終 : 新たなる戦いの始まり
天下分け目の大一番は一日で決着したが、それで全国各地の戦が即時停戦となる訳ではない。関ヶ原の結果が地方へ伝わるのに日数を要し、最上領へ攻め込んでいた上杉勢にその急報が届いたのは九月三十日だった。それでも東軍勝利の報が波及するにつれ、地方で繰り広げられていた争いも終息へ向かった。そして、関ヶ原から敗走した将も東軍方の厳しい捜索の網に掛かり始める。九月十九日には小西行長、二十一日には石田三成、二十三日には安国寺恵瓊が、それぞれ捕縛。上記三名は十月一日に大坂・堺を市中引き回しの上で京・六条河原にて斬首された。
一方で、西軍方の主要な大名達も御家延命へ動く。西軍の総大将に祀り上げられた毛利輝元は関ヶ原の敗報に接し、震え上がった。大坂には南宮山に陣取った毛利勢や大津城・田辺城を攻略し帰還した諸大名など多くの軍勢が戻って来ており、秀頼公を擁する利を活かし東軍と一戦交えるべきと主張する声も多く挙がったが、咎めを受ける事を何より恐れた輝元は明らかに腰が砕けていた。片や家康も関ヶ原の激戦や悪路の中山道を強行軍した影響で自軍は疲れ果てており、大坂の西軍勢と戦う余力は無かった。そこで家康は九月十七日に輝元へ“良好な関係を築く事を望む”旨の書状を送り相手の出方を窺うと、直ぐに同意見とする書状が返ってきた。これで輝元に戦意皆無と断じた家康は“素直に大坂城から退去すれば本領安堵”の起請文を送り、受け取った輝元は二十五日に大坂城西ノ丸から退出した。一番の難事を平和裏に解決させた家康は二十七日に大坂城へ入り、秀頼・淀の方へ拝謁し『天下を騒がせた不届者を退治した』と報告した。事前に淀の方へ『此度の戦は秀頼・豊臣家は一切関わりない』と言い含めていたのもあり、会見は平穏に終了した。
大坂城西ノ丸に居を構えた家康は十月十五日から順次論功行賞を発表した。関ヶ原本戦の勝利に大きく貢献した小早川秀秋は備前岡山五十一万石、福島正則は安芸広島約四十九万八千石、長岡忠興は豊前小倉約四十万石、黒田長政は筑前名島五十二万三千石、最上義光は出羽山形五十七万石と大盤振る舞いを見せた。他方、徳川家の家臣達も大幅な加増を受ける。家康の次男・結城秀康は越前北ノ庄六十七万石、家康の四男・松平忠吉は尾張清州五十二万石、井伊直政は近江彦根十八万石、本多忠勝は伊勢桑名へ移封し忠勝の次男・忠朝に旧領の上総大多喜五万石が与えられるなど、一門や重臣に要衝が与えられた。そして家康は関東以外に全国で直轄領を設け四百万石の大封を得たのみならず、豊臣家や諸大名が保有していた金山銀山を接収した事で財政面で大きく飛躍した。
反面、増田長盛や長束正家など西軍の中枢を担った者から長曾我部盛親・立花親成等の有力大名、その他関ヶ原本戦で寝返った赤座直保や小川祐忠も改易された。毛利輝元は“西軍総大将として東軍に敵対する行動を示す証拠が出てきた”として事前に取り決めた本領安堵を反故・改易処分が下されるも、東軍へ内通していた吉川広家から『(自分に与えられる)周防・長門を毛利本家へ与えてほしい』と必死に懇願し、百二十万石から約三十万石へ大幅減封という形で決着した。また、上杉景勝も一時改易が検討されるも直江兼続が正信の次男・正木“左兵衛”(後の本多政重)を婿養子に迎える等の思い切った条件で平身低頭の姿勢を見せた事で、米沢三十万石の減封で済まされた。そして、豊臣家も『(秀頼に罪は無いが)周囲の者達が戦を止められなかった責任は重大』として摂津・河内・和泉三ヶ国約六十五万七千石の一大名へ転落した。
そして――慶長五年十月十七日、利長へ正式な沙汰が下された。能登一国二十二万七千石・南加賀の内十八万三千石の加増、旧領と合わせ百十九万二千七百石となった。また、徳川家に非協力的な姿勢を見せた利政や前田家と交戦した丹羽長重などは改易されている。毛利・上杉の大減封で前田家は徳川家を除き諸大名で唯一百万石を超える太守に躍り出た。
能登・加賀・越中の三ヶ国を治める身となった利長だが、喜ぶ気持ちは欠片も無かった。
(浮かれてはならぬ。これは恩賞に見せかけた陥穽だ)
大坂の前田屋敷に帰ってきた利長は自室に籠もり、険しい表情を浮かべる。
今の立場は所領の広さは違えど豊臣家における徳川家の位置、即ち警戒に値する存在だ。寝首を掻くと疑われる行動は当然として、領内で一揆が起きたり家臣同士で諍いがあったりすれば徳川家から“大領を任せるに不適格”と認定され減封、最悪改易も有り得る。家康は利長の働きに最大限の厚遇を授ける裏で前田家の失態を虎視眈々と狙っていた。
