞ」
何に対して言及しなかったが、利長は「承りました」と応じる。伏見方面には有事を想定し多数の細作を放っており、徳川屋敷で騒ぎがあれば直ぐに報せが届く万全の体制を敷いている。そして、四半刻〈三十分〉で出撃可能な兵の支度も。
直後、父は用意された馬に跨る。せめて移動の負担を軽くする為に輿へ乗って欲しいと利長は求めたが、父は『それだと見栄えが悪かろう。それに、奴へ弱っていると思われるのは癪だ』と一蹴した。大坂から伏見まで船に乗るが、伏見に着いてからも馬に騎乗するとか。とことん矜持を貫く心算らしい。
「では、行ってくる」
それを合図に、一行は出発する。護衛の兵に続き父も動き出すと、前を向いたまま手を上げてヒラヒラとさせる。見送りに出てきた者達を少しでも安心させたい父の心遣いだ。
次第に小さくなっていく父の雄姿を利長は目に焼き付けようと、行列が見えなくなるまでじっと凝視し続けた。