(不幸にも、我が家は火種を抱えている)
知行宛行状を手に、重い溜め息を吐く利長。家中の対立は解消されず、痼りとなっている。
荒子時代から付き従う譜代と利家が大名へ出世してから仕え始めた本座者、仕官した年数の浅い新参、他家出身の外様に利長付の家臣団と混沌とした状況は変わっていない。譜代組の中には隠居した者も出るが、代替わりしても“荒子の土豪時代から支えてきた”誇りも受け継いでいる所為で家中融和に繋がらず、現在は但馬守を中心とする譜代・一門組と大膳を中心とする本座・外様組に二分し両者の溝は埋まらず拡がる一方だ。
利長が頭を悩ませる懸念は、もう一つ発生していた。
(家臣だけでも大変なのに、世継ぎの問題も出てきた)
前田家の後継者はこれまで利政に一本化されていた。利長は三十九歳、武将として脂が乗っている年齢だが突然の病や不慮の事故で急逝するかも知れない。その点、二十三歳の利政は後継者に打って付けの人物だった。
しかし、先の戦で軍令違反を犯した事を“造反行為”と重く見た家康は利政を改易にした。家康の命じる儘に従う利長へ反発した弟は喧嘩別れ同然に出陣し、関係を修復する暇すら与えられず領国を取り上げられてしまった。徳川に敵対したと見做された利政を次の当主に据えるのは心象が悪いし、一方的に処分された利政も元々抱いていた家康への嫌悪感は増したと容易に想像がつく。改易されても利長の家臣になる道も残されていたが、利政は前田家を去り京・嵯峨に隠棲する道を選んだ。この結果、前田家は次の家督候補が不在となった。
正室の永姫との間に子は居ない。それでも天正二年生まれで二十七歳の永姫も三十九歳の利長もまだ子どもを諦める年齢ではなく、今後嫡子が産まれる可能性はある。しかし、現状利長が急死した場合に徳川家はこれ幸いと嗣子不在を理由に改易するだろう。それは是が非でも避けるべく、世継ぎ問題を早急に解決する必要があった。
(これからは徳川の世になる。近付くべきは近付き、並行して有事の備えを進めなければ)
利長の頭にあるのは、武家の頂点に立つ徳川家との“融和”と“対抗”だ。家康や徳川家との絆を密にして“天下など狙っておりません”と体現する傍ら、前田家を潰そうとする動きがあれば武力を以て立ち向かう。上半身ではお互い笑顔で手を携えながら、下半身では相手の足を踏み掬わんと激しい攻防を繰り広げるのは戦国の世でもよくある事だった。親和を深めながら、懐に短剣を忍ばせる。肝要なのは短剣の存在だ。短剣を持っている“かも知れない”と相手に意識させる事で、自制に繋がる。硬軟織り交ぜ、生き残りを図ろうと利長は考えた。
ただ、非常に難しい立ち回りが求められる。徳川家の力を自家へ入れ過ぎれば家中の反発を招き、爪を研いでいる事が明るみになれば“謀叛を企てている”と討伐の大義を与えてしまう。一歩間違えば即破滅だが、やらねば前田家はいつか途絶えるだろう。自分の代で叶わずとも、道筋は付けておかねばならない。
(……“分別者”、か)
ふと、家康との遣り取りを思い出す利長。巷でもそう評されていると聞く。それは“傾奇者で漢気のあった父・利家に対し、御家存続の為に売られた喧嘩も買わず早々に白旗を揚げた軟弱者”と嘲りを込めて呼ばれている事も承知している。
(あぁ、そうさ。私は勝負の時を逸したし、勝負から逃げた。馬鹿にされて当然だ。しかし、身の程を知っているからこそ生き残り、大名一の版図を得た。分別者の強さ、とくと見ておけ)
直後、利長の口から「ククク」と笑みが溢れる。理由は不明だが、体の内から込み上げてくる衝動は口に達すると笑いに変換される。開き直りか自信か、何れにしても利長は悪い気がしなかった。
今の自分なら、出来る。無根拠な裏付けの下、利長は暫く静かに笑い続けた。
利長は前田家が抱える不安材料の解消に向けて動き始めた。
始めに、異母弟の猿千代を自らの養嗣子とし、後継ぎ問題を一先ず片付けた。また、慶長五年に猿千代は元服し“利光”と改名すると、正室を徳川家から迎えたい旨を利長の方から働きかけ、徳川秀忠の次女で家康の孫・珠姫との婚姻が成立。翌慶長六年〈一六〇一年〉に珠姫は輿入れした(あまりに幼過ぎる為に慶長十年〈一六〇五年〉四月の説もある)が、慶長四年生まれで三歳の幼子による結婚は徳川家へ恩を売りたい利長と前田家に徳川家の血を入れる事で取り込みたい家康の思惑が合致した結果とも言える。他にも本多正信の次男で徳川家を出奔していた正木左兵衛(本多政重)を三万石と破格の待遇で召し抱え、慶長八年〈一六〇三年〉に致仕し翌年直江兼続の婿養子になった後も慶長十六年〈一六一一年〉に上杉家を出奔すると慶長十七年〈一六一二年〉に帰参させ、重臣の座に就かせた。政重は豊臣恩顧の大名の内情を徳川家へ伝える間諜の密命を帯びていたが、一度去った者を再び迎え入れる事で“徳川家に隠し立てしない、敵意は無い”と示したのだ。
その一方、関ヶ原の戦い後に改易された赤座直保や内藤如安等を召し抱えた。約三十万石の加増に伴い人材を補充する目的だが、敢えて徳川家に敵対した人物を家臣にしたのは“もし攻めるなら抗戦する”と暗示する狙いが込められていた。また、美濃国境に近い越中の山奥・五箇山の地で当時海外からの輸入に依存していた硝石(塩硝)を製造し、有事への備えとした。また、慶長四年から築造を進めている金沢城下の整備も続行し、この事業は次代・利常(寛永六年〈一六二九年〉改名)にも引き継がれた。城下に点在する寺を三ヶ所に集約し防衛拠点の側面を持たせた事で、金沢城は惣構えと合わせ堅牢な防備が完成した。
他方、家中の分断改善は進むどころか悪化の一途を辿った。両派閥の軋轢から家臣間の抗争へ発展するのを危惧した利長は慶長六年に喧嘩両成敗・徒党禁止など十九ヶ条の定書を発するも効果は薄く、翌慶長七年〈一六〇二年〉五月四日に横山長知・山崎長徳に命じて太田長知を金沢城内で誅殺した。但馬守が始末された理由はよく分かっておらず、“関ヶ原以降徳川家との交渉を任された但馬守が家康に懐柔された”とか“利長の妾を寝取った”とか、果ては“狐に化かされた”とする非現実的な理由が真しやかに囁かれる程だった。譜代閥の中心人物たる但馬守を粛清する強硬手段で家中対立の幕引きを図るも、長徳が約束の刻限に現れなかった事に不信感を抱いた大膳との間で亀裂が入り鎮静化とは逆の結果となった。その後、横山長知と篠原一孝、さらに隠居していた奥村永福の三名を筆頭家老に据え、家中運営の基盤を築いた。
慶長十年六月二十八日、利長は幕府の許しを得て隠居。家督を利光へ譲り、自らは越中へ移った。ただ、家督を継いだ利光は当時十三歳と若年で、先述した三名の筆頭家老が政を行い、利長が後見人として暫く支える体制が暫く続いた。慶長十六年に永福が再隠居すると嫡男の栄明が引き継ぎ、これに政重を加えた四名が利光を補佐した。ただ、家中間の不和は解消されず、慶長十六年に利長が病を患い一時重篤になった折は具体的な個人名を挙げ連帯を求める遺書を認めた程である。
利長の苦難はさらに続く。慶長十八年〈一六一三年〉十二月に諸大名へ宛て『伴天連追放之文』が公布。この禁教令は外国人の宣教師のみならず吉利支丹の武士も対象で、前田家では高山右近や内藤如安などが該当した。慶長十九年〈一六一四年〉一月に右近達の身柄は幕府へ引き渡され、九月に国外追放された。客将として利長の良き助言役だった右近の損失は大打撃だったが、これで終わらない。同年二月に奥村栄明の弟・栄頼による自らへの讒言を“利長と政重が対応を協議した”と聞いた横山長知が忿怒、一族と共に出奔してしまったのだ。長知は十月に帰参すると翌年には栄頼が出奔するなど、家臣間の亀裂は結局利長の代で終息せず利常の代で決着する事となる。
そして――慶長十九年五月二十日、利長死去。享年五十三。死因は唐瘡(梅毒)とされるが(記録上は)永姫の他に側室は持たず、秀吉のような好色家とは程遠い生活をしていた利長が女性との媾合で感染する唐瘡に罹患するとは考えにくい。寧ろ、幕府と豊臣家の間で不穏な情勢となり、前年に利長の元へ豊臣家から“有事の際に味方して欲しい”旨の勧誘を受けていた事から、服毒自殺とする説もある。秀吉にはそれなりに恩義があるものの豊臣恩顧の者と家康や幕府から見られても困る。懊悩の末、どちらにも与せず毒を呷る道を選んだと考えれば腑に落ちる。
分別者と評された前田利長は、最後の最後まで呻吟した人生だった。しかし、混沌とし啀み合う家臣団の整理・修復、徳川家へ“融和”と“対抗”の方針を固めた事で、前田家は御家騒動を起こさず幕府の度重なる圧力にも屈さず明治維新まで御家は存続した。子孫達の機転もあるだろうが、身の程を弁えた利長が悩み悶え苦しみながら礎を築いた事が大きい。後世“加賀百万石”と地元民の自慢となる偉業は、利長の功績と言って過言ではないだろうか――。
(了)




